2020年05月24日「いのちを望む神」

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聖書の言葉

兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

日本聖書教会 新共同訳聖書コリントの信徒への手紙一 10章1節~13節

メッセージ

来住英俊という人が、キリスト教入門の書物を書いておられます。来住さんは、その本のはじめのところでキリスト教とは何か、その要約を試みておられます。

「キリスト教信仰を生きるとは、正しい教えに従い、立派な人物の模範に倣うことではない。キリスト教信仰を生きるとは、人となった神、イエス・キリストと、人生の悩み・喜び・疑問を語り合いながら、ともに旅路を歩むことである。

その旅路の終着点は『神の国』と呼ばれる」。

 なんだか、とてもしっくり来て、心に響いてきます。来住さんは、キリスト教の中心には十字架のキリストの罪の赦しということがあるそそれは正しい、そのことは「神が人と共に旅路を歩む」という中に含ませていると言われます。

 この言葉のどこに惹かれるのかと言いますと、動いている、歩いている、じっとしていないところにあるように思います。キリスト教というと、正しい教えを座って学んでいるというような理解をされるかもしれませんが、そうではない。神とともにイエスさまと一緒に歩いていく、生きていく、旅をしていく、そういうところが急所があるというのは確かなことだと思います。

 そのことの原点は、すでに旧約聖書にも現れされています。創世記でアブラハムは、神のみ言葉に従って、旅をしています。アブラハムはじっとしていません。神とともにその人生の道を歩んでいます。また、出エジプト記には、エジプトで奴隷であったイスラエルが、神によって、エジプトから脱出させられたことが語られます。真っ二つにされた紅海を渡って、約束の地に向かう旅を始めました。荒れ野の四〇年の旅です。彼らは火の柱、雲の柱に導かれて旅をします。このように神と旅路を行く信仰は旧約聖書にも表されています。

 さて、今日、わたしたちに与えられましたのはコリントの信徒への手紙一、第一〇章の御言葉です。ここで特に、心を集めたいのは、一三節の御言葉です。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」。

 この聖書の言葉は非常によく知られています。また、愛唱され続けてきました。ここにおられる皆さんもそうかもしれません。今日まで、この御言葉によって、苦難の中で、慰められてきた、支えられてきたと云うかたも多いのではないでしょうか。しかし、このみ言葉は一体、どんな文脈の中で語られているのでしょうか。今日は、この御言葉が語られている文脈にも注意を払いながら、この御言葉が神とともに旅路を歩いていくわたしたちの道しるべとなるように願います。

 伝道者パウロは、ここでコリントの教会の人たちに語りかけます。「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいて欲しい」。わたしたちの信仰の原点、「神が人と共に旅路を歩む」信仰の原点が、出エジプトの出来事、荒れ野の四〇年の旅にあることはぜひ知っておいて欲しい。彼らは真っ二つにされた紅海を渡って救われた、海を渡って救われた。奴隷の地から神の御手によって救い出され神の民とされ、旅を始めた。パウロは、この出来事をこう語ります。「わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属する者となる洗礼を授けられた」(一、二節)。パウロは、洗礼を持ち出します。イスラエルの民もまたわたしたちと同じように洗礼を受けて、神の民とされ、神と共に旅路を行く者となった。この洗礼が出発点となった。パウロは、キリスト者と、出エジプトの時代のイスラエルの民を重ねます。さらに続けて言います。「また、皆同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました」(三)。ここでは、洗礼さらにはみ言葉と聖餐のことも語られます。荒れ野の旅の間、民は、飢え渇きました。単に肉体において飢え乾いただけではなかった。、霊において、信仰においても飢え渇いた。しかし、神は、モーセを用いて、荒れ野の旅の間、渇きを癒された、飢えを満たしてくださった。神は日毎に、天からのマナをお与えになり、岩からも水を出されて渇きを癒されて民を養われた。このように、荒れ野の四〇年の旅は、神の導き、恵みに日毎に、繰り返しあずかりながら日々を歩んだ。しかし、同時に、この荒れ野の旅は恵みを受けるだけではなく、信仰が試される試練の旅路にもなったことをパウロは五節以下でさらに語ります。

 エジプトから救い出された神の民は、すぐに神に不平を言い出しました。つぶやき始めました。マナに飽きて、不平を言い出したのです。「肉が食べたい」。「エジプトでは肉を食べていたのに、今はマナばかりでもうたくさんだ」。今、与えられている神の恵みがあるのに感謝できないのです。

