2020年06月07日「神はあなたがたの父」

問い合わせ

日本キリスト改革派 関キリスト教会のホームページへ戻る

音声ファイル

聖書の言葉

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

新共同訳聖書
マタイによる福音書 18章1節~14節

メッセージ

しばらくの間、離れておりましたマタイによる福音書に戻りまして、今日から再び、御言葉を学んでいきます。今日、お読みしましたのは一八章一節以下の御言葉です。この第一八章で主イエスは、教会のあるべき姿について大切な言葉を語っておられます。

 マタイによる福音書は教会というものをとても大切にしている福音書です。一六章で主イエスは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と、「教会」という言葉を既に用いられます。そして、この「教会」には、「陰府の力も打ち勝つことはできない」とも語られました。そして、この一八章では、主イエスが教会に何をお望みになっているのかを明かにされております。この一八章をある説教者が「教会憲章」と名付けておられます。まさにその通りでありまして、歴史の中で教会は、この主の言葉に繰り返し聞いて、立ち戻ってまいりました。

 私たちはそれぞれに教会とはこういうところだという思い、あるいはこうあってほしいという期待や願いのようなものを持っています。教会のこれからの姿、またビジョンについて考えること、語りあうこともあるかもしれません。そのような時にも、この一八章は忘れられてはならないのです。そうでないと道を誤ってしまう、とんでもないことになってしまう、そういう御言葉がここに語られております。

 同時に思いますのは、ここで語られている言葉は、だれにでも語ることができる言葉ではないということです。地上の生涯を生きられ、十字架におかかりになられた主イエス・キリストが語った言葉、主イエスでなければお語りになれなかった言葉がここに響いております。

 では、一体ここで主イエスが教会に望んでおられることは何でしょうか。

一体、何がここで私たちに語られているのでしょうか。私たちが聞き取るべきことは何でしょうか。そのことに心を集めたいのです。今日はずいぶん長い聖書の箇所を読みました。多くのことが語られているようですけれども、必ずしもそうではありません。ただ一つのことが語られていると言っても良いでしょう。

 新共同訳聖書は、今日の箇所を、一節から五節まで、六節から九節まで、一〇節から一四節までの三つの段落に分けてくれています。それぞれ別々のことが語られているわけではなく、一つことが語られています。それは教会においては「小さい者」が非常に大切なのだということです。ではここで語られている「小さい者」とはどんな人のことなのでしょうか。少し考えてみたいと思います。

 最初に申し上げなければならないのは、ここで小さい者とはどういう

人なのかということについては、主イエスは、はっきりとは何もお語りにはなっておられないということです。おそらく聞く者が様々に思い巡らすように、あえてこのような語り方をなさっているのかもしれません。簡単に答えを出さなくても良いかもしれません主は、「あなたにとって小さい者とはだれなのか」を問うておられるように思います。

 いくつかの手がかりとなる言葉がここには語られています。ます主イエスは小さな子供の一人を真ん中に立たせて、主イエスは、「このような小さな子供の一人を受け入れる者はわたしを受け入れる」と五節でお語りになっておられます。だとしますと「小さい者」は、周りの人にとっては受け入れがたいような存在だということです。

 六節から九節では、この小さい者を「つまずかせない」ようにということが語られています。ということは、この小さい者は、とてもつまずきやすい。「つまずき」というと、転んでしまうことくらいかと思いがちですがそうではありません。この小さい者をつまづかせる者は滅びるとまで言われています。それは裏を返せば、つまずきというのは、ちょっと転んでしまうということではなくて、神さまから、離れて、滅んでしまう、壊れてしまいかねない弱く脆い存在です。

 また一〇節には、この「小さい者を軽んじないようにとも言われています。この小さな者は、私たちがうっかりすると軽んじてしまうような存在です。さらにその後で、この小さな羊は、一匹の羊に喩えられています。百匹の羊のうちの一匹の羊です。百匹のうちの一匹というのは、一パーセントです。

一というのは小さい数字です。これくらいしょうがないとも思ってしまうかもしれません。この一匹の羊は、「迷い出た」羊です。迷い出たというのも深刻です。羊というのは、一人では生きれませんから、命を失いかねない危険の中にあるということです。

 「あなたにとって、この『小さな者』とはだれか」。 主イエスは教会に生きる私たちに問うておられます。そして、こういう小さな存在に、あなたがたの目を向けて、大切にしてあなた方は歩んでほしいと言われるのです。

