2020年08月02日「目を開かれて、何を見ますか?」

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目を開かれて、何を見ますか?

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マタイによる福音書 20章29節~34節

音声ファイル

聖書の言葉

一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。マタイによる福音書 20章29節~34節

メッセージ

今朝の礼拝も、新型コロナ・ウィルスの感染の予防のため、特別な仕方で礼拝をささげています。このような中にありましても、恵みと平和が与えられますように。今日、ここで聞きます、み言葉が、苦難の多い、私たちの歩みを支えるものとなりますように。 また、ここに集うことができない方々にも慰めがありますように祈ります。

 

 さて、マタイによる福音書から御言葉に聞き続けて、第二〇章の終わりに至っています。この後の二一章からは、主イエスが、エルサレムで十字架にかかられ、復活される一週間、受難週の歩みが語られてまいります。そのようにして受難週が始まります直前のこととして、今日の箇所では二人の盲人の目が主イエスによって癒されたことが語られています。

 初めに「一行がエリコの町を出ると」とあります。エリコは、エルサレムに上る旅路の最後の宿場町です。エリコからエルサレムまでは二二キロほどです。主イエスと弟子たちの一行は、いよいよエルサレムに向かって進んで

行こうとしておられました。「大勢の群衆がイエスに従った」とあります。多くの人々が主イエスについてきたのです。よくはわからないまま従った者や、主イエスの教えや御業に感動して、この方こそ、救い主だと思い、従っていた者もいたでしょう。とにかく、大群衆が行列となってエリコからエルサレムに向かい始めたのです。「その時、二人の盲人が道端に座っていた」。道端に座っていたのは、物乞いをするためでした。エリコの街を出入りする人たちから施しを受けて生活していたのです。福祉制度などない時代ですから、こうして生きていくしかなかったのです。その二人の盲人が、主イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。大群衆の行進ですから、相当大きな声でないと届かなかったでしょう。ですから相当に、大きな声を出して叫んだ。この彼らの必死の叫び声に、一瞬、あたりはしずまったのではないでしょうか。その時、群衆はこの二人の盲人を「叱りつけて黙らせようとした」。彼らは意気揚々と、エリコの街を出たところでした。スタート早々足を止めたくはなかったでしょうし、これから大事な業をなされる先生を煩わせたくはないとも思ったでしょう。そこで「うるさい、黙れ、引っ込ん出ろ」そう言ったわけです。しかし、この二人は、そのような妨げに怯むことなく、「ますます、『主よ、ダビデの子よ、憐んでください」と叫んだ」のです。 

 主イエスは、ここで、この二人の叫び声をお聞きになられて、立ち止まられ、彼らを呼んでこうお語りになった。「何をしてほしいのか」。彼らはこう答えました。「目を開けていただきたいのです」。主イエスは、この答えをお聞きになると、主イエスはこの二人を深く憐まれた。そして、手を触れて、この二人の目は開かれて、見えるようになった。そして、この二人は主イエスに従ったと最後にあります。

 このようにして、主イエスのなさった癒しの御業が語られています。筋としては決して難しい話ではないでしょう。むしろ、単純で簡単なお話しであります。どこか他のところでも語られていたような、特別にどうといったことのない聖書の箇所のように思われるかもしれません。しかし、本当にそうなのかということを問わずにおれません。この二人の盲人の話は、マタイ福音書だけではなく、マルコにもルカにも語られているということです。そして、どの福音書も、主イエスがエルサレムにお入りになって、十字架に向かわれる、その直前の出来事として語っています。このことはとても大切なことです。つまり、大きな一つの区切りとなる箇所に、この出来事が語られています。主イエスのお働き、その歩みがここに行き着く。そして、ここから、主イエスはエルサレムに向かって十字架にかかられる。いわゆる鎹(かすがい)のような役割を担っています。主イエスという方がここまでなさってきたことは一体、何なのか。また同時に、ここから主イエスがエルサレムにおいて、また十字架の死においてなさってくださることは一体、何かということが私たちに語られているのです。

 そして、今日、特に、ご一緒に、心にとめて、改めて聞きたいのが、「主イエスがここで、この二人に「何をしてほしいのか」と問われている言葉です。「何をしてほしいのか」。「あなたは私に何をしてほしいのか」。

