2021年01月17日「天にいます父なる神に祈る」
問い合わせ
天にいます父なる神に祈る
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 6章9節~13節
聖書の言葉
6:9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。
「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」マタイによる福音書 6章9節~13節
メッセージ
関連する説教を探す
主イエスは、紀元1世紀のユダヤで神に喜ばれるとされた三つの善行、すなわち、施し、祈り、断食を6章で順次取り上げ、しかしそこにも入り込む人間の偽善の罪を指摘しつつ、大切なことをお教えになります。今日から、その中の9~13節にある「主の祈り」を学びます。
まず、基本的なことを確認しておきます。
第一に、主の祈りはあくまで祈りのお手本です。従って、これさえ祈れば、他の祈りは必要ないというのではありません。聖書は様々な祈りを教え、そのどれもが尊いものです。私たちは、礼拝で主の祈りを唱え、また私的に、またある時にはベッドサイドでご病人とも祈ります。しかし、あくまでこれを核として、様々なことを祈りたいと思います。
第二に、これを余り頻繁に祈りますと、形式的になりやすいですので、注意したいと思います。
第三に、時々これをすごく早口で唱える人もいます。しかし、それは祈りの本質から言えば良くありません。言葉を一つ一つ噛みしめて祈ることが大切です。
第四に、祈りのお手本とはいえ、多くの尊いことを教えられます。主の祈りはとても短いですね。イエスは当時のユダヤの言葉、アラム語で教え、それがギリシア語に翻訳されたのですが、ギリシア語では9~13節まで僅か57語しかありません。しかし、非常に大事なことが含まれています。
例えば、構造的にもそうです。神への呼び掛けがあり、続いて神のことを祈り、次に私たち自身の必要に進みます。つまり、祈りの優先順位を教えられます。
内容の広がりも見事です。神の御名、神の国、すなわち神のご支配、神の御心と共に、私たち人間の、それも身体的・霊的必要に触れ、人を赦すことでは人間関係も含まれます。時間的に過去、現在、未来のことも含まれ、天のことも地のことにも触れます。こういう見事な祈りのお手本をイエスが下さったことに、本当に心から感謝したいと思います。
さて、今朝は、最初の神への呼びかけを学びます。イエスは言われます。9節「ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。』」
今、神への呼びかけと申しました。私たちは極普通に「天の父なる神様」などと呼びかけて祈りますが、世の中には何に祈るのかが分らない宗教も少なくありません。伊勢神宮に行った時に西行が歌った歌、「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」があります。どんな神なのか分らなくてもありがたく、それが日本人の宗教性だとも言われます。でも、どうなのでしょう。祈る自分の側のことだけが考えられていて、祈る対象は何でも良いというのは、結局、自己満足ではないでしょうか。
信じ仰ぐ神がどんな方かを知るのと知らないのとでは、大違いです。私たちは、イエス・キリストと聖書から、真の神をハッキリ教えられています。何と感謝なことでしょう。
それだけに、根本的なことですが、呼びかけの言葉「天にいます私たちの父よ」と唱える時、私たちは漫然とではなく、しっかり神を意識したいと思います。「今、私は神の前におり、神は私をご覧になり、耳を傾けておられる」と意識するのです。
さて、具体的な点を学びます。
イエスは第一に、神が私たちの「父」であることをお教え下さいます。実際、クリスチャンは、今やイエス・キリストのお蔭で、神を本当に「父」と呼ぶことの出来る素晴らしい資格、身分、特権に与っています。
神は万物の創り主ですから、その意味では、神は全人類の父と言えなくはありません。しかし、エペソ2:2、3によれば、神に背き、自分の欲のままに生きている人間は、神の怒りこそが相応しく、本当は神の子とは言えません。
それにも関らず、イエス・キリストのお蔭で、私たちはこの天地の創り主、全宇宙より偉大でこれを支配し、しかも御子を賜った程に私たちを愛しておられる神を、本当に「父」と呼んで良いのです。信仰はまだ弱く不完全でも、クリスチャンはイエス・キリストのお蔭で、今や永遠に神の子とされています。何という光栄でしょう。
無論、天の父は人間によく見られる甘いだけの父ではありません。ヘブル12章が言うように、義という平安の実を結ばせるため、試練により私たちを訓練される父です。従って、私たちは神の前に心底謙り、神を畏れる者でなければなりません。でも、確かにクリスチャンは今や神の子とされています!マルコ14:36が伝えますように、イエスは十字架の前夜、ゲツセマネで「アバ、父よ」と祈られました。「アバ」とは、当時のユダヤの言葉、アラム語で、幼子が父親を信頼して呼びかける時の幼児語だそうです。イエスはそのように祈られたのでした。そこで、初代教会のクリスチャンたちも、ローマ8:15やガラテヤ4:6が伝えますように、神を信頼して、いつしか「アバ、父よ」と呼びかけるようになりました。どんなに喜んでこう唱えたことでしょう。