 今日の御言葉を聞くと、身につまされて、とても心が痛んできます。牧師としてもとても辛い思いがあります。教会を離れてしまった人、あの人のこと、この人のことが思い浮かびます。自分は多くの人たちをつまずかせてきたのではないか、そう思います。皆さんもそうかもしれません。どうしてそんなことになってしまうのか、主イエスはそのことをここでえぐるように問うておられると言えます。

 ただ主イエスがここで問うておられるのは、私たちの外側のこと表面的なことではありません。むしろ、私たちの生き方の本質に関わることとして問うておられます。そのことを理解するために一つのことに注目してみましょう。私たちは、みんな人をつまずかせてはならないということを知っています。わたしはあの人をつまずかせてしまったかもしれないと思うとき、それは大抵、信仰者らしかぬ言葉を語ったり、振る舞いをしたことであったりします。それが良くなかった。しかしですね、ここで主イエスがおっしゃっておられることはどうもそういうことではありません。主イエスはつまずきについて語られるその前に五節「小さい者を受け入れるように」と語っておられます。つまり、その小さな人を「受け入れない」ことがつまずきをもたすことなのです。またその後の一〇節のみ言葉から言うならば、その人を「軽んじる」ことになる。主イエスはただ私たちの表面的な言葉や態度、外側のことを気をつけるようにと言われているのではない。主は私たちの心を求めておられる。小さな者を受け入れる、本当に重んじて生きる心を持つことを望まれるのです。より根本的、根源的なことが問われていることに気づきたいのです。

 事のきっかけとなったのは弟子たちからの問いかけでした。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのですか」。それを受けて主イエスはこの教会への望みの言葉を語り始められています。弟子たちは偉くなることを求めています。偉いと言う言葉は、「大きい」と言う言葉です。だれがいちばん、天国で大きいのかと言ったのです。弟子たちは偉くなることを、大きくなることを求めたわけです。しかし、主イエスは、あなたたちはそちらの方向に生きるのではないと言うことを、ここで語られているのです。大きく、偉くなることを求める時に、序列ができます。そこには格差が生じてしまいます。偉い人と偉くない人が生まれてきます。そこでは小さい者は弾かれるようになります。小さい者は、つまづきます。軽んじられて、見捨てられてしまいます。

私たちが生きるこの世はそういうところです。天の国である教会はそうであってはならないとお語りになっておられます。 

 わたしは小学校の卒業式に将来の夢を書く欄がありまして、そこにこんな一言の言葉を書いたのを覚えています。「人から尊敬される人になりたい」。立派な言葉と言えるかもしれませんが、人としてはかなり病んでいたと思います。それからほどなくして、教会に足を踏み入れました。わたしがはじめて教会に通い始めた時に、感じるようになったことがあります。それはこの世の価値では測れない何かがここにはある。外の世界とは違う何かがここにあると聖書に触れ、教会という場所に行って思った。もしかしたら、偉い人になろうと思って、教会の門を叩いたのかもしれません。イエスさまのところに教えを乞いに行った。でもイエスさまから教わったのは、偉い人になることではなかったです。あなたが生きるのは、そっちではないということでした。「そっちに生きるとあなたは壊れてしまう、そして人も壊してしまうことになるよ」ということであったように思います。

 今日の聖書の箇所の中でとても、大切な言葉があります。それは三節の言葉です。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」。「心を入れ替える」と言うことばは、「方向転換する、悔い改める、立ち帰る」と訳すことができる言葉です。宗教改革者のマルチン・ルターが宗教改革の中心に据えたのが、この悔い改めると言うことでした。ルターは、聖書から、この悔い改めということを語りました。しかし、ただただ一度、悔い改めればそれでいいと言ったのではありません。日毎に、一瞬一瞬、生涯の間、悔い改めることを主イエスはお求めになっておられると語りました。それゆえ、教会は、生涯、悔い改めを必要とする罪人たちの集まりだと言いました。教会はすぐに義人の教会、義しい教会になってしまうのです。自分たちのただしさを振りかざしてしまう。別の言い方をすれば偉い人になってしまう、尊敬される人のになってしまう、すると、そこでは、小さな者は受け入れられない、つまずいてしまう、見捨てられてしまうことになるのです。だからこそ、ルターは、教会は義人の教会ではなく罪びとの教会であることを繰り返し強調し語りました。

 ルターが牧会で失敗をしてしまい罪を犯して、心病んでしまったシュパルティンという伝道者に宛てて手紙を書きました。とても心のこもった手紙です。この手紙は長いのでここで全文を紹介することはできませんが、この手紙の核心部分でルターはこう言います。

