2021年02月28日「クリスチャンの幸せ (1)」

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クリスチャンの幸せ (1)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ペトロの手紙一 1章3節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

 1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめ讃えられますように。神は、ご自分の大きな憐れみの故に、イエス・キリストが死者の中から甦られたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせて下さいました。
 1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにして下さいました。これらは、あなた方のために天に蓄えられています。
 1:5 あなた方は、信仰により、神の御力によって守られており、終りの時に現されるように用意されている救いを頂くのです。
 1:6 そういうわけで、あなた方は大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、
 1:7 試練で試されたあなた方の信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現われる時、称賛と栄光と誉れとをもたらします。
 1:8 あなた方はイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、言葉に尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。
 1:9 あなた方が、信仰の結果である魂の救いを得ているからです」

ペトロの手紙一 1章3節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 コロナウィルス問題が続いていますが、今日もご一緒に礼拝を捧げることができ、感謝致します。今日は「クリスチャンの幸せ」と題して、聖書から少しお話させて頂きます。

 ところで、クリスチャンでない方々には、クリスチャンはどんな人間に映るでしょうか。色々あるでしょうね。で、その一つに、真面目だけれども何か窮屈で無理をして生きている、というのはないでしょうか。私はそういうものがあると思います。

 しかし、大事なことは、無理をしてでも何故そう生きるのか、という理由です。無理をしているというだけで不幸とは言えません。現に私たちは、正しいことや真実のためには、また愛する人々のためには、無理をし、我慢もします。それは不幸ではなく、当然ですし、むしろ幸せですね。そういう意味では、クリスチャンはやはり幸せですし、聖書からもそれが分ちます。

 先程、Ⅰペテロ1:3~9を読みました。紀元1世紀後半にこれは書かれましたが、6、7節から、手紙の受取人である初代教会のクリスチャンたちが試練に苦しんでいたことが分ります。周囲から中傷され、迫害を受け、異端者からも苦しめられていたからです。

 

 しかし、それにも関らず、彼らが幸せであったことが分ります。ペテロは8、9節でどう述べているでしょうか。「あなた方はイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、言葉に尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。あなた方が、信仰の結果である魂の救いを得ているからです」と。

 3~9節の全体からも、クリスチャンの幸せが分ります。というより、天と地を創られた真(まこと)の神は、創世記からヨハネの黙示録までの聖書66巻の全巻を通して、私たちをイエス・キリストへの信仰による真の幸せへと招いておられるのです。

 そこで今朝は、クリスチャンの幸せについて2つばかり見たいと思います。

 一つの点は、今も少し触れましたが、試練に耐えられるように神が必ずお守り下さることです。6節は言います。「そういう訳で、あなた方は大いに喜んでいます。今暫くの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが」と。

 元々神は世界を秩序ある良いものに創られました。ところが、神のパートナーとして世界を正しく管理するために創られた人間は、自分が神のようになろうとして、神に背きました。その結果、罪と死が全人類に入り込み、世界は大きく歪(ひず)んでしまいました。そのため、人間には、災害や病気を初め、必ず何か苦しみが臨み、最後には死と滅びが待ち、試練は避けられなくなってしまいました。

 その上、救い主イエスを信じ、イエスの教えに従うクリスチャンには、人に分ってもらえず、時には家族からも理解されないという悲しみもあります。辛いものです。

 けれども幸いなことに、聖書は、どんな試練も全部神が支配しておられ、意味と目的を与えておられることを教えます。7節は言います。「試練で試されたあなた方の信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現われる時(=世の終りの時)、称賛と栄光と誉れを」もたらすと。

 要するに、クリスチャンにとって、試練は、どんなに辛くても、神による訓練なのです。そして貴金属が火で精錬されて純度が増すように、クリスチャンは試練により、不必要で不純なものは取り除かれ、金よりも遥かに価値のある神信仰はますます純化され、鍛えられ、試練に耐えられるようにされる、ということです。

 また神は、イエス・キリストへの信仰の故にご自分の子とされた信仰者のために、試練の長さも強さも全部コントロールしておられます。ですから、真のクリスチャンは必ず試練に耐えられるのです。Ⅰコリント10:13もこう言います。「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に遭わせることはなさいません。耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さいます。」

 いいえ、これだけではありません。Ⅰペテロ1章に戻ります。苦しい試練にも関らず信仰によって忍耐した者には、7節「イエス・キリストが現われる時」、つまり、隠れたことも全てご存じの神による最後の審判の時、言い換えますと、全人類に臨む最後で最大の試練の時、神は「称賛と栄光と誉れ」を与え、忍耐したその度合に応じて必ず信仰者に報いて下さるのです。