 主イエスという方は、このように問われる方なのです。この問いは非常に重要な問いです。

 私たちは、聖書を読んで、色んな疑問を持ちます。問いを持ちます。答えることができて、すぐに解決できるようなこともあれば、そうは簡単にはいかないこともあります。けれども、聖書を読む時に、とても大事なことだと思うのは、聖書を通して、神さまからイエスさまから問われるということではないかと思います。主イエスという方から、問われるのです。私という存在が神に問うのではないのです。そういう場所に立つのではない。そうではなく逆に問われる場所に身を置く。それが、信仰に生きるということなのです。そして、そこに生まれてくることがあります。

 私たちも今日、この聖書の箇所を開いて、ここにいるわけですけれども、そこで主イエスという方は、「あなたは、私に何を求めているのか」。あるいは、あなたは「何を求めて生きるのか」と問うてくださるのです。「いやーそんなことは、改めて問われることではないのではないでしょう。自分が求めていることくらい、自分が一番、よくわかっています」。そう思われるかもしれません。しかし、実はそうではないのです。

 「何をしてほしいのか」。この二人の盲人は、主イエスからこのように問われ、この主イエスから問いに対してこう答えました。「目を開いていただきたいのです」。この問答をどう思われるでしょうか。盲人が主イエスに目が開かれることを求める、それは聞くまでもない、当たり前のことだと思われるかもしれません。しかし、この二人の盲人はずっとエリコで物乞いをして生きていたのです。町の出口のところで、人々に施しを乞うて生きてきたのです。しかし、主イエスと出会った時に、二人の口からは、「目を開けていただきたい」という求めが出てきたのです。彼らは、ただただ毎日を生きることで精一杯だった。自分たちが何を求めているのか、なんて考えることすらなかったかもしれません。ただ何となく命をながらえているだけ。ただぼーと生きているだけだったのかもしれません。しかし、主イエスとであった時に、彼らの口から出たのは、「目を開いていただきたい」という求めだったのです。 そして、「何をしてほしいのか」、「この目を開いていただきたい」という問答ですけれども、それはただ、それだけのことではないのです。実は、この「何をしてほしいのか」という問いですけれども、この箇所の前の二〇以下にも同じ言葉が主イエスから語られておりました。

 ヤコブとヨハネの母は、主イエスの前に出てきて、ひれ伏して、何かを願おうとしました。その時、主イエスは、言われました。「何が望みか」と。この言葉なのですけれども、これは「何をしてほしいのか」と原文では、ほぼ同じ言葉です。そして、ヤコブとヨハネは、自分たちが来るべき時に栄光を受けることを願ったのであります。その時、主イエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているかわかっていない」とお語りになったのです。その前の、一九章でも一人の金持ちの青年が「どんな善いことをしたら、永遠の命を得ることができるのか」と主イエスに問うています。それを受けてさらに、弟子たちが、従ってきた私たちは何を得ることができますかと問うています。つまり、私たち人間の求める姿が語られていたのです。求めシリーズなのです。そして、今日の箇所につながっています。ここまで出てくる人たちは、弟子たちも含めてですけれども、何を求めているのか、何をして欲しいのか、実はみんな主イエスから問われているのです。そして、残念ながら弟子たちにしろ、みんな自分が求めているものがわかっていないのです。金持ちのように、修業して立派な人間に成長することを願ったり、、弟子たちのように立身出世して人びとを支配することを求めたりしたわけです。

 しかし、そういうところで、この二人の盲人が登場します。そして、「何を

してほしいか」と問われ、「目を開いていただきたい」と答えるのであります。そして、彼らは、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐んでください」というわけです。これこそ私たちすべてのものが求めるべきものであり、求めているものだというのです。つまり、ここに登場します二人の物乞いの盲人は、私たち自身なのです。「主よ、私たちを憐れんでください」という願いは、私たちのひとりひとりの中にもあるのです。私たちはみんなそれぞれに悩みや苦しみ、悲しみを抱えながら生きています。そして、この二人の盲人のように何を自分が本当に求めているのかということを考える暇もないような日々を送っているかもしれません。しかし、そんな私たちと主は出会ってくださって、「何を求めているのか」と問うてくださるのです。その時、私たちも、この盲人たちが、「目を開けていただきたい」と願ったように、私たちも

