2021年02月14日「御国が来ますように」

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。
   「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」
(新改訳聖書2017年度版)マタイによる福音書 6章9節~13節

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 今日も主イエスが祈りの手本としてお教え下さった主の祈りを学びます。二つ目の祈りに進みます。10節「御国(みくに)が来ますように。」

 「御国」とは神の国のことです。国といいますと、私たちはつい国土や領海のようなものを考えると思います。しかし、聖書では何より「支配」を意味します。神の明確な支配のある所が神の国なのです。

 聖書は、三つの形で神の国の存在を教えます。

 第一は、約2千年前、神の御子イエスが人となって世に来られ、私たちのために十字架の死と復活を中心とする恵みに満ちた数々の御業(みわざ)をされた時に示された神の国です。天の父とその御心(みこころ)をイエスは人々に鮮やかに示し、多くの病人を癒し、沢山の人を悪霊から解放され、そこに神の国は来ていました。イエスは言われました。ルカ福音書11:20「私が神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなた方の所に来ているのです。」

 二つ目は、信仰者の中に始まり存在する神の国です。私たちが自分の罪と不信仰を心底悔い改め、イエスを自分の救い主として心から信じ受け入れ、父なる神とその清いご支配と導きに自分の一切を委ね明け渡すなら、神の国は私たちの内に来ており、私たちの中でそれは始まっています。

 パリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかとイエスに尋ねた時、イエスは答えられました。ルカ福音書17:20、21「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』と言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなた方のただ中にあるのです。」

神の国は、イエス・キリストを心から信じる者の内にあり、そこに既に来ているのです。

 三つ目は、世の終りに出現する神の国です。

 この世界は永遠には続きません。必ず終りが来ます。

 しかし、それがいつなのかを聖書は語っていません。世の終りはいつなのかという終末予言は昔からあり、近年にもキリスト教の異端の人たちが何度も世の終りを予言し、全て外れました。聖書は、いつが終りかを語っていませんが、終末のあることは明言しています。その時、今の世界は滅び、神の国は目に見える形で現れ、最後まで自己中心の罪と頑なに不信仰に生きた人には、永遠の裁きが臨みます。しかし、罪を心底悔い改め、へりくだってイエスを心から信じ、受け入れ、寄り頼んできた人は、神に罪を公に赦され、義とされ、新天新地に移されます。涙を全て拭われ、この世で行った善い行いはことごとく報われ、神と共に、また同じように神を仰ぎ真実に生きた人たちと共に、永遠に生きる者とされます。Ⅱペテロ3:12、13は言います。「天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神様の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」

 主イエスは、特に2番目と3番目の意味で、第二の祈りを教えられました。

 しかし、何故イエスはこの祈りを教えられたのでしょうか。それは私たち人間にどうしようもない罪があり、また恐ろしい悪の力が働いているからです。

 人類の歴史を振り返るなら、人間の罪深さに、私たちはしばしば言葉を失うと思うのです。例えば、ポーランドに残されているアウシュヴィッツ強制収容所の一番奥には、ナチスに抵抗したため、一番危険とされた人々が入れられた棟が残されています。そこでは1人平均1分足らずの裁判で、約1万人が死刑判決を受けました。中庭では男女を問わず裸にされ、銃殺されました。暗い地下牢には直立牢があり、90㎝四方の煉瓦作りの部屋に4人ずつ立たされ、食事も飲物も与えられず、身動き出来ないまま閉じ込められました。力尽きて先に死んだ仲間を支えに、死ぬまで立たされ続けるのです。人間の罪深さに慄然とします。

 聖書はまた人間の罪を煽るサタンの存在を教えます。エペソ2:2はサタンを「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊」と呼び、Ⅱコリント4:4は「この世の神」と呼びます。人間の悪の性質とサタンを、私たちは決して忘れてはなりません。

 では、私たちはこれを自分の力で阻止出来るでしょうか。私たちは本当に無力です。自分の言葉や感情一つ支配出来ず、時にはとんでもないことまでしてしまう、誠に惨めな罪人です。しかし、だからこそ、恵み深い主イエスは「御国が来ますように」と神に祈り、神の支配を求めるようにお教え下さるのです。

 「支配」と聞きますと、私たちは不自由さをまず感じるかも知れません。しかし、神は愛と平和、慈しみと憐れみに満ちた神です。そうであるなら、人間の愚かで罪深い欲望や間違いやすい判断力とか、それを煽るサタンが私たちを支配するのと、御子を十字架につけられた程に私たちを愛しておられる正しい真実な神が支配されるのと、どちらが幸せでしょうか。疑問の余地はありません。この祈りは、実は私たちを最高の自由と希望に生きる者へと、解放し、引き上げようとする本当に尊い祈りなのです。

