2021年01月10日「真実な祈りを」

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:5 また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
6:6 あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:7 また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。
6:8 ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。
   (新改訳聖書2017年度版)
マタイによる福音書 6章5節~8節

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 今朝も主の御声にご一緒に耳を傾けたいと思います。

 イエスは6章で、紀元1世紀のユダヤで、神に受け入れられるとされていた三つの善行を取り上げ、しかし、そこに潜む人間の罪を指摘し、正しいあり方を教えられます。1~4節では施し、5~15節では祈り、16~18節では断食です。今朝は祈りについて学びます。

 ウェストミンスター小教理問答の問88が言いますように、祈りは、神が人間に下さった最も尊い恵みの手段の一つであり、私たちを大いに祝福します。しかし、そういう大切な祈りであっても、罪は付きまといます。

 罪とは何でしょうか。色々な言い方が可能ですが、結局、自己崇拝と言えるでしょう。神ではなく、自分を崇めようとすることです。大切な祈りにおいてですら、罪はすさまじい力で私たちに働きます。ですから、主イエスは、注意しなさい、と言われます。

 聖書を見ます。誤った祈りの第一は、意識が自分に向けられることです。5節「祈る時、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。」

 「偽善者」とイエスは厳しく言われます。特に、当時のユダヤ教の律法学者やパリサイ人たちのことが背景にあるでしょう。彼らは皆から「敬虔な人だ」と言われたくて、わざと目立つ所で祈りました。自己宣伝のためです。

 しかし、自分が誉められたいための祈りは、真実な祈りではありません。ですから、イエスは言われます。5節「彼らは既に報いを受けている」と。2節にもありましたが、「報いを受け」と訳されているギリシア語は「全額支払いを受ける」という意味です。確かに人々の称賛は得られるかも知れない。でも、それで全部です。神からは何もありません。神は心をご覧になります。Ⅰサムエル16:7は言います。「人は上辺を見るが、主は心を見る。」

 そこでイエスは言われます。6節「あなたが祈る時は、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いて下さいます。」

 これは人前で祈ることや皆と共に祈ることを禁じているのではありません。また密室の祈りの方が優れているとか、密室で祈りさえすれば良い、というのでもありません。イエスの指摘はもっと鋭い。人間の罪はどうしようもなく深いのです。

 イエスは3節で、右手のすることを左手に知られないように、すなわち、「自分の善行は自分にも知らせるな」と言われました。従って、6節の教えもただ密室に入るのではなく、「心の密室」に入って祈れということでしょう。実際、密室に入っても、人間はそこで祈る自分のことを人が知っていて、自分を誉めてくれることを想像しながら祈ることも出来ます。それどころか、密室で祈る自分の姿を、自分の頭に思い浮かべ、自分は信仰深いと思って祈ることさえ出来ます。

 しかし、それなら、会堂や大通りの角に立って祈るのと変りません。祈っている時、さも敬虔そうに祈っている自分の姿が心に浮ぶなら、偽善者の祈りと同じです。

 公の祈りでは、当然他の人に配慮し、言葉も内容も選びます。しかし、ここで言われているのは、個人的祈りです。その場合、真実な祈りは、自分の全存在を神に没入し、他のことは頭にありません。「人の視線も自分の視線も閉め出し、文字通り、天の父なる神と1対1になって祈りなさい」とイエスは言われ、そして約束されます。6節「そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が、あなたに報いて下さいます。」神は祈りに応えて下さる。このことを今朝改めてしっかり心に刻みたいと思います。

 誤った祈りの二つ目は、祈りの言葉数や長さに捉われることです。主は言われます。7節「祈る時、異邦人のように、同じ言葉をただ繰り返してはいけません。」確かに真(まこと)の神を知らない人たちは、同じような言葉を繰り返す長い祈りが多いと思います。

 何故でしょうか。7節「彼らは、言葉数が多いことで聞かれると思っている…。」言い換えれば、言葉が少ないと、叶えられないのでは、という不安があり、そこで言葉を沢山繰り返して長く祈る。私たちには、そんなことはないでしょうか。

