2020年06月28日「神の恵みに思いを寄せて」
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神の恵みに思いを寄せて
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- 橋谷英徳 牧師
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マタイによる福音書 19章1節~12節
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聖書の言葉
イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。 大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。
ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。 イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」 そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。 だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。 言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
日本聖書協会 新共同訳聖書マタイによる福音書 19章1節~12節
メッセージ
マタイによる福音書を読み続けまして、今日から第一九章に入ります。ここはマタイ福音書において一つの大きな区切りとなるところです。はじめの一節には、主イエスが「ガリラヤを去られ」とあります。長い間、主イエスはガリラヤ地方でそのお働きを続けておられましたが、ここでこのガリラヤを後にされます。少し出かけてまた戻って来るというのではなく、もう戻っては来ることはない。去られるのです。そして、ユダヤ地方に行かれる。このユダヤ地方にエルサレムがありました。そこに向かわれる。この後の二一章には、主イエスがエルサレムに入られたことが語られます。主イエスの地上の歩みの1週間がここから語られていきます。そのエルサレム、十字架への歩みが、始まるのが今日の箇所、一九章です。
そこで、主イエスに対して、ファリサイ派の人たちから離婚についての質問がなされました。
実は当時、離婚については様々な立場、意見がありまして論争がなされていました。この論争の元になったのが、旧約聖書申命記の二四章一節の離婚についての御言葉です。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見い出し、気に入らなくなったときは、離縁状を彼女の手に渡し、家を去らせる」。この申命記の言葉は、旧約聖書の中で、離婚についてはっきりと触れられている唯一の箇所です。当時の聖書の学者たちは、この申命記の言葉から具体的にはどういう場合に離婚してもいいのかということを話しあったのです。「恥ずべきこと」、「気に入らなくなること」とは何か。ここをどう読むのか。このことが議論になった。ある人たちは、妻が不品行を犯した場合、明らかに他の男を愛したことが確かめられた場合には離婚しても良い。しかし、またある学者は、そういうことだけではなく、家事が下手で、料理が不味かったりしたら離婚してもいい、鍋を焦がしたらなどとまで言っていたようです。こういうことが当時の学者たちのホットな議論だったわけです。そういうなかで、ファリサイ派の人たちは主イエスの立場を問うたわけです。ただ「試そうとして言った」とありますように真剣に教えを乞うたわけではありません。どのような答えであったとしても、主イエスを罠にかけ、陥れる企みがあって、このように問うたのです。
気になっておられる方も多いと思いますが、このようなファリサイ派の人たちの議論は男性中心の社会の非常に身勝手且つ、差別的な議論です。妻はまるで夫の所有物であるかのようです。人間扱いされていません。家畜か何かのようでもあります。何よりも女性の方から離婚したい、夫のことが気に入らなくなったから、などということは問題にならなかった。そういうことは到底、許されることではなかったのです。
主イエスは、このファリサイ派の人たちの問いに、お答えになられます主イエスの答えは、当時のどの学者たちの見解と全く異なるものでありました。主イエスは、申命記の二三章一節のみ言葉を解釈するということを全くされません。そうではなく、「結婚というものはそもそも一体、どこから始まっているのか」。創世記の言葉から語られました。離婚についてではなく、結婚について語られます。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」 そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。 だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
