聖書の言葉 5:16 いつも喜んでいなさい。 5:17 絶えず祈りなさい。 5:18 すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。テサロニケの信徒への手紙一 5章16節~18節 メッセージ 本日は礼拝後に定期会員総会がありますので、そのことと今年の教会標語について短く触れたいと思います。 改めて言うまでもありませんが、定期会員総会の目的の一つは、昨年1年に私たちの教会に許された礼拝を中心とする諸活動や会計を振り返り、悔い改めるべき点は悔い改め、感謝すべき点は感謝し、栄光を神に帰することです。 今回はコロナウィルスのために総会の時間が限られていますが、皆、事前に年報を読んで来ていますので、細かい報告はありません。しかし、総会中に各自が意識的に去年の自分自身と皆の信仰生活と教会生活を神の前に振り返り、或いは悔い改め、或いは神に感謝したいと思います。 もう一つは、今年の私たちの歩み、すなわち、礼拝を中心とする諸活動と経済的な点でも神の祝福を願い、神の栄光と福音の前進のために、皆で一つとなって進もうと決意し直すことです。伝道所委員の選挙も、教会の一致と前身のために、大変重要です。 大切なのは、会議に臨む態度であり、信仰です。宗教改革者カルヴァンは、クリスチャンが会議をする時の姿勢は神礼拝の時と本質的には同じだという主旨のことを述べています。本当にそうだと思います。そして、それは次の主イエスの御言葉を絶えずしっかり心に覚えることです。マタイ18:20「二人か三人が私の名において集っている所には、私もその中にいるのです。」何と大切な主の御言葉でしょうか。 簡単ですが、教会の重要な定期会員総会に臨む基本姿勢について確認しました。次に教会標語を中心に、私たちの今年の基本姿勢についてお話致します。 今年の標語は、「教会設立を目指して-喜び、祈り、感謝して生きよう-」であり、聖句はⅠテサロニケ5:16~18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことにおいて感謝しなさい」です。2003年にも同じ御言葉を標語としています。 何故こういう標語にしたのでしょうか。 私たちの伝道所は、今、教会設立を目指しています。すなわち、キリストの霊的な体である教会で重要な役割と責任を担う長老を持ち、また私たちの属する日本キリスト改革派教会・四国中会や日本キリスト改革派教会の全体(大会)に対し、人的にも経済的にも貢献出来る教会組織へ変ろうとしています。その最終目標は、神の栄光が表され、また人間を罪と永遠の滅びから真(しん)に救い、神に喜ばれる者へと完成させ、最高の幸せに与らせるイエス・キリストの福音の前進にあります。 ただ、そのためには、長老や執事に相応しい人物が存在するだけでなく、全教会員が、聖書、神、人間、キリストとキリスト信仰による救い、聖霊、教会、クリスチャンの生活などについてもっと学ぶことも必要です。いいえ、学びだけでなく、教会における種々の具体的な奉仕や、互いに仕え合う主にある親しい交わりも不可欠です。 そのように総合的に考えますと、私たちの群れが、人的にも経済的にも更に成長し安定することが大事であり、伝道に励む必要があります。 そこで、昨年は「教会設立を目指して-福音に生き、福音を飾り、親しい方をお誘いしよう-」という標語と、Ⅱテモテ4:2「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」を掲げました。 所が、去年は新型コロナウィルス問題が起り、教会的にも個人的にも様々な制約を受け、伝道も十分に出来ませんでした。そこで今年も去年に続き、外に向っては伝道に励み、教会内では学びと奉仕と交わりに努めることを願い、「教会設立を目指して-喜び、祈り、感謝して生きよう-」を標語とし、Ⅰテサロニケ5:16~18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことにおいて感謝しなさい」の御言葉(みことば)を選びました。 しかし、年報にも書きましたが、実は最も心に留めたいのは「喜び」です。 昨年、当伝道所は季刊誌を出しました。4頁ものの小さな印刷物であり、来月末には第4号が出る予定です。その名称ですが、祈って色々考えた末、「よろこび」に決めました。理由は、伝道を推し進める上でも、教会形成や教会設立のためにも、私たちクリスチャンに喜びのあることが、とても大切だからです。 