2020年07月05日「悲しみながら立ち去った人」

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悲しみながら立ち去った人

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マタイによる福音書 19章13節~22節

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聖書の言葉

そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。
 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。マタイによる福音書 19章13節~22節

メッセージ

今日の聖書の箇所は、二つの出来事からなっています。一つは主イエスが子供たちに手を置いて「天の国はこのような子供達のためのものだと」宣言されたこと。もう一つは、主イエスとひとりの金持ちの青年と出会いの出来事です。特にこの「金持ちの青年」の話は、広く知られ、親しまれてまいりました。三つの福音書の全てに記されています。このことは、はじめの教会でも、福音が語られるところで、この青年の話が語り伝えられてきたということを示しています。聖書にはたくさんの主イエスと出会った人たちのことが語られております。この青年もそのひとりです。しかし、この青年には、主イエスと出会ったほかの多くの人たちとは大きく異なるところがあります。この青年と主イエスとの出会いは、ハッピーエンドで終わってはいません。「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った」とあります。ほかの多くの人たち、少なくとも中心的な人物は皆、主イエスとの出会いは、喜びを、救いを与えるものとなりました。しかし、この人の場合はそうではなかった。「悲しみながら立ち去った」。主イエスという方にお会いしながら、また主ととても深い対話をしながら、この人は主イエスのもとから立ち去ってしまったのです。それだけでも、私たちにとってこの人のことは忘れることはできません。はじめの教会の人たちがこのことを広く語り伝えてきた理由もそこにあったのだと思います。

 それにしても、どうして、この人は主のもとから悲しみながら立ち去らなければならなかったのでしょうか。この人は、主イエスの前に立ったときに、恥じるところのないくらいに見事な生活をしていた人でした。彼は金持ちでもありました。青年であり若くもあった。また今日の聖書の箇所から、この人が良識を持った人、高潔な品性を持った人でもあったということを私たちは伺うことができるでしょう。普通に考えると、何もかも与えられており、何も不満はないと思われるような人です。しかし、彼はその内面に置いて喜びに生きていたのではありません。

 彼は主イエスのところにやってきて、こう問いました。

「先生、永遠の命を得るためには、どんな善いことをしたら良いでしょうか。」

「わたしはこれから何をしたらいいのでしょうか。わたしには何かがまだ足りません、それはわかります。その何かをわたしに教えてください」。

 彼には自分には大切なものが欠けているという感覚が絶えずあったようです。わけのわからない虚無感のようなものが彼を捉えていました。生きがい、人生の目標の喪失がありました。だからこそ、主イエスのもとにやってきてこのように問うたのです。この人は、ほかの多くの人たちのように罪を犯し、その痛みに苦しんで主のもとにやってきたのではありません。病気や苦難に苦しんでというわけでもありません。人は様々な道の中で主のもとにやってきます。このようなケースもあるのだということは重要ではないでしょうか。この人のように、青年ではなく金持ちではなかったとしても、わけのわからない虚無感、欠落感を抱き、生きがいを喪失して生きているのが今日の私たちでもあるのではないでしょうか。そのことに気付いている場合だけではなく気付いていない場合だってあります。そういうところでも、いやそういうところでこそ、キリストのもとにいって良いのです。いや行くべきであることを今日の御言葉は示し、私たちを招いています。

 

 さて、この青年の質問に主イエスは十戒を引用されて答えられます。特に、この時、主イエスは十戒の後半部分、隣人への戒めについて語られます。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」。これを聞くとこの青年は、こう答えました。「そういうことはみな、守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」。神の掟は、これまでずっと守ってきた。これは嘘偽りの思いではなく彼自身の正直な思いです。すると、主イエスはすかさずこう語られました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」。

 「貧しい人への施し」は、ユダヤ人の間でもとても重んじられていたことです。律法を幼い頃から守ってきたこの人は、おそらくこれまでも、施しもまた熱心に行ってきたことでしょう。しかし、主イエスがここでこの人に求められたのは、単なる貧しい人への施しではありません。彼の持っているもの全てを処分して、施すようにお求めになられたのです。これは一体、どういうことでしょうか。これは度を超した、無茶苦茶な要求です。しかし、主イエスは多くの財産を持つこの人にあえてこのようなことを求められたのです。何かほかの事であれば、ある程度、この人は無茶な要求でも従うことができたかもしれません。しかし、これは無理なことでした。この青年にとっては最も従うことがもっとも困難なことでした。しかし、そのことを承知で、否、そのことを狙って、主イエスはこのことをお求めになられたのです。では主イエスは意地悪でこんなことを言われたのか。そうではありません。もちろん、違います。それは、この人が、本当に知るべきことを知るためでした。