 そこで次のように言えます。第一に、これは本当の意味で隣人愛の祈りであり、福音宣教を促す祈りだと。「御国」、すなわち神の麗しいご支配が、あらゆる人や家庭、国、全世界に臨むことを願うからです。

 神とその清いご支配を拒み、人間が自分を過信して突き進んだ結果、却って自分を滅ぼし、サタンに振り回されるという人間の悲惨さを、聖書を学ぶ人たちは知っていました。そこで、クリスチャンは歴史を通じて常に、神とイエス・キリストの福音を人々に伝えてきました。

 私たちはこれを祈るだけで、何もしないでいることは出来ません。「神様、あなたの恵みのご支配である御国を、私の家族、私の知っているあの方とそのご家族、日本と全世界の人に来らせて下さい」と祈るならば、私たちは自分を、特に福音を人に伝えるために献げないではおられません。この祈りは隣人の救いのために、自分を差し出すことを促さないではおれない。「神様、私を地の塩、世の光として用い、多くの人にイエス・キリストによる魂の救いを来(きた)らせて下さい。心を開かれ、主を信じ、受け入れることにより、一人でも多くの方が、罪と様々な問題、サタンの力と永遠の滅びから救われ、神の愛と恵みの支配が心と生活に臨み、永遠の命の幸いに与れますように!」こう祈り、そこで、たとい不十分であっても自分を献げる!これがこの祈りです。ですから、これは隣人愛の祈りであり、福音宣教の祈りと言えます。

 第二に、この祈りは、歴史と社会に対する鋭い認識と責任感を促す祈りでもあります。「御国が来ますように」と祈る時、私たちはすぐに思い至ります。つまり、「この世はいつか終る。その時、どこまでも心頑な人間とサタンは永遠に滅ぼされる。その時は来る」と。

 神は全てを見ておられ、私たちにも問うておられます。それなら、私たちは社会と歴史に対して、無責任な生き方は出来ません。神を畏れ、責任をもって生きる!従って、「神様、どうか私が歴史と社会をもっとよく知り、考え、この世で私のなすべき、また私の果せる使命を、少しでも私に果たさせて下さい」と祈るのです。

 1985年5月8日、当時のドイツ・キリスト教民主同盟所属の大統領ヴァイツゼッカーは演説の中で言いました。「過去に目を閉ざす者は、結局の所、現在にも盲目となる。」「心に刻むというのは、歴史における神の御業(みわざ)を目の当りに経験することである。」

 第三に、これは自分の信仰と救いの完成を神の前に切に求める、極めて真摯な祈りと言えます。「御国が来ますように」と祈る時、私たちは自分の心と生活に神のご支配があり、自分が変えられることを当然願います。

 実際、もし私たちが誠実に自分の心と生活を聖書に照らすとどうでしょうか。例えば、神の大切な律法の中心である神と人を愛すること、神と人に仕えることにおいて、どれだけ出来ているでしょうか。結構ずるくて、それでいて、人をすぐ批判し裁く傲慢さはないでしょうか。

 私たちは皆、本当に欠けだらけです。そんな自分を知るなら、誰でも次のように祈らないではおれないと思うのです。「神様、本当に私は不信仰で罪深い者です。ですから、あなたが何卒私を、あなたの御心通りに支配し、導き、清めて下さい。私の全てをあなたに明け渡します」と。

 ところで、このように自分自身を神の支配に、繰り返し明け渡して生きた人は、どのように人生を終るでしょうか。スイスの精神科医・心理学者、C・G・ユングは「人は自分が生きてきたように死ぬ」と言いました。その通りです。そして正に「御国が来ますように」と、主が教えられた祈りを心から祈る最も幸いな理由の一つも、ここにあります。

 常日頃から、このように心から祈り、神の清いご支配にへりくだって真摯に、しかも喜んで自分を明け渡して生きてきた人は、当然、神の聖いご支配と守りの内に、この世での最期を迎えます。そして愛と慈しみに満ちた神の御子イエスに迎えられ、永遠の御国に入れられ、どんなに感謝しても足りない自分自身を必ず発見することを、許されるでしょう。

 「御国が来ますように!」この祈りは短いです。簡潔です。しかし、計り知れない祝福が、凝縮してギュッと込められています。ご自分の御子イエスにより、このような素晴らしい祈りを私たちに教え、祈らせることで、私たちを励まし、力付け、最高の祝福に与らせようとしておられる父なる神の熱い愛と励ましを、覚えないではおられません。ですから、この祈りを皆で、またお互いを覚え合って、何度でも祈らせて頂こうではありませんか。 

 「御国が来ますように!」「御国を来らせたまえ!」

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