実際、どうでしょうか。魂に喜びがない時には、私たちが積極的に人を教会や家庭集会に誘うことは大変難しいですね。また教会に新しい方が来られても、教会員に喜びや笑顔が見られず、活気がないなら、一般的な言い方ですが、どこに魅力を感じ、続けて教会に来よう、という気持になるでしょうか。喜びはどんなに大切でしょうか。 前にも少しお話しましたが、紀元1世紀後半から4世紀初めにかけて、常にではなく波もあり、地域により程度の違いもありましたが、キリスト教は大きな迫害をローマ帝国の中で受け、殉教者も夥しく出ました。背教する者も出ました。それにも関らず、クリスチャンは各地で増えていき、紀元313にはミラノ勅令が出され、キリスト教は遂に公認されました。ローマ帝国はそうせざるを得なかったのです。 では、何故クリスチャンになる者が増えたのでしょうか。理由も色々考えられますが、やはり大きな理由は、クリスチャンたちがイエス・キリストの福音を喜んで生きていたからだ、と言われます。 20世紀最大の説教者の一人とか、最後の改革派説教者とも言われたマーティン・ロイドジョンズも『霊的スランプ』という本の最初の所で、福音の証しという観点から、喜びの薄いクリスチャンの問題に触れ、その解決を聖書の御言葉から沢山教えています。 そして誰よりも使徒パウロは先程お読みしましたⅠテサロニケ5:16で「いつも喜んでいなさい」と教え、ピリピ3:1では「私の兄弟たち、主にあって喜びなさい」と言い、4:4では「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と重ねて教えます。 では、聖書は何故喜ぶように教えるのでしょうか。一つは、喜ぶ理由があるからです。 一体、クリスチャンはどんなに幸せでしょうか。私たちを造られ、御子イエス・キリストを知り信じる信仰を与え、ただその信仰の故に私たちの罪を一切合切赦し、永遠の命を与え、ご自分を愛する者には最終的には万事を益として下さる真(まこと)の神の子供とされる以上のどんな幸せがあるでしょうか。 しかもこの全ては、ただ神の一方的な愛によります。この世で無きに等しい愚かで小さな罪人である自分のような者を、神が無限・永遠・不変の愛で愛して下さっている!究極の真理であられる真(まこと)の神を自分が知っている!知ることを許されている!いつ死んでも御子イエスのお蔭で直ちに神の御許に召されるという安心!これが喜びでなくて何でしょうか。ですから、私たちは喜ぶのです。 しかし、喜ぶ理由は他にもあります。困難なことが次々起り、私たちを失望落胆させることの多い人生において、神とその愛、その恵みをしっかり覚え感謝することで私たちの内に生じる喜びが、実は力や希望を与え、私たちを守り、私たちを立ち上がらせるからです。 イヤなことが続きますと、私たちは気落ちし、気分は悪く、やる気を失いやすいですね。そこをサタンは抜け目なく狙い、イエス・キリストから私たちを引き離そうとします。 しかしその時、私たちがイエス・キリストの福音を思い起し、先程申しました神の愛と諸々の恵みを思い巡らしますと、私たちの内に喜びが生れます。しかもクリスチャンには、それは単なる喜びではなく、主なる神ご自身を喜ぶ喜びとなります。すると私たちは、たとえ問題そのものは未解決のままでも、私たち自身が力付けられ、元気にされ、今、自分に出来ることから手を付けることが出来るようになります。 辛いバビロン捕囚から解放され、エルサレム神殿を再建したものの、城壁は崩れたままでしたので、総督ネヘミヤは立ち上がり、大変な困難の中、紀元前444年頃、城壁再建工事は漸く終りました。しかし、その後、律法の朗読を聞き、民は、先祖と自分たちの罪と不信仰を改めて思い、皆泣きました。その時、ネヘミヤは「今日は主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない」と言い、続けてこう言いました。ネヘミヤ8:10「主を喜ぶことは、あなた方の力だ」と。新共同訳聖書はこう訳します。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」 喜ぶ!何と尊いことでしょう。特に神を喜ぶことを通して、主イエス・キリストは弱い私たちを力付け、心に平安、希望、また余裕を与え、顔を輝かせて下さいます。そして、それは自ずと福音の証しとなり、主は大切な伝道と教会形成を祝福されます。 「いつも喜んでいなさい!」どうか、私たちがこの御言葉に生きる1年となれますように! 関連する説教を探す 2021年の日曜朝の礼拝 『テサロニケの信徒への手紙一』
