2020年08月16日「祈りの家に生きる」
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祈りの家に生きる
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- 橋谷英徳 牧師
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マタイによる福音書 21章12節~17節
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聖書の言葉
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしいた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。
「こう書いてある。
『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしている。」
境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。マタイによる福音書 21章12節~17節
メッセージ
主イエスは地上の御生涯の最後に、エルサレムにお入りになられました。このエルサレム入城のことがマタイによる福音書の二一章一節から一一節で語られています。その続きが今日、お読みました一二節以下の御言葉になります。「それから、イエスは神殿の境内に入り」とあります。主イエスは、ろばの子に乗ってエルサレムにお入りになると、そのまま一直線エルサレムの神殿にお入りになったのです。そして、主イエスがそこでなさったことが語られています。このことは「宮きよめ」と呼ばれてきました。
「神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、
両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」。
「神殿の境内」というのは、エルサレムの神殿にありました、異邦人の庭と呼ばれる広い庭のことです。この神殿は、ヘロデ大王が大改修工事をして立て直された大変に立派な建造物でした。その神殿の中の広い庭は広場のように多くの人たちが集まる場所になっていたのです。主イエスは、その庭に入られて、そこに店を出して商売をしていた人たちを追い出されました。両替人の台をひっくり返された。すると、台の上にあったお金は、辺り一面にものすごい音を立てて散らばったでしょう。さらには、そこにあった鳩を得る商人の座っていた椅子までも倒された。蹴飛ばされたのかもしれません。
それにしても、ここに描かれています主イエスのお姿は、私たちが普段、主イエスに対して、抱いているイメージと大きく異なります。主イエスは、物静かで優しいお方のはずではないでしょうか。
私たちの抱いてきたイメージが間違っていたのでしょうか。そうではありません。実際、エルサレムに主イエスは、ろばの子に乗って、「柔和で謙遜な王」として入って来られたばかりでした。しかし、ここではうってかわって主イエスは怒りを露わにし、暴力的とも思えるような振る舞いまで及ばれたのです。主イエスはいつもは物静かで慎み深く、柔和で謙遜な方でした。そのこと事態は、決して間違っていません。しかし、この時、ここでは違った。ここだけの特別なことだった。余程、人々にとっては忘れがたいことだったのでしょう。ですから、四つの福音書の全てがこのことを記しています。ヨハネ福音書にまでこのことが語られています。そのことはとても珍しいことです。
それにしても、なぜ、どうして、こんなにも主イエスは、激しく怒りを露わにされたのでしょうか。なぜ、こんな風に振る舞っておられるのか。私たちはそのことを問わずにはおられません。何かの意味が必ずそこにはある。大切なことが、このことによって主イエスが私たちに語られているのです。そのことを尋ねて聞き取りたいのです。その時に非常に重要になるのが、一三節の主イエスのお言葉です。
「こう書いてある。
『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしている。」
主イエスは、この時、このように語られました。神殿、「祈りの家」。主イエスはここで旧約聖書イザヤ書五六章七節を引用されてこう言われます。神の家であるがゆえに、そこは祈りの家なのです。しかし、この時、エルサレムの神殿は、祈りの家になっていなかった。それどころか強盗の巣になっていると言われたのです。
このことでまず考えられることは、神殿が祈りの家ではなく、商売の場所、お金儲けの場所になってしまっていたということです。日本でも大きな宗教施設になると、そこにお店が並んでいたりします。神社やお寺でもお祭りになるといろんな露店が並びます。たこ焼きや綿菓子など売っています。そういうことが問題なのかというと、少し違います。ここに「両替人」とありますが、これは一般のお金を、神殿に献げるための特別なお金に両替するための店です。鳩を売るというのも、犠牲として献げる鳩を売っているのです。鳩は貧しい人たちは献げものでした。でも巡礼にエルサレムにやってくる人たちが、いちいち鳩を捕まえて持っているわけにもい気ません。そこで便宜を図るために、鳩を神殿の中で売っていたのです。ですから、これらの商売は、みんな礼拝と関係があった。礼拝がなされるための商売でした。また同時に、貧しい人たちへの配慮のためだった。そこで利益を得ていた。それが神殿の当局者たちに多くの利益をもたらしていた。集金システムができ上がっていたのです。主イエスはそのことを「強盗だ」と言われた。確かにそうです。それはあったでしょう。
しかし、どうもそれだけのことではないのです。問題はもっと深いのです。今、申しましたことだとごく一部の人たちにしか関係がないことになりますが、もっと広い、すべての人たちに関わることです。
主イエスはここでこう言われました。「わたしの家は、祈りの家」と呼ばれるべきである。主の神殿は、祈りの家、真実な神への祈りがなされる場であると言われたのです。それは言い換えれば、主なる神様に本当に心を向け、神様との交わりに生きる場所である。神様を褒め称えて、その御言葉に聞いて、従う場所である。つまり、神殿は、真実な礼拝の場所であるということです。「ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」。真実な礼拝がささげられるべきところで、あなたがたがしていることは、自分の欲望を満たすことでしかないではないか。人を傷つけ、人のものを奪い取って自分のものにする、そういう場所になってい流と、主イエスは言われるのです。この「あなたたちはそれを強盗の巣にしている」という言葉は、エレミヤ書7章の言葉です。預言者エレミヤは、主の神殿の門で、そこで礼拝を献げる人たちに、語りかけるように神様から命じられたのです。
