2020年07月26日「何を望みますか」

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聖書の言葉

 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」マタイによる福音書 20章17節~28節

メッセージ

マタイによる福音書を読み続けて、第二〇章のなかばに至りました。マタイによる福音書のはじめ四章一八節以下には、主イエスがガリラヤの漁師であった四人の人たちを弟子としてお召しになられたことが語られています。この四人がシモンとアンデレ、今日の箇所にも登場しますぜべダイの子ヤコブとヨハネです。彼らは、「わたしについて来なさい」、主からそう呼びかけられて主イエスの弟子となったのです。彼らは、ここから主イエスに従う者となりました。ほかにも徴税人や様々な人たちが同じように、主イエスの弟子になっていきました。弟子の中から特別に一二人が選ばれて、使徒とされました。全くの無名の人たちです。その彼らは、主イエスと共に歩む、旅を続ける中で変えられていきました。主イエスのお語りになるみ言葉は彼らの中に染みとおっていった。主の言葉を聞くと不思議と心の飢え渇きは癒され、生きる力が与えられていったのです。

 旅を続けるうちに、次第に多くの人たちが主の周りに集まってくるようになりました。ナザレのイエスのことは、ユダヤ中に言い広められるようになっていました。最初はごくわずかの人たちだけであったのが、今では、一つの大きな勢力にまでなっていました。主イエスのなさった力ある業、その語られるみ言葉が、人々を捉えていったのです。主イエスこそが神が遣わされたメシア、救い主であると、弟子たちをはじめ、皆が信じていました。主イエスは、エルサレムに向かって進んでおられました。これから始まることに、皆、期待に胸を膨らませるようになっていました。

 群れが大きく成長していく中で、これまでにない変化が起こりはじめました。この大きな群れ、集団の中で成功して、上に登っていきたいという思い、欲です。

今日の聖書の箇所の二〇節以下にはこのように語られております。

そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」

 「そのとき」とは、一七節から一九節に明らかにされています。主イエスは、一二人の弟子たちに十字架の死と復活の予告をなさったのです。これが三度目の受難予告です。エルサレムで十字架にかけられて死に、復活するという予告、大切なことを主イエスはあらかじめ告げられたのです。しかし、この主イエスの言葉を彼らはほとんど理解できなかった。二一章のはじめには、主イエスがエルサレムに人々の歓呼の中、入城されたことが語られています。熱気と興奮が主の一二人の弟子たちをはじめ、皆を包んでいました。何か大きな苦難が待ち構えているということはおぼろげはわかっていた。しかし、その苦難の後に必すやってくる勝利、栄光に心踊らせていたのです。

 「そのとき」、今のこのとき、この機会しかないと、ぜべダイの子ら、ヤコブとヨハネ、二人の兄弟の母が、ヤコブとヨハネを引っ張るようにして、主イエスの前にやってきたのです。彼らは主イエスの前に「ひれ伏しました」。ひれ伏すというのは拝む、礼拝するという言葉です。これは、主イエスの前にふさわしい姿です。今日、私たちも、このキリストの前に出て、礼拝します。何かを願おうとしていることに気づかれて、主は言われました。「何が望みか」。「何を願うのですか」、そう問われたのです。

 母はいいます。「王座にお付きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。

 「うちの子を重く用いてやってください」、そう願ったのです。これは母だけではなく、主の弟子であるヤコブとヨハネの願いでもあったのです。主イエスは、この願いをお聞きになられたとき、どんな顔をなさったでしょうか。

主イエスはこう言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているか。分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。主イエスが飲もうとされている杯、それは、十字架の死です。神の罪に対する審き、神の怒りの杯です。ヤコブとヨハネは言いました。「できます」。すると、主イエスはすぐに答えられます。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」

 主イエスと二人の弟子のこの会話は全く噛み合っていません。彼は、できないことをできると言い張ります。彼らは、自分たちのことがわかっていません。彼らは全く傲慢です。主イエスの御心も神さまの思いも見えてはいません。しかし、不思議にも、主イエスは、この二人を咎められません。「何を言ってるんだ」と言って叱ったりはされません。むしろ、主イエスはそのまま彼らの言葉を受け入れられます。どういうことでしょうか。主イエスは、彼らを特別なまなざしで見つめておられます。この二人の弟子たちも、その母も、見るべきものを見ることができてはいません。しかし、主イエスは見ておられます。愚かにも、高い地位を望み、傲慢な願いをする弟子たちの中に主イエスはご覧になっています。彼らは主イエスによって、その十字架の死によって贖われ、罪を赦され、神の子とされます。復活の主に召されて、聖霊を注がれて見えるようになります。そして、最後まで福音を宣教していきます。彼らが、福音を宣べ伝えるためにどれほどの苦しみを味わうのか、またどのようにして神の栄光を表すのかを見えておられます。