 さらに、旅を続ける中で、ようやくシナイ山の麓につきました。そこでモーセが、神との契約を結ぶために、十戒の契約の板をとりに行くのです。ところがモーセがなかなか山から降りてこない。そのために、不安と恐れに囚われはじめます。そして、恐れと不安に囚われた民は、痺れを切らして手近な金の仔牛の像を、神として拝み始めます。まことの神ではないものを神として拝んだ。寄り頼むべきではない空しいものに寄り頼んで歩もうとした。

 パウロは、このイスラエルの民の旅路の姿、道を歩く姿は、今のわたしたち、教会に生きる者たちを戒めるための前例として起こったことだとここで語っています。救いの恵みに感謝することを忘れ、不平を言い、つぶやき、神を試みる。神以外のものに、寄り頼んで生きようとする罪に、わたしたちが陥ることがないように、このような事は起こった。神は、聖書を通して、わたしたちに語りかけておられると云うのです。「立ってこの神が与えてくださった救いの道を最後まで、神と共に歩き続けるように」と主なる神は警告されていると。そして、この御言葉が語りかけられます。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」。

 今、あなたたちは試練に襲わされている。洗礼を受けたからと言って、試練、苦しみにあわないなどと云うことはない。そうではなく、試練は洗礼を受けた者たちに襲いかかってくる。試練のない信仰の歩みはない、この旅路を行く時には、必ず試練が襲ってくる。様々な試練が襲ってくる。病気になることがある。愛する者との別れがある。障害を負うこともある。騙されることやひどく傷つけられることもある。この世の災害を受けることもある。しかし、大切なことは、その試練をどう受け止めるかと云うことにあります。しかし、信仰の道を歩みながら、試練を受け止めれずに途中で、神と共に旅路を歩むことを止めてしまう人もいる。教会で礼拝をささげるのをやめてしまう人が出てきてしまう。これは、わたしたちにとって一番、辛いことです。コリントの教会にもそのような人たちがおりました。だからこそ、パウロは、心を痛めながら、このように語っているのです。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです」。

 「人間として耐えられないようなものはない」と訳されている言葉はかつての口語訳聖書では「世の常ではないものはない」とありました。この言葉は、大変難しい言葉でして、どの聖書の翻訳も苦心して訳してくれています。直訳しますと「人間的ではないものはない」という言葉なのです。わたしたちがこの世で経験します試練、苦しみ、悲しみにしてもそれは、人間的なものだというのです。

 どうでしょうか。わたしたちが苦しみを経験します時に、どんな苦しみでも、それは非人間的なものに思われるのではないでしょうか。暴力的なものに、不条理なものに思われるのです。なぜ、自分だけがこんな目に遭わなければならないのか。それが今まで誰もが経験したことのないようなものに思われるのです。ある牧師が、こんなことを言われたことを覚えています。「わたしたちは、苦難や悲しみにあうとき、頑なになる」と。苦難の中で神を求め、神により頼んで、信仰深くなるということもある。しかし、それだけではないと言われるのです。この私の苦しみを誰も理解してくれない、わかってなどくれない、そうやって自分の殻に閉じこもってしまう。周りの人間にだけではありません。神様に対してまでも心を閉ざす。その先生は言われました。「苦難はわたしたちに神を求めさせるだけではない、苦難が神から引き離すことがあるということを知る必要がある」と言われました。

 パウロもそのことをよく知っているのです。いや御言葉が知っている。だから、「どんな試練でも、あなたがの受ける試練は全て人間的なことだ。誰もが経験することであり、人間の出来事だ」というのです。それがわかってくれば、大きな慰めになるのです。今の自分の苦しみは人間的だということがわかってくると、わたしたちは慰められるのではないでしょうか。確かにその時、わたしたちは、自分から外に出ているのではないでしょうか。御言葉は、ここから自分の殻に閉じこもっているわたしたちを外に出すのです。「人間」というところに立たせるのです。人間としてあなたは必ず耐えることができる。あなたがたが耐えられないような試練には神は合わせられない。それゆえ、厳しいかもしれない、辛いかもしれないけれども、どうか耐えて欲しい。忍耐して欲しい。こういう神の励ましを取り継ぎます。そして、さらに続けてこう言います。

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、それに耐えられるように、逃れる道をも備えていてくださいます」。

