2021年02月21日「御心が行われますように」

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御心が行われますように

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章9節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。
   「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」
(新改訳聖書2017年度版)マタイによる福音書 6章9節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、主イエスが祈りの手本としてお教え下さった主の祈りの第三祈願を学びます。10節「御心が天で行われるように、地でも行われますように。」

 「行われる」は、ギリシア語の原文では「なる」であり、少し意味が広いですが、とにかく神の御心がこの世でも行われるように祈ることを、イエスはお教えになります。

 ところで、イエスは何故、「天で行われるように」と言われるのでしょうか。「天」、つまり、神の領域では、先に召された多くの聖徒たちの霊や天使たちが喜んで神の御心を行なっているのですが。

 第一に、天に比べ、この世がどんなに神の御心から離れているかを、私たちがよく自覚するためです。

 実際、この世とこの世の人は、万物の創り主なる真の神をどんなに無視し、拒み、自分勝手に生きていることでしょう。いいえ、私たち自身はどうでしょうか。例えば、マタイ5章の初めにある山上の説教の冒頭でイエスが語られる真のクリスチャンの特徴である心の貧しさ(5:3)、すなわち、神の前での徹底したへりくだりはあるでしょうか。私たちは自分の罪をどれだけ悲しみ(同5:4)、人に対して柔和で(同5:5)、義に飢え渇き(同5:6)、憐れみ深く(同5:7)、心の清い者(5:8)でしょうか。私たち自身も神の御心から何としばしば離れていることでしょうか。

 ルカ福音書18:9~14の譬で、イエスはパリサイ人と取税人の祈りを比較されます。取税人は自分が神の御心を行わず、情けない罪人であることがよく分っていました。彼の希望は自分の内にはありません。ですから、頭を垂れ、胸を打ち、「神様、罪人の私を憐れんで下さい」と、ただ祈るのでした。しかし、これが大切なのです。イエスは言われました。14節「義と認められて家に帰ったのは、この人です。」

 「天で行われるように」という一言は、天に比べて余りにも不信仰で罪深いこの世と私たち自身の惨めな状態を、まず私たちがしっかり認識し、心底へりくだることを促します。

 しかし第二に、これは私たちに希望を与え、信仰を励まします。御心が100%行われている素晴らしい天の国のあることを私たちに気付かせるからです。

 実際、天に目を向けると、どうでしょうか。かつては地上で私たち同様、欠けや弱さや失敗だらけで、自分の罪と不信仰に泣くことも一杯あった信仰の先輩たちが今、天では喜んで生き生きと神の御心を行っています!笑顔で一杯です!ですから、ヘブル書の著者も天を指してこう励まします。ヘブル12:1「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

 私たちを愛しておられる主イエスが言われた言葉、文語文ですと「御心の天になる如く」が持つ意義は誠に大きいです。私たちは、自分をも含めた地上の罪深い現実を悲しむと共に、無数の信仰の先輩たちと天使たち、何より神ご自身により御心が完全に行われている天を思い、感謝と希望を込めて「御心の天になる如く」と唱えたいと思います。

 以上、「御心が天で行われるように」の意味を学びました。次に「御心が地でも行われるように」という点を見ます。主は、私たちの関心を今度は現実の世界と私たち自身にしっかり向けさせられます。そして、御心が十分行われていないだけでなく、御心を無視し、神に背き、でもそのために却って悲惨な状態に陥っているこの世界と私たちに「神の御心がなるように」と熱く祈ることをお教えになります。

 具体的には、どんなことをこの祈りの言葉から教えられるでしょうか。この世と私たちの両方を頭に置いて考えてみます。

 第一は、神の御心を正しくもっと十分に知ることです。この世と私たちによって御心が行われ、御心がなるためには、肝心の御心がよく分っていなければ、意味がありません。この祈りは、まず私たちが正しく十分に神の御心を知ることを求めます。そうすることで、初めて私たちはこの世に神の御心を示すことも可能となります。従って、御言葉と教理を繰り返し正しく教会で学ぶ必要が、全てのクリスチャンにあります。

 信仰は熱心なのかも知れませんが、どうも不安定で危なっかしいという人の原因の殆どは、教理を正しくキチンと知らないことにあります。パウロはローマ10:1、2でユダヤ人の問題についてこう語っています。「兄弟たちよ、私の心の願い、彼らのために神に献げる祈りは、彼らの救いです。私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。」

 神は人間を知識・感情・意志からなる心を持つ者として創られましたが、その順序が大切です。神の御心が行われるためには、キリストにより神を知ることを許された私たちが、神の御心を正確かつ十分に知ることが不可欠なのです。

