2022年01月16日「天から降られた方」

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聖書の言葉

31「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。 32この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。 33その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。 34神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。 35御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。 36御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」ヨハネによる福音書 3章31節~36節

メッセージ

与えられましたヨハネによる福音書の三章の終わりの箇所の御言葉をたった今、お読みしました。聖書の朗読をお聞きになられて、どんな感想をお持ちになられたでしょうか。心に響く、感動するという方はほとんどおられないでしょう。むしろ、どうもわかりにくいなあ、難しいなあ、響いて来ないと思われているかもしれません。このような箇所は、ひとりで聖書を読む時には、多くの場合、さっと通り過ぎてしまうそういうところかもしれません。けれども、このようにして礼拝で聖書を順番に読んでいく時にはそのようにはしません。ここで足を止め、ここで語られているみ言葉にじっと心を集めていきます。そのようにすることによって恵みをいただくことができます。今日もここからご一緒に御言葉の恵みにあずかることができればと願っています。

 この聖書の箇所を読むにあたりましてまず考えてまいたいことがあります。すでにお気づきになっておられる方もあるかもしれません。今日の聖書の箇所は、全体が鍵カッコで括られています。しかし、一体誰の言葉なのでしょうか。

二二節以下には洗礼者ヨハネと主イエスの対話が語られていました。そして、洗礼者ヨハネの三〇節の「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という言葉でこの箇所は終わっていました。一つの読み方は今日の箇所の三一節以下においても、再び洗礼者ヨハネの言葉が語られていると考えることもできます。そのように読まれることもあります。しかし、もう一つの可能性があります。この三一節以下は、このヨハネ福音書を書いた著者の言葉としても読むことができます。ここだけではなく、ヨハネ福音書は、不思議な仕方で言葉が語られることがあります。三章一六節からの言葉がそうでした。主イエスとニコデモという人の対話から、いつの間にか著者の言葉、教会の宣教の言葉に変わっていました。ここでもそうです。洗礼者ヨハネの言葉を伝えながら、いつの間にか福音書の著者自身が、主イエスに対する証しの言葉を語り始めているわけです。

 今日のこの聖書の箇所は三章の終わり、結びに位置付けられますが実際、ここまで語られてきたことがここで要約され、凝縮されて語られているわけです。

 この三章を振り返って見たいと思いますが、最初のきっかけは、ニコデモという人が、主イエスを夜訪ねてきたことでありました。主イエスは教えを求めて訪ねてきたニコデモに初めにこう言われました。三節です。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。このように主イエスは新しく生まれるということを語られましたが、ニコデモはそのことが全くわからないのです。そのニコデモに対して、主イエスはさらにこう続けて言われます。一一節から一三節も読んでみましょう。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには天に上った者はだれもいない」。このように語られていました。

 そして、今日の箇所の初め三一節、三二節を読んでみましょう。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべての者の上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない」。

 ここまで語られたことと反響し合っていると言ったら良いのでしょうか、大切なことが語り直されていると言っても良いかもしれません。ここまでの中心は、新しく生まれるということでした。新しく生まれるということ、それは言い換えると、救われることです。罪の支配から解放されるということです。永遠の命を受けることです。そして、ヨハネ福音書が強調していますのはそのために必要なただ一つのことです。それは「天から降って来た者、すなわち人の子イエス」を信じるということです。そのイエスが、天から降って来た者であり、証しをなさる、その証しを受け入れるということです。

この三章には一六節に、「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」とありました。ここでも、この後でもひとり子イエスを「信じる」ということが繰り返されています。

 新しく生まれる、罪から救われる、永遠の命を与えられる、そのためにあれこれのことは求められません。善いことをすることや、律法を行うこと、そういうことが必要だと語られるのではありません。ただひとつこそ、天から来られた御子イエスを信じる、受け入れること、そのことだけだ求められるのです。これは一体、どういうことなのでしょうか。なぜ信じるというただひとつのこと、この単純なこと、簡単なことが求められるのでしょうか。

 そして、聖書が語っていますこと、このヨハネに福音書が語っていますこと、また同時にわたしたちが自分自身のこととして経験的に知っていますことがあります。それは、この信じるという非常に簡単なことが実は、わたしたちにとって最も難しいことだということです。

ニコデモというひとの存在がそのことを語っています。また、この三章の前、二章の終わり二章二五節にも、「イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」とあります。人間はみんな信じることができないのです。信じるということができない、そこに人間の根本問題があるのです。わたしたち人間には色んな問題があるわけです。

わたしたち自身も色んな問題、課題を抱えているわけです。でもその一番の根本的な問題、深いところにある問題は一体何なのかということを聖書は明らかにしています。それが信じない、信じれないということなのですね。それが今日の箇所でも語られています。御子イエスを受け入れない、拒むわけです。ニコデモという人の問題もそこにありました。行いとかそういうことでじゃないのです。御子イエスと出会うわけです。語りかけられる、天から来られた方の証しを聞くわけです。でも信じない、受け入れない。知的にわからないのではないのですね。信じれないのです。「わからない」ということが根本問題ではないのですね。信じないということなんです。高橋三郎という人はこんなことを言っています。「分かろうとする人にとっては、信仰は認識上の問題であるけれども、本当に信じようとする人には、神の前にひれ伏すことが要求される」。わかる、わからないというのと、信じる、信じないというのは違うわけです。わたしたちはわからないことこそ問題だと思っています。でもわかったら信じるかというとそうはいかないのです。そうではなくわたしたちの本当の問題は、わからないということではなく、ひれ伏すということなのですね。

