聖書の言葉 5:7 キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。ヘブライ人への手紙 5章7節 メッセージ 個人的な祈りについて、聖書と私たちの経験から教えられることを、今日もお話致します。 第一に、祈れること自体、素晴らしい恵みであることを決して忘れないでいたいと思います。 神から折角信仰を与えられていても、この世では罪の残り滓があるために、情けないですが、私たちは主の日の礼拝出席だけでなく、祈ることさえ億劫で、面倒臭いということはないでしょうか。そういう時、案外私たちは、祈れることが実はどんなに素晴らしい恵みであるかを忘れ、義務感だけで祈ろうとしていないでしょうか。 実は御霊が私たちを愛し魂に働かれるからこそ、私たちは祈れるのであり、祈らせて頂けるのです。それはどんなに感謝なことであり、光栄なことでしょう。主の日の礼拝出席についても全く同じですが、祈りについても、それが愛と憐れみによる神の内なる導きによる恵みであることをしっかり思い起し、「神様、この私に祈らせて下さり、感謝致します」とまずしっかり感謝するのです。すると、祈ることが単に億劫でなくなるどころか、嬉しくなるでしょう。 第二に、祈りと願いを神の御前で本当に真実なものにするために、例えば、特別な思いのある時には、その場所へ行き、そこに自分の身を置いて祈ることも、とても良いと思います。 45年近く昔のことです。今は引退牧師であられるI先生が盛岡伝道に就かれた最初の頃のことです。H教会から赴任された直後、彼は盛岡市全体を見渡せる山に登って祈ったと、ある所に書いておられました。これは何と大切なことでしょう。 私も岡山へ赴任して来た直後の2019年1月7日(月)、初めて岡山城へ行き、天守閣の6階で岡山市全体を見回しながら夫々の方角に向いて祈りました。すると、心に大変強く迫るものを覚えたものです。 無論、どこで祈っても、神は同じように聞いて下さいます。しかし、場所が変ると、私たち自身の意識と祈りの姿勢が変えられ、一層真実なものになります。ですから、他の教会などへ行き、祈ろうという思いに導かれたならば、是非その場に身を置いて祈ると良いと思います。自分の全存在を挙げての祈りとなります。旧約時代のイスラエルの信仰者たちは、エルサレム神殿に向かって祈りました。神の約束に従ってそうしたのですが、そのことでどんなに信仰を励まされたことでしょう。とにかく、自分の祈りを神の前に真実なものにするために、是非色々工夫したいと思います。 第三に、どうしてもあることを神に叶えて頂きたい時には、文字通り、自分の全存在を傾け、涙ながらに、また神にしがみつく位、真剣に祈りたいと思います。 パダン・アラムから故郷へ戻って来たヤコブは、昔、自分が長子の権利と父イサクからの祝福を奪った兄のエサウに会うことをひどく恐れ、特に自分の家族への危害を恐れました。そこで創世記32章が伝えますように、彼は神の祝福を願い、ヤボクの渡しで一晩中、それこそ神の御使いに食いつき、格闘し、腿の関節が外れる位、激しく祈りました。その結果、彼と彼の一族は本当に主に守られました。 病にかかり、イザヤから死を告げられたヒゼキヤ王はどうだったでしょうか。イザヤ38:2、3が伝えますように、彼は顔を壁に向け、祈り、大声で泣きました。すると、神はイザヤを通してこう言われました。5節「私はあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、私はあなたの寿命にもう15年加える。」涙ながらの本当に真剣な祈りに、神は憐れみをもってお応え下さったのです。 いいえ、誰よりも、私たちの主イエス・キリストは、十字架の前夜、ゲツセマネでどんなに激しく祈られたでしょうか。ルカ22:42~44は伝えます。「『父よ、御心なら、この杯を私から取り去って下さい。しかし、私の願いではなく、御心がなりますように。』すると、御使いが天から現れて、イエスを力付けた。イエスは苦しみ悶えて、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴のように地に落ちた。」 実は43、44節が欠けていたり、これがマタイ26:39の後に来ている写本もあり、ここはギリシア語の本文に関して議論があります。けれども、イエスが激しく祈られたことは間違いありません。ですから、ヘブル5:7は「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いを捧げ、その敬虔の故に聞き入れられました」と述べ、手紙の読者たちを励ましました。 私たちにも、これは絶対神に聞いて頂きたいと願うものがあると思います。では、どれ位、私たちは、それこそ涙ながらに、或いは体が痛くなる位激しく真剣に神に祈っているでしょうか。チョコッと祈っては、すぐ他のことに気が移ることはないでしょうか。私たちは鋭くこう問われているように思います。「あなたは本気なのか」と。 仮に祈りがその通りに聞かれなくても、全身全霊を傾けるそのよう真剣な祈りなら、神はご自身のご判断で最終的には一番良いように必ずされます。このことに信頼して、大切なことのために本当に涙をもって真剣に祈りたいと思います。 関連する説教を探す 2021年の祈祷会 『ヘブライ人への手紙』