「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる」(エレミヤ七章二〜一一節)。
ここで神殿が強盗の巣になっているとは、単に商売して利益を得ている人たちがいるということではありません。神殿にやってきて、そこで礼拝をささげる人たち、犠牲をささげて、「救われた」と言っている人たちが、普段、何をしているのかが問われるのです。普段無茶苦茶な生活をしながら、礼拝をしに神殿にくると、「救われました。感謝です」などと言っている。それでは神殿は強盗の巣窟ではないか。つまり、神様も、礼拝も、自分の安心、平安のための手段でしかない。結局、自分の欲望を果たすための手段でしかない。それは本当の礼拝か。本当の祈りの家か。ここは強盗の巣窟ではないか。エレミヤと同じように主イエスはそう言われているのです。
神殿に礼拝にきた人たち、皆に向かってエレミヤはそのように語りました。主イエスもここで同じことをしておられるのです。主イエスがエルサレムにお入りいなった時に、最後に人々は、主イエスのことを、「ガリラヤのナザレから出た預言者イエス」と呼んでいます。確かにここで主イエスは預言者として振る舞い、語っておられるのです。
エレミヤは、涙の預言者と呼ばれます。激しく涙しながら、その働きをしたのですね。もしかしたら、この主イエスもただ怒っておられるのではないのかもしれません。嘆き、涙がここにあった、そう考えることはできないでしょうか。ある人はここには「主イエスの私たちへの激しい問いがある」と言いました。神との関係を問う問いです。あなたは、神とは、どんな方なのか。あなたに利益をもたらし、あなたの欲望を満たすためだけの方なのか。それともあなたは神に仕え、従って生きるのか。神から奪うことだけに生き続けて良いのか。あ主イエスはここで激しく、私たちに嘆きながら、問うておられるのではないでしょうか。
そして、以上のことと一四節以下で語られていることはつながっています。一四節には、「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちが、そばによって来たので、イエスはこれらの人たちをいやされた」とあります。これまでにも何度も繰り返されてきました、主イエスの癒しのみわざが語られています。しかし、ここでこのような癒しの奇跡が行われたということには特別な意味があります。ここに出てくる人たち、体に障害を負った人たち、目の見えない人や、足の不自由な人は、完全な形で礼拝を献げることはで気なかったのです。その人々を主イエスがここで癒されたのです。それは、彼らが礼拝を献げることができるようにされたということを意味します。主イエスが、神様との関係を癒された、回復されたということです。さらに一五、一六節では、この神殿の境内で、子供達が「ダビデの子に、ホサナ」と叫んで、主イエスを褒め称えているということです。子供たちは、当時の社会では、数に入れられない、そういう意味で人間扱いされていなかった人たちです。しかし、そのような子どもたちが、ここでは主イエスを褒め称えているのです。そうです。彼らは真実な礼拝を捧げているのです。その賛美の声を聞いて、祭司長、律法学者たちは腹を立てたのです。彼らは宗教の指導者たちで神への真実な礼拝を人々が献げることができるように立てられていた人たちでした。しかし、子供たちが礼拝をする、讃美の声を聞くと腹を立てたのです。そして、主イエスに、「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」と言いました。すると主イエスは、こう言われました。「聞こえる。あなたたちこそ、「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」。
主イエスは、子供達が賛美を捧げている、真実な礼拝をささげている、それをなさせているのは神様だと言われるのです。目の目ない人も、足の不自由な人も、子供達も、みんな礼拝できなかった人たちです。しかし、その人たちが、主イエスが来られたことによって礼拝を献げるようにされた、神がそうなさった。強盗の巣であった神殿が、真の礼拝の場に変えられているのです。
主イエスは、私たちに、あなたの礼拝は、本当の礼拝になっているか。神とのあなたの関係、交わりはどうなっているか。あなたは本当に神様を礼拝しているか。神に聞き、神従って生きるか。むしろ、神様も、礼拝も、自分のために利用するようになっていないか。神に対して強盗のようになっていないか。そう問われました。そう問いの前に私たちはどうすることもできません。主イエスの激しい怒り、嘆きの前に途方に暮れるほかありません。しかし、その私たちに主イエスは言われます。そのあなたをわたしが癒す。目の見えない人の目を開くように、足の不自由な人を歩けるようにしたように。わたしがあなたを癒す。そして、子供達に賛美の歌を歌わせたように神は、わたしを通してあなたに働いてくださる。どうしようもない私たちが「ダビデの子にホサナ」と喜び賛美の歌を歌うようにされるのです。
私たちは今日、こうして週のはじめの日、日曜日を迎えて祈りの時、礼拝の時を持っています。私たちは今、祈りの家にいます。教会は祈りの家です。神を礼拝する交わりです。私たちはここに生きます。そして、それは主イエスが来てくださり、十字架にかかってくださったことによります。そのことによって、神様と私たちとの関係が回復されました。祈りの家、がここに立てられました。教会は建物ではありません。交わりです。私たちがお互いに交わっているというだけではありません。神がここにおられ、キリストがここにいてくださいます。罪によって壊された神さまとの関係が、主イエスによってその十字架の死によって回復されたのです。そのために主イエスはエルサレムに入られて、十字架に向かわれるのです。そのことがここで明らかにされているのです。そこには激しいばかりの特別な思い、愛があったのです。それがここで語られていることです。ですから、今日も、癒されて、主を賛美したいのです。主イエスがお立てになったこの祈りの家に生きて行きたいのです。