 この人は最初にこう言いました。「永遠の命を得るためには、どんな善いことをすれば良いでしょうか」。この問いは何を意味しているでしょうか。この人は、自分が何か良いことをすることによって、永遠の命、天の国の命の恵を得ようとしているのです。言い換えると、神さまと取引きをして、救いを獲得しようとしているのです。ですから、主イエスはその取引きを進められるのです。そうこの人に言われました。そうです。取引きを推し進めるならば、必ず、ここに至るほかありません。自分で買おうと思ったら、全額支払うほかありません。「そうすれば完全になれる」。この人は、これまで自分で永遠の命を得るために、自分で真面目に努力して功績を積み重ねて生きて来たのです。そのようにして天国の救いに達しようとして来た。しかし、まだ自分には何か足りないと思っていた。あと一つ、積木を積み上げてご覧、そうすれば完全になれる。主イエスは、この取引きをする生き方をあえて推し進められるのです。しかし、どうでしょうか。こんなことできるはずがないのです。仮に百歩譲って、それができたとします。それでも、それで永遠の命を買うことはできません。ですから、主イエスはここで、「そうすれば永遠の命が得られる」とは言われませんでした。「そうすれば天に富を積むことになる」と言われただけです。

 神の救い、天国は、お金では買えません。それだけではなく、人間の善い行いでも買うことはできません。神の救いは、そんなに安いものではないからです。それを、自分の善い行いで獲得できると思っていること事態が人間のとんでもない思い上がりなのです。そのことを知らせたい、気づかせたい、というのが主イエスの狙いでした。あえて破綻することに導かれたのです。

  主イエスは救い主です。救い主であるこの方は、この青年を、なんとしても救いたいと思っておられます。だからこそ、このような無茶苦茶な求めをなさったのです。これはこの青年だけのことではありません。救いにあずかるために、まず必要なのは救いの代価を私たちは到底支払うことなどできないということを知らなければなりません。だとすれば、この人が悲しみながら主のもとから悲しみながら立ち去ったということは、悪いしるしではありません。主と出会って悲しむことは悪いことではなくむしろ必要なことです。聖書の中に「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」(二コリント七・一〇)という御言葉があります。悲しみの全てが悪しきものではなく意味のある悲しみもまた存在するのです。この人だけではなく、人間というものは私たちもですが、また自分の救いを自分でどこかで自分で獲得しようとして生きることはいくらもあるのではないでしょうか。自分がする善い行いによって救いを得ようとすることがあるのではないでしょうか。

 しかし、それだけではありません。ここにはもう一つのことが語られております。今日の聖書の箇所、この金持ちの青年の話の前には、子供たちが主イエスのところに連れて来られたことが語られています。「イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った」。子どもたちが親たちに連れてこられます。主イエスに手を置いて祈っていただくためです。手を置いて祈るのは、祝福を与え、そのこが神様の恵みの下にスクスクと育つためでした。しかし、弟子たちは、連れて来た親たちを叱ります。それは忙しい主イエスをこれ以上、煩わせたくはないという配慮のためであったもしれません。けれども、子供たちは何も善い業をすることができないのに、祝福だけをいただこうというのはけしからんという思いもあったかもしれません。しかし、主イエスは、「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」と言われて、子どもたちを祝福なさいました。

 子どもたちの祝福と金持ちの青年の話、この二つの出来事は、ほかの福音書でもセットになっています。この青年と子どもたちはどうでしょうか。全く対照的ではないでしょうか。この青年は、非常に多くのものを持っています。豊かです。富を持っていますし、善い行いをし続けて生きて来たのです。しかし、子供たちはそうではありません。何も持っていません。善い行いも、何もできません。役に立ちませんし、邪魔な存在にすら見えます。しかし、何も持たないで主イエスのところに行き、受け入れていただいています。いやそれどころか、主イエスは「天の国はこのような者たちのものである」と言われるのです。主イエスは、天の国は、それにふさわしい立派な善い行いをしている人のものではなく、そのような相応しさを持っていない、何の善い行いもすることができない者に、ただ神の恵みによって与えられるものなのだと言われたのです。主イエスは、この青年に「持ち物を売り払って、貧しい者に施し、それから、わたしに従いなさい」と言われました。つまり、この金持ちの青年はここに生きるように、自分で救い、自分の豊さにではなく、神の恵みに生きるように招かれたのです。