個人的な祈りについて、聖書と私たちの経験から教えられることを、今日もお話致します。
第一に、祈れること自体、素晴らしい恵みであることを決して忘れないでいたいと思います。
神から折角信仰を与えられていても、この世では罪の残り滓があるために、情けないですが、私たちは主の日の礼拝出席だけでなく、祈ることさえ億劫で、面倒臭いということはないでしょうか。そういう時、案外私たちは、祈れることが実はどんなに素晴らしい恵みであるかを忘れ、義務感だけで祈ろうとしていないでしょうか。
実は御霊が私たちを愛し魂に働かれるからこそ、私たちは祈れるのであり、祈らせて頂けるのです。それはどんなに感謝なことであり、光栄なことでしょう。主の日の礼拝出席についても全く同じですが、祈りについても、それが愛と憐れみによる神の内なる導きによる恵みであることをしっかり思い起し、「神様、この私に祈らせて下さり、感謝致します」とまずしっかり感謝するのです。すると、祈ることが単に億劫でなくなるどころか、嬉しくなるでしょう。
第二に、祈りと願いを神の御前で本当に真実なものにするために、例えば、特別な思いのある時には、その場所へ行き、そこに自分の身を置いて祈ることも、とても良いと思います。
45年近く昔のことです。今は引退牧師であられるI先生が盛岡伝道に就かれた最初の頃のことです。H教会から赴任された直後、彼は盛岡市全体を見渡せる山に登って祈ったと、ある所に書いておられました。これは何と大切なことでしょう。
私も岡山へ赴任して来た直後の2019年1月7日(月)、初めて岡山城へ行き、天守閣の6階で岡山市全体を見回しながら夫々の方角に向いて祈りました。すると、心に大変強く迫るものを覚えたものです。
無論、どこで祈っても、神は同じように聞いて下さいます。しかし、場所が変ると、私たち自身の意識と祈りの姿勢が変えられ、一層真実なものになります。ですから、他の教会などへ行き、祈ろうという思いに導かれたならば、是非その場に身を置いて祈ると良いと思います。自分の全存在を挙げての祈りとなります。旧約時代のイスラエルの信仰者たちは、エルサレム神殿に向かって祈りました。神の約束に従ってそうしたのですが、そのことでどんなに信仰を励まされたことでしょう。とにかく、自分の祈りを神の前に真実なものにするために、是非色々工夫したいと思います。
第三に、どうしてもあることを神に叶えて頂きたい時には、文字通り、自分の全存在を傾け、涙ながらに、また神にしがみつく位、真剣に祈りたいと思います。
パダン・アラムから故郷へ戻って来たヤコブは、昔、自分が長子の権利と父イサクからの祝福を奪った兄のエサウに会うことをひどく恐れ、特に自分の家族への危害を恐れました。そこで創世記32章が伝えますように、彼は神の祝福を願い、ヤボクの渡しで一晩中、それこそ神の御使いに食いつき、格闘し、腿の関節が外れる位、激しく祈りました。その結果、彼と彼の一族は本当に主に守られました。
病にかかり、イザヤから死を告げられたヒゼキヤ王はどうだったでしょうか。イザヤ38:2、3が伝えますように、彼は顔を壁に向け、祈り、大声で泣きました。すると、神はイザヤを通してこう言われました。5節「私はあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、私はあなたの寿命にもう15年加える。」涙ながらの本当に真剣な祈りに、神は憐れみをもってお応え下さったのです。
いいえ、誰よりも、私たちの主イエス・キリストは、十字架の前夜、ゲツセマネでどんなに激しく祈られたでしょうか。ルカ22:42~44は伝えます。「『父よ、御心なら、この杯を私から取り去って下さい。しかし、私の願いではなく、御心がなりますように。』すると、御使いが天から現れて、イエスを力付けた。イエスは苦しみ悶えて、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴のように地に落ちた。」
実は43、44節が欠けていたり、これがマタイ26:39の後に来ている写本もあり、ここはギリシア語の本文に関して議論があります。けれども、イエスが激しく祈られたことは間違いありません。ですから、ヘブル5:7は「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いを捧げ、その敬虔の故に聞き入れられました」と述べ、手紙の読者たちを励ましました。
私たちにも、これは絶対神に聞いて頂きたいと願うものがあると思います。では、どれ位、私たちは、それこそ涙ながらに、或いは体が痛くなる位激しく真剣に神に祈っているでしょうか。チョコッと祈っては、すぐ他のことに気が移ることはないでしょうか。私たちは鋭くこう問われているように思います。「あなたは本気なのか」と。
仮に祈りがその通りに聞かれなくても、全身全霊を傾けるそのよう真剣な祈りなら、神はご自身のご判断で最終的には一番良いように必ずされます。このことに信頼して、大切なことのために本当に涙をもって真剣に祈りたいと思います。