 パウロはこうも言います。ローマ10:17「信仰は聞くことから始ります。聞くことは、キリストについての言葉を通して実現するのです。」「キリストについての言葉」とは福音のことです。正しい福音理解、つまりバラバラに聖書を知るのではなく、私たちを教え、戒め、矯正し、義に導く訓練をし、本当の意味で私たちを造り変え、清め、成長させる、教理また福音を身に着けることが大切です。

 御言葉や教理は、一度学んだだけでは十分ではありません。私たちはとても忘れやすいからです。ですから、ペテロも大事な真理をⅡペテロ1:12で「いつも思い起させる積り」だ、と手紙の読者に訴えました。

 「御心の天になる如く、地にもなさせ給え」と祈る時、「神様、私があなたの御心をもっと正しく全体的に知ることが出来るように導いて下さい。また皆で一緒に御心を知ることが出来ますように」と祈りたいと思います。

 第二に教えられることは、神の御心を私たちが実際に行い、御心に生きることです。

 この世で御心が行われるためには、回りの人に神の御心を伝える必要があり、そこで私たちが日々、言葉と行動で御心をよく証しすることが大変重要です。が、そのためには何より私たち自身が自分の弱さと欠けをよく自覚し、恐れおののいて自分の救いの達成に熱心に努めることが大切です。

 これは、信仰だけでは自分は救われないかも知れないので、行いにおいて熱心に、という意味ではありません。救いは100%、キリストへの信仰によります。今言うのは、自分がイエス・キリストにより一方的に救いの恵みに与った者として、霊的にもっと清い者へ変えられ、主イエスに似る者へと聖化の完成に向って熱心でありたい、ということです。その意味でパウロはピリピ2:12「愛する者たち、あなた方がいつも従順であったように、私が共にいる時だけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するように努めなさい」と言いました。

 「御心の天になる如く、地にもなさせ給え」と祈る時、私たちは、自分は別にして、この世が御心を行うようになることだけを祈ることは出来ません。まさに御心が世で行われるためにクリスチャンは地の塩・世の光として世に派遣され、家庭、学校、職場、地域に置かれています。クリスチャンは、愛と清さに満ちた神の正しい御心、特に素晴らしい救いの御心が具体的に行われるための主の道具であり手足です。自分のためにも皆のためにも、私たちはまず自分と自分の家族が神の御心を行い、御心がなるようにと、諦めずに絶えず祈っていきたいと思います。

 第三は、何といっても神の支配と導きを熱心に願い、委ねることです。何故でしょうか。

 その理由の一つは、神の御心が分っていても、罪の残り滓があるために私たちにはそれを中々行えないからです。実際、私たちは罪を犯しては悔い、悔いてはまた犯す情けない者です。ですから、神の支配と導きを熱心に願うのです。

 また二つ目に、御心は分っていても、この世で今すぐ御心がなりそうもない時があるからからです。世界にも日本にも、横暴な権力者や政治家の何と多いことでしょうか。いいえ、身近な所でも、御心は分っているのですが、御心がなかなか実現しそうもない時がありますね。問題が簡単に覆ることは中々期待できない。私たちには歯がゆいですね。でも、決してヤケを起してはなりません。そんな時こそ、無から有を生じさせることの出来る神を信じ、無論、自分の出来る努力はしますが、人間の罪とそれを背後で煽るサタンを神が退け、「御心が行われるように」と祈り、神の時を待ちたいと思うのです。

 三つ目に、神の御心が分らない時もありますから、神の支配と導きを熱心に願うのです。

 申命記29:9に「隠されていることは、私たちの神、主のものである」とありますように、神の御心が分らない時もあります。また自分なりに考えはあっても、それが御心かどうか分らない時もあります。実際、イエスを裏切ったユダが死んだ後、初代教会は後任の候補者を二人立てましたが、どちらが相応しいのかが分りませんでした。そこで教会は神の支配と導きを祈って神に委ね、くじを引き、御心を仰ぎ、そして後任者が決まりましたね。

 主イエスも十字架の前夜、こう祈って天の父に一切を委ねられました。マタイ26:39「わが父よ、出来ることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私が望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさって下さい。」

 箴言19:21は言います。「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。」

 ここに私たちの究極の希望と慰めがあります。私たち人間の考えが退けられて構いませんから、神の正しい御心こそがなるようにと、神の支配と導きを願い、神にお委ねしたいと思います。「御心の天になる如く、地にもなさせ給え!」「御心が天で行われるように、地でも行われますように!」アーメン

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