ファリサイ派の人たちは、律法、申命記の一節の解釈をして、ああでもない、こうでもないと言い合っていたわけです。しかし、主イエスは同じ土俵には上がられなかった。創世記二章を引用されて語られた。創世記二章それは、人間の創造について語られた箇所です。神は、人間を男と女に創造された。男も人間、女も人間です。男なしに女は考えられない。しかし、また女なしに男もまた存在し得ないのです。もっというと、男性は女性なしに生きれないし、女性はまた男性なしに生きれない。女性が男性なしには生きれないとだけ当時の男性たちは思っていたのです。しかし、主イエスは男性のそういう傲慢を見抜いておられます。男は女を抜きにしては生きられない。人は父母を離れ、その妻と結ばれて、そこで一体となる。男性は女性に依ってしか生きれない。そして、ここで主イエスは、結婚において、男と女が結ばれ一体となること、それは「神が結び合わせてくださった」と言われます。これはとても大切な言葉です。「結婚はあなたたち男性の意志だけで成り立つものではない。神の御心により、あなたは妻と共に一つのからだ、ひとつの人格を造る。あなたがたはそのことを全く見逃している。誤解している。」当時、男がひとりの妻を選んだとき、それは、男だけの選択、決断によるとされていたのです。そこにとんでもない誤解があった。女性蔑視というだけではない。神のみこころ、神の意志、神の恵みに思いが寄せられることはなかった。ただそこにあったのは男ひとりの思い、意志です。そこで主イエスは、当時の男性たちのとんでもない誤った考えを指摘され、「それは聖書が語っていることではない、あなたたちはおかしい、とんでもない思いちがいをしている」と言われたわけです。既にここではもう離婚が認められるのか、認められないのかという話ではなくなっています。
実際、そうではないでしょうか。離婚をどんなに禁じてもそれで良いとは言えません。例えばですね律法学者立ちが律法で離婚は禁じられていると厳格に規定したとします。それですね、それで事はすむでしょうか。離婚に厳しい態度をとったとしても、夫が妻の首根っこを抑えるようにして、「おれはお前を一生離さない、絶対に離婚などしない」と言って生きたとします。それで「自分は神に従う正しい人間だ」とは言えるでしょうか。そういう生き方が神の御心に叶うなどとは言えないのです。それどころか、こういう生き方こそが聖書に全く反する生き方です。「真実の結婚は、規則づくめ、律法づくめで成り立つようなものではない」とある人が言いましたがその通りです。
「してはならない」「こうしなければならない」というところに、真実な結婚は生まれません。そういう律法じゃダメなのです。ですから、主イエスは、ここで離婚がいいとか悪いとかそういうことは言われない。むしろ、ここで真実の夫婦を成り立たせる道は何かを真剣に問われているです。その鍵となることが、神の御心、神の恵みに思いを寄せること、福音に生きることです。
しかし、ファリサイ派の人たちには、この主イエスの真意はほとんど全く伝わらなかったでしょう。彼らは、主イエスに尋ね返します。「それでは、なぜ、モーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。それに対して、主イエスは、こう答えられました。「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった」。この「初め」というのは先ほど、創世記の人間の創造の話です。神は天地をお造りになり、人間を造られたときには、離婚を許すつもりなどなかった。しかし、モーセは、あなたがた人間が、あまりにも心を固くなにするので、仕方なくこうするほかなかったのだ、そう言われるのです。
主イエスが語られると、今度は主の弟子たちが口を開きました。彼らは、「こんなことなら、結婚しない方がましだ」と言いました。主イエスはここまでで、男たちに、厳しく迫られました。女性の男性たちに対する態度、妻たちに対する夫の態度、受け止め方を改めるようにはっきり求められたのです。妻を自分の所有物かのように受け止める心はすっかり変えられなければならない。妻と共に神の御前に立ち、神によって造られたものとして、自分の思いではなく神の恵みに思いを寄せて、一つになって生きていくことを喜ぶこと、それが主イエスがここで明らかにされたことでした。弟子たちは、ファリサイ派の人たちと違って、主イエスのおっしゃっておられることがわかった。自分の思いを変えなければならない。しかし、そこでこのことは難しい、不可能なことだ、だからそういうことなら結婚しないほうがいいと言ったのです。結婚生活や、性別の問題は、人間が思いをなかなか変えようとしないことです。弟子たちも、御言葉を聞いても、わかっても、変わらない、変えようとしないのです。それは、今も変わりのない私たちの姿です。この弟子たちの姿は情けない、情けなくぼやいているだけだとある人は言っています。
主イエスはこの弟子たちの言葉を聞いてさらにこう言われました。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