 天国、救いの代価は、ものすごく高い。それを私たち人間は支払うことなど到底できません。しかし、この救いの高い代価を支払ってくださった方がおられる。それが主イエス・キリストです。この方は十字架にかかって私たちの身代わりに、死んでくださいました。この方は、私たちの罪の代価をご自身の血によって支払ってくださったのです。それが父なる神様の御心でありました。この主イエスを前にして、この青年は、「永遠の命を得るために、どんな善いことをしたら良いでしょうか」と問いました。すると主イエスは、「なぜ善いことについて私に尋ねるのか。善い方はおひとりだ」とお答えになりました。善いことではなく、善い方を求めよと主はおっしゃったのであります。善いこと、どんな善い行いをしたら良いのかではなく、ただおひとりの善い方をこそ、求めよと言われた意味も、このことです。私たちもどんな善いことをしたらいいのかと求めているところがあるのではないでしょうか。でも善い方をこそ求めよ、神ご自身、私たちを救うために、ひとり子であるイエス・キリストをお送りくださった神ご自身をこそ、求めて生きるようにと言われるのです。つまり、救われて生きるということです。そのために私たちに必要なことは、私たちが何かをすること、私たちの側の善いことではありません。むしろ、子どものようになることであります。何も持たないで、主イエスの懐にそのまんま飛び込んでいくことです。

 そしてこのキリストに救われて生きる、その罪を赦されて生きるときに、また初めて私たちもまたここで語られている、十戒の戒めに生きるようになるのです。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい」。神様と取引きするためではありません。ただ救われ、赦された感謝からそのように生き始めるのです。ある人は、この生き方はイエスさまの真似をする生き方だと言い換えています。でもそれは猿真似で、私たちの場合は、下手くそなのです。それでもいいのです。どんなに下手でもだめでも真似して生きる。赦されたように赦して生きるのです。そのように自分のように隣人を愛することが生まれます。

 先日、家族の会話の中で子供達の幼い頃の話になって思い出されたことがあります。我が家の子供は四人おりますが、その四人うちのひとりです。誰とは言えません。その子が幼稚園のとき、毎回、1日が終わって、最後のお別れのときに、担任の先生のところに飛び込んでハグをしてもらうということがその幼稚園ではありました。けれども、うちの子はそれがだめなんです。飛び込んで、いけない。「ぼくはいいです」と毎回言うのです。先生がこうなんですよと笑いながら話してくださいました。そして、実はそうやってとうとう卒園まで過ごしました。実は私も同じだったのです。そんな感じでした。親子とてもよく似ているのです。

 これは何もそう言う先生と園児という関係だけではなく、神様との関係でも同じところがあるかもしれないと思うのです。ですからですね。このひとりの青年は自分に似ているかもしれないとも思うのです。もちろん、私はこの青年のように金持ちでもなく、立派でもないのですが、そういうところがある。なかなか、自分を委ねきれない。無一物に生きれない。僕はいいですみたいになってしまう。何度か、実際に、御言葉を聞いて招かれても、僕はいいですというように、なってしまい、悲しみながら立ち去るというようなことをしてここまで生きて来たように思います。

でも、こんな私も主イエスという方は捨てられないのですね。これは私だけではありません。人間というものはみんなそういうところがあるのではないでしょうか。簡単には委ね切れないのです。悲しみながら立ち去った人なのです。でもそんな私たちを救ってくださるのですね。そういうことが今日の御言葉から聞こえて来るのではないでしょうか。

 この青年は、結局、どうなったか、ここには何も書かれていません。確かにここではハッピーエンドで終わっていません。悲しみながら立ち去ってしまった。しかし、この人は戻って来たのではないでしょうか。いや神様の恵み、キリストの恵みがこの人を追いかけたに違いありません。お祈りします。

天国の代価は、あまりに値高く、それを私たちは支払うことはできません。私たちの富も、どんな業も全く無に等しいのです。しかし、主イエスよ、あなたはこの私たちの救いのために十字架にかかってくださり、死んでくださいました。この主イエスが私たちに天国の恵みをくださいます。この救いへと私たちを今日も招いておられます。どうか、ただこの主の懐に飛び込んでいくことができますように。かたくなな私たちの心を柔らかくしてください。

そして、どうか主よ、み救いに感謝して、今週も生きることができますように。主の真似をして生きるものとしてください。主イエスのみ名によって祈り願います。アーメン。