 「どうぞ、私たち、とでもない罪びとたち、頑迷固陋な罪人の仲間入りをしてください。そのようにして、キリストを絵空事の、子供っぽい罪からしか救い出すことができないような小さな、頼りない存在にしてしまわないようにしてください」。

 ルターは驚くべき言葉を語っています。罪を犯している人に向かって、あなたの罪は些細なことだ、たいしたことないいと言っているのではないのです。むしろ、自分の罪を大きくしなさい。自分で自分のことを偉くすることをやめて、小さくしなさい。小さな一人の罪びとになりなさいというのです。そのようにしてキリストのもとに立ち返りなさいと言われているのです。わたしたちは自分で自分を受け入れない、小さい自分を受け入れない、そしてつまずくのです。人も裁き、自分も裁く。そこには慰めも喜びもありません。

 聖書を読む時にとても大事になるのは、どこに身をおいて御言葉に聞くかと言うことです。私たちは、今日のような箇所を読んでどうするでしょうか。ここまで私たちは、主イエスから、小さい者を大切にするようにと語られている弟子たちのところに身を置いて御言葉に聞いてきました。百ひきの羊の話で言えば、九九の羊の側です。けれども、それだけではどうもないのですね。私たち一人一人は、実はこのつまずく小さな者でもあります。迷い出た一匹の羊でもあります。実際、そうでしょう。私たちは、洗礼を受けても、しばしば迷い出てしまいます。神さまから離れてしまって生きることもあるのです。私たちは小さい者の一人でもあります。どちらか一方ではないのですね。 九十九匹の羊でもあるし、迷える一匹の羊でもあります。一匹の羊になったり、九十九匹の羊になったりしながら、お互いに生きているのが教会に生きる私たちなのです。

 ここまで触れませんでしたが一〇節にはこんな言葉が語られています。

 

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼 らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。

 とても興味深い御言葉です。聖書に出てきますもっとも印象深い言葉の一つです。主イエスを信じる信仰者、教会に連なる者たちには、それぞれに天使がついていると言われています。ここから「守護天使」という信仰が生まれました。私たち一人一人に担当の天使がいて守ってくれている、だとすればこれはとてもありがたいことです。しかし、どんな天使なのでしょう。何をしているのでしょうか。この天使は、小さな者と共にあって、「天にいます父の御顔を仰いでいる」。これはいわゆる守護天使の姿とは違います。守護天使は、私たちを守ってくれるのですから、ちゃんと私たちの方を向いているはずです。しかし、ここでの天使は違います。「いつも天の父の御顔を仰いでいる」。この天使の姿が語られているのは、神さまが小さな者である、私たち一人一人を本当に大切な者としていてくださるということです。私たちは神さまから目を離してしまうことがある、否、神様にそっぽを向いてしまうようなことだってある。神が父であることがわからなくなることがある。神の愛がわからなくなる。しかし、神さまの方は私たちがそのような状態である時にも、私たちの方を見捨てられない。ちゃんとその目を注ぎ続けていてくださると言われます。このみ言葉は、当時の人々にあった天使への信仰を用いてイエスさまがお語りになったと言われます。けれども、当時の人たちは、天使は、立派な人、正しい人、偉い人にだけついているとされていたそうです。でも主イエスは、ここで、そうではなく、「小さな者」についていると言われたのです。

 最後の一四節には、「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と語られています。 私たちはこの小さな者の一人であります。この神のみ心のゆえに救われました。この神の御心のゆえに、主イエスは来てくださり、十字架にかかって死なれたのです。私たちは滅びるべき者でありました。けれども、この私たちの罪のために主イエスが十字架におかかりになって死んでくださったのです。私一人ではありません。みんな例外なくそうなのです。私たちみんなこの神の愛によって救われ、この神の愛に支えられ、守られています。それゆえに私たちはお互いを大切にして歩みます。

 この関教会が主イエスの望まれる教会になるためには何が必要でしょうか。それは私たちが偉く、立派に、大きくなることではありません。小さい者の一人として、主のみ前に絶えず悔い改めて、福音に生きること以外にありません。年頭に掲げた今年の年間主題は「福音の喜びに生かされる教会であったことを思い出します。主イエスがここでお望みになっておられることも、そう言う福音に喜びに生かされる教会であることです。それは罪びととして私たちが、絶えず悔い改めて生きることであり、そこに弱き者、貧しい者、小さい者を大切にする教会となることが生まれていくのであります。お祈りいたします。