ここで主イエスが、三種類の人たちについて語られます。一つは、「結婚できないように生まれついた者」、つまり肉体的な何らかの理由で結婚をできない者のことです。身体的な問題を抱えている人のことです。こういう人たちについて、主イエスの言葉が語られていることはとても興味深いことです。もう一つは、「人から結婚できないようにされた者」、これは宦官のことだと言われます。宮廷に仕える宦官は宮廷に入る前には、去勢されたのです。最後の三つ目は、「天の国のために結婚しない者」。これは結婚できるのだけれども、神のみ栄えを表すために、献身して働くために、結婚しない選択をして生きている者ということです。
使徒パウロもそうでしたし、また主イエスご自身も三〇歳を超えておられましたが、結婚されることはありませんでした。これは当時としては大変、珍しいことでした。ある人は、主イエスもこのために、差別を受けられたかもしれない、去勢された宦官のような者だと言われたのではないかと言います。また主イエスの弟子たちの中にも、離婚して傷を負っている女性や、性的マイノリティのような人たちがいたのかもしれません。「宦官」、それは、旧約聖書の時代には、神の民としては認められなかった人たちです。結婚や性に関わる事柄というのは人間が一番、深く傷つくところですね。しかし、ここでの主イエスの言葉では決して、誰も排除されない。人間の多様なあり方を認めておられるわけです。そういう語り方をなさっています。そのことはとても心惹かれることです。
しかし、ここで何よりも主イエスがお語りになられたいことは別のところにあります。弟子たちが、そんなことなら結婚しないほうがマシだと言ったわけです。それに対して、主イエスは、あなたたちは結婚しないと言う。しかし、それすらも、自分で選ぶことではない。それは神がお決めになること、神が与えられることだ。結婚するのか、独身となって生きるのか、それはあなたが自分で決めることではない。そこに神さまが介在される。神がお働きになる。一一節でも「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」と言われ、さらに一二節でも、「これを受け入れることができる者は受け入れなさい」と言われました。主イエスは、結婚するにしても、独身者として生きるにしても、どちらでもいい。しかし、どちらにしても、大切なことがある。それは、その道を「受け入れる」ことだと言われます。この受け入れるという言葉ですが、この言葉は、場所を作るという言葉です。自分の中に場所を作る。神の恵み、神の御心を受け入れる場所です。ファリサイ派の人たちは、離婚についてそれが許されるのか、許されないのか、どういう場合に許されるのかを論じ合っていた。しかし、そこで「神」ご自身は、どこかに追い出してしまって、神様のための場所を開けなかったのです。あるのは自分の思いだけです。
そして、これは他人事ではありません。私たちも日常の歩みをする中で、とりわけ結婚とか、男女の事柄になると、それはよくプライベートなことなどと言いますけれども、そういうふうに言いながら、そこで神様のことまで締め出してしまうのではないでしょうか。しかし、実は、そういうところでこそ、私たちの信仰というものが神様から問われているのではないでしょうか。
私たちの生活、このプライベートな生活、家庭での生活、夫婦での生活、そういうところで、神さまを締め出して、場所を作らないときに、実は、私たちの生活は本来の実りを失ってしまいます。私たちが、お祈りをする、聖書を読むということ、それはそうならないように、神様のための場所を作るということであります。それはひとりで生きても、二人で生きても、どんな境遇で生きても変わりのないことです。そして、この神の恵みに場所を作る、その時、私たちは「置かれた場所で咲く」ことができる。感謝し、幸いに生きることができます。
今日の御言葉は、一八章に続く箇所であります。一八章には、主イエスの教会への望み、一体、どういう教会であるべきなのかが語られていました。それは、罪の赦しの共同体であります。十字架のキリストによって、その罪を赦していただいたものとして、互いに赦し合って生きる交わりであることでした。そのことに続く箇所なのです。結婚、夫婦関係、そこでも、また神様が、お互いを結び合わせてくださった相手として受け入れることがあります。相手を受け入れることは赦しということをなしにあり得ません。また独身者がその自分の与えられた境遇を受け入れることも、神の赦しの中で自分を見る、赦しのなかでしか、自分自身を受け入れることはできないでしょう。いずれにしても、ここでもまた罪の赦しなのです。
牧師としていますと、やはり結婚式を行います。勉強会をし、事前に準備をして結婚式に備えます。いく人も方々の結婚式をこれまで行ってきました。その準備をする中で強調すること、結婚式を行うそこでこそ思うこと、神の赦しが必要なのだということです。十字架のもとで結婚生活をするのです。それは結婚ということだけではないのです。極めて個人的な私たちの生活、そこでこそ赦しということがなければどうにもならないのです。この罪の赦しの恵みの実現のために、主は、十字架にかかられるために、ここでエルサレムに向かわれるのであります。お祈りをささげます。