 その最後の時の光景を、ヨハネの黙示録21:3、4はこう述べます。「見よ、神の幕屋が人々と共にある。神は人々と共に住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、共におられる。神は彼らの目から涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 クリスチャンの最も感謝に満ちた幸せの一つは、どんな試練にも最終的には必ず耐えられるように、この世でも彼の世でも、全知全能の神が申命記33:27の言うように「永遠の腕」をもってお守り下さることです。この幸せをしっかり心に留め、私たちをご自分の許にお招き下さっている御子イエス・キリストを幼子のように素直に信じ、受け入れ、依り頼みたいと思います。

 二つ目に進みます。それは今の点とも関りますが、真のクリスチャンは、肉体の死の力や恐れ、あるいは空しさからだけでなく、永遠の死と滅びからも救われて、新しく生きる者とされ、また希望をもって生きることができるということです。

 自分自身も厳しい信仰の戦いの中にあったペテロは、同じように信仰の戦いの中にいる初代教会のクリスチャンたちに語りました。3~5節「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめ讃えられますように。神は、ご自分の大きな憐れみの故に、イエス・キリストが死者の中から甦られたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせて下さいました。また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにして下さいました。あなた方は、信仰により、神の御力によって守られており、終りの時に現されるように用意されている救いを頂くのです。」

 今日は伝道礼拝ですので、詳しい細かい説明は省かせて頂きます。ただ、ここを読んでハッキリ分ることがあります。それは、私たちの罪を全て背負って十字架で死なれ、でも三日目に甦られ、天に昇られた神の御子イエス・キリストを心から信じ依り頼む者には、新しい永遠の命が与えられ、天の祝福は絶対確実であり、だからこそ、望みをもって自分の人生を歩めることです。

 神の御子イエス・キリストが約2千年前、全世界の罪を背負って十字架で命を献げ、しかし約束通り、天の父なる神により復活させられたことは、よく知られています。しかし大事なことは、それが私たちに対して持つ意味であり恵みです。それにも色々ありますが、ペテロの手紙のここから教えられることの一つは、3節の終りで言われていますように、イエスを心から信じる者は、新しい誕生を許されているということです。

 繰り返します。永遠の命を持っておられる神の御子イエスを私たちが信じ、イエスを私たちの心と生活にお迎えすることは、神の目に、私たちは新しく誕生した神の子供、神の赤ちゃんとならせて頂くのと同じなのです。

 無論、赤ちゃん自身には、自分の誕生についての自覚はありません。しかし、親にはそれはどんなに大きな喜びでしょうか。それと同じように、私たちがイエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れても、自分が新しく生まれたという自覚は殆どないかも知れませんね。でも、神にとっては違います!神には、私たちは新しく生れた赤ちゃんであり子供であり、本当に大きな喜びなのです!自分の力や自分の立派さによってでもなく、ただイエス・キリストへの信仰のお蔭で、罪人の私たちが神の子として新しく生れた者とされ、しかも永遠に神の子として神が喜んで下さる!

 クリスチャンになっても、現実の私たちは相変らず信仰が薄く、情けない罪人です。間違いも失敗も一杯します。しかし、こんな私たちであっても、神はご自分の子、ご自分の赤ちゃんとして愛し、喜んでいて下さいます!これが幸せでなくて何でしょうか!

 ですから、イエス・キリストによって、是非、永遠に神の子供とされ、共に励まし合い、支え合って、夫々が自分の人生を全うしたいと思うのです。

 もう一つは、同じく3節の終りで言われていますが、クリスチャンは確かな希望を持って生きるようにされていることです。

 この世には根拠のない、馬鹿げた、空しい希望もあります。しかし聖書によりクリスチャンに与えられている希望には、神の保証があります。それはイエス・キリストの復活の事実です。神は、私たちへの愛と憐れみが如何に確かかを、イエスの復活によって保証して下さっています。ですから、3節の終りで「生ける望み」、つまり確かな望みだと言われるのです。

 具体的には、例えば、先程学びましたように、どんな試練にもクリスチャンは神の恵みにより必ず耐えられます!いつ死んでも必ず天国に迎えられます!神と人へのどんな小さな奉仕も労苦も、必ず報われます!7節で見ましたが、最後の時、称賛と栄光と誉れを神はご用意下さっています!

 人間は、希望がありませんと自暴自棄になり、乱暴になりますね。その反対に、確かな希望がありますと、心に余裕が生れ、人にも自分にも穏やかで優しくなれます。神は御子イエス・キリストを信じるご自分の子供たちに、ご自分が希望でいて下さいます!何という幸せでしょうか!

 この幸せに是非ご一緒に与りたいと思います。

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