本日は礼拝後に定期会員総会がありますので、そのことと今年の教会標語について短く触れたいと思います。
改めて言うまでもありませんが、定期会員総会の目的の一つは、昨年1年に私たちの教会に許された礼拝を中心とする諸活動や会計を振り返り、悔い改めるべき点は悔い改め、感謝すべき点は感謝し、栄光を神に帰することです。
今回はコロナウィルスのために総会の時間が限られていますが、皆、事前に年報を読んで来ていますので、細かい報告はありません。しかし、総会中に各自が意識的に去年の自分自身と皆の信仰生活と教会生活を神の前に振り返り、或いは悔い改め、或いは神に感謝したいと思います。
もう一つは、今年の私たちの歩み、すなわち、礼拝を中心とする諸活動と経済的な点でも神の祝福を願い、神の栄光と福音の前進のために、皆で一つとなって進もうと決意し直すことです。伝道所委員の選挙も、教会の一致と前身のために、大変重要です。
大切なのは、会議に臨む態度であり、信仰です。宗教改革者カルヴァンは、クリスチャンが会議をする時の姿勢は神礼拝の時と本質的には同じだという主旨のことを述べています。本当にそうだと思います。そして、それは次の主イエスの御言葉を絶えずしっかり心に覚えることです。マタイ18:20「二人か三人が私の名において集っている所には、私もその中にいるのです。」何と大切な主の御言葉でしょうか。
簡単ですが、教会の重要な定期会員総会に臨む基本姿勢について確認しました。次に教会標語を中心に、私たちの今年の基本姿勢についてお話致します。
今年の標語は、「教会設立を目指して-喜び、祈り、感謝して生きよう-」であり、聖句はⅠテサロニケ5:16~18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことにおいて感謝しなさい」です。2003年にも同じ御言葉を標語としています。
何故こういう標語にしたのでしょうか。
私たちの伝道所は、今、教会設立を目指しています。すなわち、キリストの霊的な体である教会で重要な役割と責任を担う長老を持ち、また私たちの属する日本キリスト改革派教会・四国中会や日本キリスト改革派教会の全体(大会)に対し、人的にも経済的にも貢献出来る教会組織へ変ろうとしています。その最終目標は、神の栄光が表され、また人間を罪と永遠の滅びから真(しん)に救い、神に喜ばれる者へと完成させ、最高の幸せに与らせるイエス・キリストの福音の前進にあります。
ただ、そのためには、長老や執事に相応しい人物が存在するだけでなく、全教会員が、聖書、神、人間、キリストとキリスト信仰による救い、聖霊、教会、クリスチャンの生活などについてもっと学ぶことも必要です。いいえ、学びだけでなく、教会における種々の具体的な奉仕や、互いに仕え合う主にある親しい交わりも不可欠です。
そのように総合的に考えますと、私たちの群れが、人的にも経済的にも更に成長し安定することが大事であり、伝道に励む必要があります。
そこで、昨年は「教会設立を目指して-福音に生き、福音を飾り、親しい方をお誘いしよう-」という標語と、Ⅱテモテ4:2「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」を掲げました。
所が、去年は新型コロナウィルス問題が起り、教会的にも個人的にも様々な制約を受け、伝道も十分に出来ませんでした。そこで今年も去年に続き、外に向っては伝道に励み、教会内では学びと奉仕と交わりに努めることを願い、「教会設立を目指して-喜び、祈り、感謝して生きよう-」を標語とし、Ⅰテサロニケ5:16~18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことにおいて感謝しなさい」の御言葉(みことば)を選びました。
しかし、年報にも書きましたが、実は最も心に留めたいのは「喜び」です。
昨年、当伝道所は季刊誌を出しました。4頁ものの小さな印刷物であり、来月末には第4号が出る予定です。その名称ですが、祈って色々考えた末、「よろこび」に決めました。理由は、伝道を推し進める上でも、教会形成や教会設立のためにも、私たちクリスチャンに喜びのあることが、とても大切だからです。