私たちも、幼子が父親に言うように「お父さん、お父様」と、是非、神に呼びかけたいと思います。こう呼びかけてみますと、嬉しくて心が温かくなるのをきっと感じるでしょう。
第二に、イエスは「私たちの」父よ、と祈るよう教えられます。「私たちの」です。ここにまた大事なことを教えられます。
私たちは、信仰を与えられても、生れながらの自己中心性がなかなかなくなりません。罪の残り滓があるため、祈りですら自己中心となる傾向があります。そして実はそれこそが大切な人間関係を破壊し、人を傷つけ、自分をも駄目にしている根本原因なのです。何と不幸なことでしょう。私たちを愛しておられる主はそれをよくご存じです。そこで、神の子供にして下さった私たちをこの自己中心性から解き放つためにも、イエスは「私たちの」という言葉を教えられるのでした。
従って、「私たちの」と唱える時、まず、同じ信仰に生きる教会の兄弟姉妹たちのことを心に留めたいと思います。中には健康を損ね、あるいは他のことが原因で苦しみ、不安のために人知れず涙を流している方、礼拝から遠ざかっている方、遠い所に住んでいる兄弟姉妹たちもいます。一瞬でもいいです。私たちの意識を彼らのことにまで広げますと、自分のことに終始しやすい私たちの意識は随分変わるでしょう。
公同礼拝の時には時間的余裕がありませんが、家庭礼拝や個人礼拝では少し時間的に余裕もあります。そういう時には、「私たちの」という神への呼びかけの言葉を口にする際、例えば、韓国や中国の教会、そして迫害や弾圧で苦しむ全世界の様々な国の教会のことも覚えたいと思います。
いいえ、今は明確な信仰はなくても、いつか私たち同様、イエスの十字架により罪と永遠の滅びから救いに与って下さることを期待し、混乱や分断や悲しみに満ちた全世界の、また身近な人々を覚えて心をグッと広げ、「私たちの」と唱えたいと思います。その意味で、主の祈りは、真にエキュメニカルな、全世界的で、かつ真実な隣人愛の祈りと言えます。
最後、第三に「天にいます」という言葉に注目します。キリスト教の歴史の中で、信仰の先輩たちはこの言葉の大切さに気づいていました。ですから、例えば、1563年作成のハイデルベルク信仰問答の問121は、「天にまします」と付け加えることについて、答「何か地上のことを思うことなく、その全能のご性質に対しては、体と魂に必要なこと全てを期待するため」と述べ、1647年作成のウェストミンスター小教理問答の問100は、「主の祈りの序言が私たちに教えていることは、私たちを助ける力と志を持っておられる神に、全くきよい崇敬と確信とをもって」と言います。
要するに、一つは神へのきよい崇敬の念をもって神を仰ぎ祈ることです。
聖書では、「天」は、被造世界と区別され、それを超えた神の聖なる霊的領域をも指します。
先程、幼子が「お父さん」と全幅の信頼をもって父親に呼びかけるように、私たちもイエス・キリストを通して神に「お父様」と親しく呼びかけて良いと、言いました。しかし、それは神の聖さをわきまえずに馴れ馴れしくではなく、神へのわきまえと節度をもった親しさです。「天にいます」と言う時、こういう神へのきよい崇敬の念を忘れたくないと思います。
二つ目は神への絶対的信頼です。
繰り返します。ここの「天」は、被造世界を超えた全知全能の、しかも御子イエスを十字架に付けられた程に私たち罪人を愛しておられる神の完全な領域を指します。
人間の父には必ず欠点があります。優しいですが、意志が弱く洞察力に欠ける父親。逆に意志も力も強いのですが、強引で思いやりに欠け、すぐ感情的になる父親もいます。短気で横暴で信頼できない父親像しか抱けない人もいます。皆、大なり小なり欠点があります。地上の父親に私たちは感謝しますが、完全を期待することは、元より無理です。
そうだとしますと、地上の父親に対して持つ父親像を延長して「父なる神」と言っても、信頼して祈るのは難しいですね。いいえ、ですからこそ、主は、「『天にいます』父よ」と祈ることをお教えになるのです。天にいます父は、その存在、知恵、力、聖さ、正しさ、愛、真実、また美しさにおいて完全なお方です。従って、私たちは全く信頼して祈って良いのです。またハイデルベルク信仰問答の問21が言いますように、「その全能のご性質」を覚え、「体と魂に必要なこと全てを期待」し、さらにウェストミンスター小教理問答の問100が言いますように「私たちを助ける力と志を持っておられる神に、全く清い崇敬と確信とをもって」祈るのです。天の父は、このように信頼して祈るご自分の子供たちを、どうして祝福されないことなど、あるでしょう。
「天にいます私たちの父よ。」
このように呼びかけることをお教え下さっている主イエス・キリストに感謝し、神を崇め、また兄弟愛、隣人愛をもって、さらに神に熱い期待と信頼をもって、是非ご一緒に神に祈り続けたいと思います。