隠れた施し
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 6章1節~4節
6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなた方の父から報い
を受けられません。
6:2 ですから、施しをする時、偽善者たちが人に誉めてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹い
てはいけません。まことに、あなた方に言います。彼らは既に報いを受けているのです。
6:3 あなたが施しをする時は、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。
6:4 あなたの施しが、隠れた所にあるようにするためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あな
たに報いて下さいます。
マタイによる福音書 6章1節~4節
今朝もご一緒に主の御声に耳を傾けたいと思います。
5:21からクリスチャンの義、つまり、正しい行動について語られたイエスは、それを行う根本的態度について、6:1以降で語られます。大変大事な箇所です。
まず1節で、主は基本原則を教え、その後、当時のユダヤで三大善行と言われたものを取り上げられます。2~4節では施し、5~15節では祈り、16~18節では断食です。施し・祈り・断食は、夫々対人的・対神的・対自的なものと言えます。
まず基本原則を学びます。イエスは言われます。1節「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなた方の父から報いを受けられません。」
「人に見せるためにしてはならない。」これは、5:16で「あなた方の光を人々の前で輝かせなさい」と言われたイエスの教えと矛盾するようですが、どうなのでしょうか。
私たちはしばしば極端に走ります。5:16のように言われると、人に自分の良い点を見せようとする。しかし、6:1のように言われると、今度は全てを引っ込める。しかし、主の教えに矛盾はありません。どちらも大切なのです。
教えられる第一のことは、クリスチャンは、人が私たちを見て、神を崇めるように生きるのであり、決して人の注意を自分に引き付けるべきではありません。
第二に、自分を喜ばせるよりも神に喜ばれることを願うべきです。私たちが人を喜ばせようとする時、本当は「自分が人に良く思われたい」という動機がないでしょうか。ここに自己中心の巧妙さがあります。しかし、神はお見通しです。それでは神は報いて下さいません。
そこで第三に、クリスチャンはどんな時にも自分が神の前にいることを覚えたいと思います。これを忘れなければ、自分について卑屈になることも、自分を他の人以上の者と思いたいためにする偽善の罪もなくなります。ヘブル4:13の「神の御前(みまえ)にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています」を、どんな時も深く心に留めたいと思います。
報いについても確認しておきます。時々誤解されていますが、クリスチャンが報いを神に期待することは間違いではありません。但し、滅びから天国へ救われるための善行ではありません。1節でイエスが言われますように、クリスチャンは、信仰により既に天の父なる神の子とされています。従って、クリスチャンは善いことについて、あくまで天の父なる神の子供として天の父に褒美を期待するのであり、また天の父も喜んで報いて下さるのです。
もう一つ大事なことがあります。それは、人からの報いを求めるなら、神からの報いはないということです。イエスは言われます。1節「そうでないと、天におられるあなた方の父から報いを受けられません。」これを私たちは改めて深く心に刻みたいと思います。
以上、基本原則を確認しました。そこで2~4節の施しに関するイエスの教えに進みます。
2節「ですから、施しをする時、偽善者たちが人に誉めてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。」
紀元1世紀のユダヤでは、施しをする時、敢えて会堂や通りでラッパを吹く人がいたようです。23章でイエスに厳しく非難されるパリサイ人や律法学者たちがしたのかも知れません。
ここに、私たちは誤った施しの態度を教えられます。それは、自分のしていることをわざわざ人に分るようにし、人の注意を引き、自分が認められるようにする施しや慈善、奉仕のことです。自己宣伝の目的で、そういうことをある人たちはしたのでしょう。
確かにそれで人に注目され、「偉い人だ」と誉め言葉をもらえるかも知れません。しかし、イエスは言われます。2節「まことに、あなた方に言います。彼らは既に報いを受けている」と。