 主イエスは霊的な眼差しをここで向けておられます。私たち人間の肉の眼差しは、今の状態にしか見ようとしません。しかし、霊的な眼差しは違います。未来から見ます。ある神学者は、この眼差しを、インマヌエルの地平で他者を見る、あるいは創造的に他者を見る、発見すると呼びました。インマヌエルというのは「神、われらと共にいます」ということです。神が共におられる、このヤコブとヨハネと一緒にいてくださる、だから、今、彼らが分かっていなくてもやがて、このようにしてくださると信じることができる。神が導いてくださる。またそれは創造的に見る、神が御言葉によって何もないところから万物を創造してくださるように、私たちを新しく創造してくださる。そういうことの中で他者を見るということです。私たち人間の肉の目は、人を立たすことはできません。しかし、主イエスの眼差し、霊の目は、人を立たせ生かします。主イエスという方は、そういう目をお持ちで、私たちにも、こういう眼差しを向けてくださるお方なのです。私たちも無理解で、どうしようもないものです。何を願っているのかもわからないで、主イエスに願いをしていることがあります。でもそんな私たちのことも、すべてをご存知で、私たちを新しい眼差し、私たちが思ってもいないような眼差しで、見出してくださるお方なのです。

 私たちは、他者をどのように見ているでしょうか。自分の家族、自分の子どもをどう見ているでしょうか。あるいは、自分自身を、どういう目で見ているでしょうか。今の状態だけを見ていないでしょうか。主イエス・キリストにおいて、神が共にいます。主がおられる。人間の目とは異なる、主の眼差しがあるのです。それは思ってもいないほどに恵み深いものなのではないでしょうか。

 

 さて、このヤコブとヨハネのことを耳にした残りの弟子たちは、当然のことながら心穏やかではなかったようです。彼らは、二人のことで「腹を立てた」とあります。それは残りの一〇人の弟子たちも、結局は、二人と同じ思いであったということです。それは私たちにもわかることではないでしょうか。私たちもまた同じ思いを持っています。人の上に立ちたい。自分で自分を高くしたい。自分で自分を救いたい。誰もが自分のことが心配、なんとかしたいそう思って生きています。誰もが自分が大切。自分や自分の身を案じて、必死に生きようとしているのが私たちでしょう。そして、そこでは他の人との競争がどうしてもある。競争の中で、上に登ってい生き抜かなければそういう思いに囚われて生きてしまうのです。

 このような弟子たちに主イエスは、語りかけレました。

 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

 主イエスのこの言葉は弟子たちに大きな転換を迫る言葉です。自分のことばかり考えて、自分や自分の家族の将来のことばかり心配している者に対して、他の人に仕える者になりなさいと言われたのです。すべての人の僕になれと言われたのです。「仕える者」というのは、「給仕する者」という言葉です。真っ先に自分の食事に飛びつくものではなく、まず他の人の食事の世話をするのです。「僕」というのは、「奴隷」とも訳すことのできる言葉です。

 この主イエスの言葉から、主イエスという方がいったいどういう方なのかということが私たちに示されています。主イエスの姿が浮かび上がってきます。主イエスは、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われます。「同じように」とありますから、主イエスの姿は、私たちの手本、模範ということでありましょう。しかし、ここで主イエスが語られているのはそれだけのことではありません。主イエスは、私たちにお語りになられます。「私は、あなたのために自分の命を献げる。あなたの救いは、わたしが成し遂げる、私があなたを救う。だからはあな他はもう自分で自分を救う必要はない。あなたは自分のためにもう何も心配しなくていい。だからあなたは、他の人に仕えなさい。他の人のために自分自身を献げていきなさい」。

 これまでは、すべての目標は、自分自身のことであったのです。自分がどうなるか、自分の目標、自分の願いの実現。自分がどう幸せになるか、救われるか。そうやって自分のことを追い求め続けて生きてきたのです。

 しかし、そのような私たちの中に主イエスは、入り込んで来られます。主イエスは、私たちと出会ってくださいます。そして、私たちを救ってくださったのです。そのときに、私たちの生きる方向は変わってきます。自分のことばかり追い求めていた生きていた人が方向を変えて生きていきます。与えられた主イエスの恵みが満ち溢れてきます。

 これはなんとかして、歯を食いしばって頑張って自分を捨てて、他の人に支えていく生き方というのではありません。自分のことはもう主に委ねてしまって、心配することから解放されて生きる生き方です。そうせずにはおれなくなるのです。主イエスは、そういうところに今日まで、代々の弟子たちを生かしてこられました。

 主イエスは、このとき弟子たちを、この言葉を「呼び寄せて言われた」とあります。私はこのことがとても大切だと思います。弟子たちは主イエスから、呼び寄せられた人たちです。「私についてきなさい」と言って、主イエスに召された。その弟子たちを、ここでもう一度、呼び寄せられた、召された。そして、導いてゆかれるのです。私たちも今日、主イエスから呼び寄せられて、御言葉を与えられています。「あなたのことは私が救った。だからもう自分で自分を一生懸命になって上に登る必要はない。救う必要はない。だからあなたは他の人のことを心にかけて生きてほしい。私がしたように」。

 主イエスは、今日も「何を望みますか」と聞かれます。「あなたは何を願いますか」。

 主よ、あなたの御心が行われますようにと祈るようにと主は私たちに教えられました。主に召されて、主と共に歩む歩みを今週も続けましょう。