 神はわたしたちを試練に遭わせられるというのです。なぜ、神さまは、わたしたちを試練に遭わせられるのでしょうか。「試練」という言葉は、もともとの言葉では「精錬」という言葉から生まれました。宝物で効果な光輝く「金」があります。金というのは最初から光輝いて美しいわけではありません。原石があります。それは黒い塊に所々、光っています。不純物がいっぱい混ざっている。ところが強い火で熱するのです。そうやって精錬するわけです。するとそこで不純物が退けられて、金が生まれてきます。わたしたちもこの地上に生きている人間であるかぎり、たくさんの不純物を持っています。傲慢であります。不純です。だからこそ、試練の火で炙られ子ばなりません。その時、神の国にふさわしい者とされていくのです。純金のように、純粋に謙遜に、神さまに仕える者とされるのです。そのように神さまは、わたしたちに試練をお与えになる。そうは言いましても、やはり試練は恐ろしいものですし、厳しく辛いものです。しかし、神はわたしたちがそれに耐えられるように、必ず逃れる道を備えていてくださっています。逃れる道、それは「出口」です。

 ダンテはこういう言葉を語っています。

 「人生という旅のなかば、ふと気がつくとわたしは、まっすぐな道を踏み外して、暗い森の中にいた。その闇の深さは思い出すだけでもぞっとする」。わたしたちも人生において、出口が見えない、漆黒の闇の中に、迷い込んでしまうことがあります。一歩先にも歩みを踏み出せない。しかし、そこで聖書はこう言います。

 「神は真実な方です。」、試練とともに、「それに耐えられるように逃れる道をも備えていてくださる」。

「備える」というの言葉から「摂理」という言葉が生まれました。英語ですとプロヴィデンデスという言葉です。プロは前で、ヴィデンスは、見るという言葉です。つまり前もって神が見ていてくださる備えていてくさるということになります。つまり、神がわたしたちのために良い道を、逃れの道を備えていてくださるというのです。「摂理」の信仰がここで語られています。「摂理」の信仰は、「運命」ということではありません。運命論の場合は、目に見えない悪しき力がわたしたちを不幸へと災いへと突き落とします。そこから抜け出ることができない。出口がない、逃れの道がないのです。しかし、聖書が語っているのは、「摂理」の信仰です。わたしたちは運命ではなく「摂理」を信じます。確かにわたしたちのこの肉の目には真っ暗で出口が見えない。脱出口が見えない。しかし、神は前もって見ていてくださる。出口を備えていてくださる。神は真実な方だから、試練と共に、逃れる道を備えていてくださいます。だから、私たちはこの道を歩いて行けるのであります。終わりまで。神の国に向かって。

 その旅路の歩みを支えるのは、わたしたち自身ではありません。「神は真実な方です」、この一事です。わたしたちはこの神の真実に立って歩みます。神の真実とは、神の愛のことです。神は真実であるというのは神は愛であると言い換えることができます。私たちはまことに不真実な者であります。そういうわたしたちは、自分が不真実であるために、神様に対しても、信頼し続けることができなくなる、神の真実が信じれなくなるのです。

 ですから、聖書にはこういう言葉が語られています。

 「たとえわたしたちは不真実であっても、神は常に真実である」。

 このことは聖書の中に一本、グッと刺さっている柱のようなものです。神の真実は確かである。この神の真実によって、わたしたちは支えられて、生かされて、救われるのです。このことは、イエス・キリストこのお方に、十字架にかけられたキリストにもっともよく表されているのです。どんなに出口の見えないような暗闇の中でも、そこに十字架につけられ、陰府にまで降られて、復活されたキリストがおられます。そこに逃れの道がある。神様はわたしたちがこの道を終わりまで歩むことをお望みになっておられる。この道は、いのちの道であります。神はいのちを望む神です。そうであるがゆえに、今日もこのようにお語りになられるのです。この一週間も、神が人となられたイエスと共に歩む歩みを続けましょう。お祈りをいたします。

 

主よ。様々な試練がわたしたちに襲いかかってきます。もう耐えられないと思うこともあります。出口のない暗闇の中にいるように思うことがあります。主イエスよ、どうかわたしたちを憐んでください。あなたは真実な方です。試練と共に、逃れる道を備えていてくださいます。あなたは試練の中でも変わることなく、わたしたちと共にいてくださり、旅路を導いてくださいます。そのことを信じます。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。