「報いを受け」と訳されているギリシア語は、「全額支払いを受ける」という意味だそうです。成程、満足感も優越感も得られるかも知れない。しかし、それが全てです。この世だけで、人間からのものだけです。肝心の天の父からは何一つありません。永遠に繋がる霊的な清い喜びは全くもらえません。何と悲しいでしょう。何と愚かでしょう。
ラッパの吹き方は、人により違うでしょう。しかし、どうであろうと、それは偽善でしかありません。「偽善者」と訳されるギリシア語は、元は「役者」という意味で、「~を演じる人」のことです。でも、これは決して他人事ではありません。私たちを真に愛しておられる主は、この偽善の罪から何としても私たちをお救いになりたいのです。ですから、私たちも心したいと思います。
しかし、イエスの教えは、これで終りません。もっと深く私たち罪人の本質に迫ります。イエスは言われます。3、4節「あなたが施しをする時は、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れた所にあるようにするためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いて下さいます。」
「右の手がしていることを左の手に知られないように。」イエスは何を教えようとしておられるのでしょうか。自分のしていることを「人に言いふらすな」というだけではありません。「自分のしていることを、自分にも知らせるな」ということなのです。
私たちがキチンとした大人なら、自分のしている良いことを宣伝などしませんし、自己宣伝をしている人を見ると、軽蔑するかも知れません。しかし、イエスの求めておられることは、もっと深いのです。そういう自己宣伝屋ではない自分を誇るな、満足してはならない、ということなのです。
人への親切やお世話、また人の面倒を見、あるいは誰かに何かをして上げた、などと誰にも言いふらさないことは、とても大切なことです。しかし、クリスチャンとしてもっと大事なことは、自分に対しても言いふらさないことです。「右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい!」
いわば、「自分の心のメモ帳にすら記録するな」ということです。「そのような心の日記帳はつけてはならない。自分のした良いこと、施し、奉仕、愛の業など、神に心を動かされてそれをしたのであれば、それをした途端に全部忘れなさい」とイエスは言われるのです。
人には言わないものの、これらの良い行いを忘れず、自分の心のメモ帳にずっと残し続けると、どうなるでしょうか。いつになっても感謝や高い評価を自分が受けられませんと、不愉快で面白くなく、不満を口にするようになります。お返し、報いがないからです。
しかし、こういうことこそ、神の御心から離れています。主イエスは今朝、聖書を通して私たちにとても大事な注意をして下さっていると思います。
さあ、では、どうすれば、全部忘れられるでしょうか。D・マーティン・ロイドジョンズという牧師は、ほぼ次のようなことを言っています。「自分自身のことを考える暇がないまでに、神を愛し、神を喜び、神を見つめよ。」
本当にこの通りだと思います。ただ神ご自身の喜びを自分の喜びとするのです。自己中心の罪のために、神を無視し、神を忘れ、頭の中は自分と自分のしたいことばかりで、何かと神を後回しにする、そんな私たち罪人のために十字架に釘づけされ、血を流し、私たちの罪のために死んで下さった神の御子イエスを見つめるのです!一日に何回でも良い。何百回、何万回でも良い。すると、私たちは、自分のした、いいえ、神にさせて頂いたどんな良いことも、自ずと忘れ、神への感謝と愛だけが残るでしょう。
今朝説教題にした「隠れた施し」とは、「自分自身にも隠れ、自分自身にも記憶されない施し」という意味ででもあります。
最後に、イエスが下さった素晴らしい約束を見て終ります。4節「そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いて下さいます。」
私たちがやがてこの世の旅路を終え、天の父なる神の前に立つ最後の時、神は必ず報いて下さいます。人に自己PRをせず、それどころか自分のやった善いこともすっかり忘れている信仰者に、天の父は想像も出来ない素晴らしい永遠の報い、祝福を下さるでしょう。マタイ25:31以降、特に37節以降でイエスは言われます。「すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなた方に言います。あなた方が、これらの私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです。』」
興味深いことに、神から報いを受ける人たちは皆、自分のした善いことを忘れています。しかし、主は彼らを覚えておられ、ことごとく報いて下さいます。
私たちは、こういう天の父の前にいることだけを心に留め、また常に天の父が私たちを見ておられることを右手にも左手にも常に知らせながら、2021年もご一緒に歩みたいと思います。