祈りについて (1)
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 ローマの信徒への手紙 15章30節~32節
15:30 兄弟たち、私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私と 共に力を尽くして、神に祈って下さい。
15:31 私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように、
15:32 また、神の御心により、喜びをもってあなた方の所に往き、あなた方と共に、憩いを得ることができるように、祈って下さい。ローマの信徒への手紙 15章30節~32節
今週の主の日の礼拝から「主の祈り」を学び始めましたが、本日の祈祷会では、私たちの祈りが真に神に祝福されるために、少し具体的な点で、聖書と私たちの経験から教えられることをお話させて頂きます。
祈りにも色々あります。礼拝などで、皆を代表する公同の祈りがあり、祈祷会のような場での祈りがあり、独りでする個人的祈りもあります。
まず、礼拝などで皆を代表して祈る公同の祈りから見ます。
これにも色々あります。礼拝では司式者による牧会祈祷、説教後の説教者の祈り、聖餐式の式文に則った祈り、献金感謝祈祷もあります。様々な委員会や部会、勉強会における開会・閉会の祈りがあり、教会学校では教師や生徒が代表して祈ることもあります。このように色々な場合と色々な立場での祈りがありますが、どれにも共通している点は、個人の祈りではなく、皆を代表しての祈りだということです。従って、極力個人色を排し、誰もが素直にアーメンと言えるような内容と言葉遣いが必要でしょう。
とはいえ、個人色が全く入らないことは難しいですし、むしろ、その人らしい個性はあって良いと思います。4人の福音書記者は同じ主イエスについて公的に福音書を書きましたが、夫々の個性は顕著であり、神はそれを良しとされ、むしろ、ご自身の栄光と私たち人間の救いのために大いに用いておられます。
話を戻します。公同の祈りで大事なことは、誰もが素直にアーメンと言えること、それとエペソ4:29が言いますように、皆の霊的成長に役立ち、聞く人に恵みを与える言葉で祈り、昔からの表現を使えば、建徳的であることに努めて、内容と言葉遣いをよく考え選ぶ配慮です。
もう一つ加えて言いますと、特に公同礼拝のような場合は、体に支障なければ、キチンと起立し、姿勢を正して祈る、という位の意識が大切でしょう。
皆を代表して祈る公同の祈りについてはこれで終ります。
次は、皆で集って祈る祈祷会のような場での祈りについてお話致します。
第一に、祈祷会は祈りを皆で共有する場ですから、他の人に良く分る明瞭な言葉遣いと発声、また声量に努めたいと思います。よく聞き取れない祈りですと、祈りを共有出来ず、非常に残念です。しかし、少し意識しますと、よく聞き取れる祈りとなります。
第二に、他の人の祈りを漫然と聞くのではなく、言葉の一つ一つに、謙虚にまた熱い思いをもって耳を傾け、自分の思いと一致する時は、逐一「アーメン」と心の中で唱えて応答し、人の祈りに自分の心を沿わせたいと思います。そうすることで、素晴らしいことですが、祈りを本当に皆で共有し、一体となれます。
第三に、これは特に他者のための執り成しの祈りの場であることを覚えたいと思います。
昔、ある教会の祈祷会出席者の中に、自分と自分の家族や仕事の収益のことなどプライベートなことまで一杯祈る女性がいて、他の者は、アーメンと唱えて良いのか困りました。彼女にはそれらは大ごとであり、皆に祈ってほしく、また聞いてほしかったのでしょう。しかしそれなら、事前に皆にこの点で祈ってほしいと言えばいいです。無論、節度が必要ですが。彼女は公同の祈祷会の基本的性質が分っておらず、家での祈りの延長のような認識だったのだと思います。
祈祷会は特に他者のための執り成しの祈りの場です。そのことに、より多くの祈りを献げるべきですね。無論、自分たちの教会のためにも祈って構いません。
これと一見矛盾するようですが、第四に、実は私たちは自分や自分の家族や友人のことで、祈りのお願いを祈祷会でもっとして良いのです。パウロも自分のための祈りを、公けの手紙であるローマ15:30~32においてこう頼んでいます。「兄弟たち、私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私と共に力を尽くして、神に祈って下さい。……また、神の御心により、喜びをもってあなた方の所に往き、あなた方と共に、憩いを得ることが出来るように、祈って下さい。」
彼はエペソ6:19、20でも「また、私のためにも、私が口を開く時に語るべき言葉が与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることが出来るように、祈って下さい。私はこの福音のために、鎖に繋がれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈って下さい」と祈りをお願いしています。Ⅰテサロニケ5:25でもⅡテサロ3:1でもそうです。ヘブル13:18も同じです。彼らは皆、謙虚でした。無論、単に自分のためではなく、主とその福音を伝える器としての自分でしたから、その自分のために祈ってほしいと切実な思いで頼んだのでした。
自分のことでお願いするのは、厚かましく思えて、気が引けるかも知れません。またその内容についても節度が必要でしょう。しかし、自分のことであっても、それが信仰や信仰生活など、神に関ることであるなら、遠慮することはありません。むしろ神の家族として、もっと互いに具体的に祈りを頼み合って良いのではないでしょうか。
私たちの教会が、祈りにおいても温かい聖徒の交わりを、更に豊かに具現できますようにと、心から願います。