 これは、例えばこの礼拝の説教のことで言うと、わたしは説教者としてわかり易く平易な言葉で語りたいと思っています。でも同時に思のは、よくわかる話をすればそれでいいのかと言うとそうではないのです。わかる、わからないというのはこちら側のわたしたち人間の側から見た言葉ですね。でも「信じる」と言うことは違います。平伏すのです。こちらは主ではなない。むしろ、自分を明け渡すわけです。そしてなかなかここに立てない。ひれ伏す、礼拝するということができないのですね。神に対して、尊大であり傲慢なのですね。そういう性質がですね、ニコデモのような人にもあるということは語られているわけです。彼は当時の社会の中でユダヤ人を代表するような、偉いひとなわけです。宗教的、信仰的な人なんですね。でもそんな人も、結局はひれ伏そうとしない、そういう不信仰を持っているということです。

 そして、とても不思議なことがあるのです。このようにしてこの聖書の箇所で、わたしたちの人間として不信仰、尊大さが明らかにされる。どんな人も、皆、このことにおいて同じように罪深く、どうし羊もないわけです。しかし、それじゃあどうにもならないわけですがそれで話が終わるのかというとそうではないのです。三二節には「誰もその証しを受け入れない」とあります。しかし、そこで終わらない。そう言われてすぐにこう言われるのです。「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が霊を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられる。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」。

 「誰も受け入れない」と言われたのに、すぐに続けて「その証しを受け入れる者」と語られ、、またここには「御子を信じる人」についても語られるわけです。一体どういうことでしょうか。

 一見、筋道が通っていないように思われるかもしれません。しかし、実はそうではありません。はっきりしています。聖書は、まずですね。わたしたち人間はその本質において、どうしようもない神への反逆者であり、不信仰なのだということを徹底して語るわけです。けれども、その上ですね。神さまのお働き、み業を語るのですね。み子イエス・キリストというかたに起こったことは何かということです。それはそういうどうしようもない人間が救われるということです。その場合ですね。この救いは全くの神の恵みの御業によります。神の憐みです。そういうことを言いたいのですね。ふと気づかされるのは、今日の聖書の箇所には、「神」「父なる神」について語られ、御子イエスについて語られ、また、神が霊を限りなくお与えになるというように聖霊について語られます。三位一体の神さまがここで語られています。この三位一体の神さまがどうしようもない不信仰なわたしたちを恵みによって救ってくださるというのです。その時にですね、わたしたちの側の行いとか、わたしたちの側の知識とか、信心深さとか、そういうものですくわれるのではないのです。

神さまがお働きになって、聖霊によって、わたしたちのうちに働きかけてくださって、信じない、信じようとしない者が救われるのですね。

アウグスチヌスは、ここで神の選びということを語りました。神さまがただお選びくださって、信じる者にしてくださるのだと。またある神学者は、こう言います。「すべての人間は繰り返し信じない。そして、信じる者が存在するということは、モーセの杖が触れた岩から水が流れ出るようなものだ」と。結局、同じことです。

 ですから、わたしたちはですね。わたしという自分にもうそんなに拘らなくていいのですね。わたしは、自分の不信仰が気になって気になってしょうがない時がありました。自分はダメだだめだと。そのように自分に拘っていた時には、喜びがありませんでした。感謝もなかった。でもですね、そうじゃあない。神さまはわたしの不信仰、なんて、初めからご存知で、一番、大切なのは、神さまの憐み、恵みだということを、わからされてきたと思います。神さまは、わたしに勝ってくださるわけです。わたしの不信仰にも。そして、こんな不信仰なわたしも主を信じる者に生まれかわらせてくださいます。

 また、このようであるなら、わたし自身は一切、自分を誇ることはできません。誇るのは、ただ主イエス・キリスト、十字架にかかられたキリストです。三六節の言葉、「御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」とあります。恐ろしい言葉に思われるかもしれませんが、このみ言葉はキリストの十字架とは何かということを証しています。十字架のキリストが信じない、平伏さないわたしたちのために十字架に死んでくださり、神の怒りを身に受けてくださったということです。しかし、この十字架のキリストをわたしたちが信じない、そういうことはほとんどありえないことですが、もしそうなら神の怒りが残ってしまうわけです。三位一体の神が働いてくださり、信じない者を信じる者にしてくださいます。それなのに信じないということがなおありうるのでしょうか。それはありえないことでないでしょうか。だからあなたがたは信じる者として生きよと言われているのです。やはりここにも大変大切な神の恵みを示す言葉が語られていました。感謝し、祈ります。