問題の解決を願う。それで良いのです。それは大切なことです。しかしですね、さらに、実はそう願う先に、私たちが本当に求めているものがあるのです。それが神さまの本当に深い憐みであります。心のめが開かれるということです。つまり、魂の救いです。

 この二人の盲人の願いは聞かれました。目は開かれました。主イエスは、深く憐み、手を触れてその目を癒されました。そして、彼らはどうしたのか。この二人は、「イエスに従った」とあります。目を開かれて、これでもう物乞いなどする必要はなくなった。生活の心配もないと言って、喜んで自分の家に帰って行ったというのではないのです。

 彼らは、主イエスと出会い、この主に従ったのです。つまり、彼らが本当に求めていたのは、憐み深い主との出会いであり、その方に従って生きるようになる生きる意味を見出していくいうことだったのです。それはちょうどあのぶどう園の労働者の譬えでも語られていたことでした。

 私たち人間の問題というのは本当に色々あります。病や障害、人間関係、仕事、家族。色んな問題の解決を私たちは求めて生きています。そのような中で、聖書は人間にとっての本当の問題は何かということを語っています。それは主の憐み、深い深い主の憐みを見失っていることであると、私たちにここで語っています。

 憐み深い主。神さまとの関係が人間は壊れてしまっているのです。神様の憐みが見えなくなる。ここに人間の罪の問題、根本の問題というのがあるわけです。私たちの抱える色んな問題は、結局はここに尽きるのです。しかし、その壊れた関係を主イエスは、癒してくださる。目を開いてくださる。そのために来られた。深い憐みの中に私たちを生かしてくださる。主イエスは私たちの魂の医者、救い主です。そのために主イエスは来てくださって、ここまでその歩みを続けてこられた。そして、この先に待ち構えているエルサレム、その十字架の死もこのためのものだと言うことです。

 主イエスは、「深く憐んで」と最後の三四節にはあります。この言葉はスプランクニゾマイという特別な言葉です。もともとは内臓という言葉から生まれた言葉で、はらわたがよじれるような痛みを伴う憐みを意味します。日本語だとおかわいそうに同情の意味になりますが、もっと深い特別な言葉です。他者の痛みが自分の痛みになるのです。しかも自分の内臓まで痛むくらいに痛むのです。主イエス・キリストのお姿を表す最も中心的な言葉だと言われます。この深い憐みがマタイによる福音書では、ここまで主イエスにおいて表されてきたことであったし、この憐みが、ここから語られるその十字架の死において表されるのです。そして、この主イエスが辿る道は、この主の憐みを見失って生きている私たちが、この憐れみの主と出会い、この主に従って生きるために与えられているのです。

 今日の箇所を読んで、改めて気づかされることがあります。この二人の盲人は、最初、遠くから、「主よ、憐んでください」と叫んでいた。そして、人びとからあっちに行けというように言われた。でもこの人たちは叫び続けた。そして、主イエスはこの二人を呼んでくるように言われた。そして主はこの二人に「何をして欲しいのか」と近くから問われ、二人は、願いを聞かれて答えられた。さらに今度は主は二人に触れて癒された。そして、二人は主について行った。主との距離、それがどんどん狭められているのです。主イエスが遠くからやって来られ、主に遠くから叫ぶ、さらに近くに呼び寄せられ、さらに、触れられ、くっついていく。まるで磁石のように吸い寄せられていますね。あるひとが今日の箇所ではなかったと記憶していますが、ある箇所の説教に、「マーベラス・マグネット」(不思議な磁石)という題を付けています。不思議な磁石とは、主イエス・キリストのことです。神の憐みの磁石です。この方が、私たちを本当に生かしてくださいます。

 「あなたは何をしてほしいのか」。主は今日、私たちにもこう問われます。そして、私たちが悲しみ、悩みながら生きているところで、本当に求めているものは何かを明らかにしてくださいます。わたしは、私たちは救われたいのです。神様の憐みによって救われたいのです。お祈りします。

 

 主よ、「何をして欲しいのか」、あなたは私たちにそうお問いになります。このあなたからの問いかけをよく聞き取らせてください。そして、あなたに求めているものを打ち明けることができますように。今日、私たちは気づかされました。私たちがあなたの憐み、憐みの主をこそ求めていることを、救いを求めていることを、この憐みの主に従って生きるものとしてください。

 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。