実際、どうでしょうか。魂に喜びがない時には、私たちが積極的に人を教会や家庭集会に誘うことは大変難しいですね。また教会に新しい方が来られても、教会員に喜びや笑顔が見られず、活気がないなら、一般的な言い方ですが、どこに魅力を感じ、続けて教会に来よう、という気持になるでしょうか。喜びはどんなに大切でしょうか。
前にも少しお話しましたが、紀元1世紀後半から4世紀初めにかけて、常にではなく波もあり、地域により程度の違いもありましたが、キリスト教は大きな迫害をローマ帝国の中で受け、殉教者も夥しく出ました。背教する者も出ました。それにも関らず、クリスチャンは各地で増えていき、紀元313にはミラノ勅令が出され、キリスト教は遂に公認されました。ローマ帝国はそうせざるを得なかったのです。
では、何故クリスチャンになる者が増えたのでしょうか。理由も色々考えられますが、やはり大きな理由は、クリスチャンたちがイエス・キリストの福音を喜んで生きていたからだ、と言われます。
20世紀最大の説教者の一人とか、最後の改革派説教者とも言われたマーティン・ロイドジョンズも『霊的スランプ』という本の最初の所で、福音の証しという観点から、喜びの薄いクリスチャンの問題に触れ、その解決を聖書の御言葉から沢山教えています。
そして誰よりも使徒パウロは先程お読みしましたⅠテサロニケ5:16で「いつも喜んでいなさい」と教え、ピリピ3:1では「私の兄弟たち、主にあって喜びなさい」と言い、4:4では「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と重ねて教えます。
では、聖書は何故喜ぶように教えるのでしょうか。一つは、喜ぶ理由があるからです。
一体、クリスチャンはどんなに幸せでしょうか。私たちを造られ、御子イエス・キリストを知り信じる信仰を与え、ただその信仰の故に私たちの罪を一切合切赦し、永遠の命を与え、ご自分を愛する者には最終的には万事を益として下さる真(まこと)の神の子供とされる以上のどんな幸せがあるでしょうか。
しかもこの全ては、ただ神の一方的な愛によります。この世で無きに等しい愚かで小さな罪人である自分のような者を、神が無限・永遠・不変の愛で愛して下さっている!究極の真理であられる真(まこと)の神を自分が知っている!知ることを許されている!いつ死んでも御子イエスのお蔭で直ちに神の御許に召されるという安心!これが喜びでなくて何でしょうか。ですから、私たちは喜ぶのです。
しかし、喜ぶ理由は他にもあります。困難なことが次々起り、私たちを失望落胆させることの多い人生において、神とその愛、その恵みをしっかり覚え感謝することで私たちの内に生じる喜びが、実は力や希望を与え、私たちを守り、私たちを立ち上がらせるからです。
イヤなことが続きますと、私たちは気落ちし、気分は悪く、やる気を失いやすいですね。そこをサタンは抜け目なく狙い、イエス・キリストから私たちを引き離そうとします。
しかしその時、私たちがイエス・キリストの福音を思い起し、先程申しました神の愛と諸々の恵みを思い巡らしますと、私たちの内に喜びが生れます。しかもクリスチャンには、それは単なる喜びではなく、主なる神ご自身を喜ぶ喜びとなります。すると私たちは、たとえ問題そのものは未解決のままでも、私たち自身が力付けられ、元気にされ、今、自分に出来ることから手を付けることが出来るようになります。
辛いバビロン捕囚から解放され、エルサレム神殿を再建したものの、城壁は崩れたままでしたので、総督ネヘミヤは立ち上がり、大変な困難の中、紀元前444年頃、城壁再建工事は漸く終りました。しかし、その後、律法の朗読を聞き、民は、先祖と自分たちの罪と不信仰を改めて思い、皆泣きました。その時、ネヘミヤは「今日は主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない」と言い、続けてこう言いました。ネヘミヤ8:10「主を喜ぶことは、あなた方の力だ」と。新共同訳聖書はこう訳します。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
喜ぶ!何と尊いことでしょう。特に神を喜ぶことを通して、主イエス・キリストは弱い私たちを力付け、心に平安、希望、また余裕を与え、顔を輝かせて下さいます。そして、それは自ずと福音の証しとなり、主は大切な伝道と教会形成を祝福されます。
「いつも喜んでいなさい!」どうか、私たちがこの御言葉に生きる1年となれますように!