 誤解のないように申しますが、長い祈りは良くないとか不信仰だというのではありません。創世32章の伝えるペヌエルでのヤコブの祈りは一晩中続きました。詩篇18篇や89篇の祈りは随分長いです。また、ルカ福音書18:1以降で、イエスがしつこいやもめの譬えで教えておられますように、神に繰り返し祈り願うこと自体が悪いのではありません。それどころか、それがとても大事なことがあります。真剣な祈りは、そうでしょう。それと、祈り始めた所、神への思いが心に募り、神への感謝、喜び、賛美が次々湧き上がって祈りが長くなるのは、むしろ素晴らしいことで、神はどんなにお喜びでしょうか。

 イエスが問題にされるのは、言葉数が少ないと自分の祈りが神に聞かれないかも知れないと不安に思い、あるいはただ長く沢山祈れば神も聞いて下さるだろうと考え、ただくどくど祈るという不信仰です。

 私たちも、自分の祈りはどうなのか、意識が神にではなく自分に向けられていないか、言葉数や長さに捉われていないかと、是非、振り返りたいと思います。私たちを愛しておられる主は、今朝、それを私たちに願っておられます。

 そこで、最後に真実な祈りについて学びます。イエスは言われます。6節「あなたが祈る時は、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いて下さ」る。8節「あなた方の父は、あなた方が求める前から、あなた方に必要なものを知っておられる。」

 大事なことは、どこでどんな祈りをしようとも、「自分は今神に相対(あいたい)しているのだ」と強く自覚することです。

 具体的には、第一に祈りに不要なものを何もかも心から締め出すことです。先程申しましたように、特に「心の密室」を作り、自分を見つめる他人の視線も自分の視線も締め出し、自分を忘れるのです。たとえ密室に独りでいても、人が自分をどう思い、自分が自分をどう思っているかという自意識に満ち、自分のことを考え、自分を称賛したがる限り、それは真実な祈りではありません。まず祈りに不要なものを全部、心から締め出すことです。

 第二に、自分が神の目の前にいることをハッキリ意識することです。徹底して清い神、ローマ1:18が言いますように罪に対して怒られる神、ヘブル4:13が言うように、ご自身の目には一切が裸で隠れた思いや動機も全てさらけ出されている、そういう神の前に自分がいることを鮮明に自覚することです。

 また、クリスチャンは、今やイエス・キリストを通して私たちの「父」となって下さった素晴らしい神の前にいることを、よく意識することです。父なる神は、私たちが自分を愛する以上に私たちを愛し、悔い砕けた魂を愛し、マタイ10:29、30の言うように、私たちの髪の毛1本までも数え、御許し(みゆるし)がなければ一羽の雀さえ地に落ちることがない程に、一切を支配しておらる神です。天の父は、エペソ3:20「私たちの内に働く御力(みちから)によって、私たちが願うところ、思うところの全てを遥かに超えて行うことの出来る方」であり、マタイ7:11が言うように、ご自分の子供に良い物しか与えず、詩篇103:8が言うように、憐み深く、怒るのに遅く、恵み豊かな神です。この神の前に自分がいることを、祈る時、しっかり自覚するのです。

 第三に私たちは、この天の父の子供として、神に心から信頼と確信をもって祈りたいと思います。ヤコブ1:6は言います。「少しも疑わずに、信じて求めなさい。」

 では、どういう確信でしょうか。人間の親がそうであるように、いいえ、それ以上に、父なる神は、ただ御子イエスへの信仰によりご自分の子とされた私たちを祝福することを喜びとされ、私たちの本当の幸福を願っておられ、私たちが願う前から、私たちに何が必要かをご存じだ、という確信と信頼です。イエスは言われます。8節「あなた方の父は、あなた方が求める前から、あなた方に必要なものを知っておられる」と。

 

 神が既にご存じなら、私たちは祈らなくてもいいのでは、と考える人もいます。それは違います。神は詩篇81:10で言われます。「あなたの口を大きく開けよ、私が、それを満たそう。」親を信頼して子供が素直に口をアーンと大きく開けると、親は喜んで与えます。私たちも祈りで天の父に大きく口を開けるのです。開けなければ与えられません。でも開ければ与えられます。神はそれをご自分の喜びとしておられるのです。

 心の密室に入り、人の目も耳も、それどころか自分の視線をも締め出し、自分が神の前にいることを強く自覚し、幼い子供が親に向って口を大きく開けるように、私たちも天の父に信頼し確信して祈る。これが真実な祈りです。

 尊い恵みの手段である祈りにおいて、主が私たちを更に成長させ、困難の多いこの世の旅路をシッカリ真直ぐ歩ませて下さいますように!

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