聖書の言葉 3:16 神は、実にその独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 (新改訳聖書2017年度版)ヨハネによる福音書 3章16節~17節 メッセージ クリスマス礼拝を今年もご一緒に捧げることができ、感謝でございます。 クリスマスといいますと、子供にはプレゼントが嬉しいですね。いつものお父さん、お母さんなのですが、改めて彼らから贈り物をもらえるとなると、子供は、いいえ、大人も同じです、ワクワクします。贈り物自体も嬉しいですが、それをくれる人の愛が嬉しいですね。 その上、贈り物が自分にとって最も大切で必要なものなら、喜びは最高です。 実はクリスマスは、この世界と私たちを、愛をもって、また愛するために創られた天の父なる神が、私たちに最も素晴らしい贈り物を下さったことを覚え、私たちが感謝や希望や励ましを与えられ、新しい年も神を仰ぎつつ歩もうと、思いを新たにする時と言えます。 では、それはどんな贈り物でしょうか。ヨハネ3:16は言います。「神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」何と神は、ご自分の愛しい独り子イエスを、救い主として私たちにプレゼントして下さったのでした。 日本の宗教的土壌では、神仏が私たちを愛し、プレゼントをするなど、非常に考えにくいと思います。日本では、宗教の出発点は人間です。私たちが善行に励み、自分の欲望や煩悩と戦い、精進して何かを獲得し、或いは、一心不乱に願掛けをして神仏を動かし、救いや助けを得るというのが殆どです。 しかし、天と地を創られた真(まこと)の神は違います。何と神は、不信仰な罪人の私たちを尚も愛し、ご自分の掛け替えのない御子イエスを救い主としてお贈り下さったのです。しかも、イエス・キリストを通して与えられるものが素晴らしい。 贈り物をする時、私たちは相手に喜ばれる物や必要なものを選ぶと思います。実は父なる神も私たちに最も必要で大切なものを下さいます。何でしょう。永遠の命です。16節「神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」そうです、神は、御子を心から信じる者に、永遠の命を下さるのです! しかし、永遠の命とは、それ程素晴らしいのでしょうか。無論、素晴らしいです!ではどう素晴らしいのか。そこで、その点を三つばかり、今日はお話したいと思います。 第一に、それは私たちに、特に死に対する平安や落ち着き、勇気、希望を与えます。 私たちは皆、順番の違いはあっても、時が来れば必ず死にます。『月と六ペンス』などを書いた小説家サマセット・モームは「この世で100%確かなこと、それは人が死ぬことだ」と言ったそうです。その通り、私たちは必ずいつか死ぬのです。 しかも死後、この世での自分の思いと言葉と行いが全てあらわにされ、裁きを受けます。Ⅱコリント 5:10は言います。「私たちは皆、善であれ悪であれ、夫々肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストの裁きの座の前に現れなければならない…。」 死ねば一切が終りで、どう生きようとも、人は皆同じように永遠に消滅するという考えもあります。が、もしそうであるなら、私たちがこの世で辛いことも我慢し、誠実に生き、人を愛し、人に仕え、人に役立ちたいなどと思って生きた所で、何の意味があるでしょう。 しかし、感謝なことに神は、御子イエスを私たちが救い主として心から信じ、寄り頼むなら、私たちのあらゆる罪を赦し、私たちを神の子供とし、永遠の命を下さいます。 死ねば、何もかも終りではなく、永遠の裁きでもありません。神は御子イエスを信じる者の魂を直ちに完全に清め、天国に迎え、この世でのあらゆる苦痛や悲しみから解放し、限りない愛をもって慰めて下さいます。その時のことを黙示録21:3、4はこう言います。「見よ、神の幕屋が人々と共にある。神は人々と共に住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、共におられる。神は彼らの目から涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」到底言葉では言い尽せない喜びと感謝と平安の中に、神は私たちを包んで下さるのです。 その上、この世で私たちが不十分ながらも神と人のためにさせて頂いた様々な奉仕や捧げ物、人知れず流した汗、涙、忍耐や祈りも決して無駄にならず、一切が報われます。そういう永遠の命を神は下さるのです。黙示録14:13は言います。「『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らと共について行くからである。」 先週の火曜日、一人のクリスチャンが天に召されました。晩年は癌による辛い日々が続き、「早く神の許(もと)に召されたい」ともおっしゃっていました。私は「ただ神の御心がなりますように」と祈っていました。父なる神は、遂に彼を召されました。今や彼は、一切の涙を拭われ、神の御顔を仰ぎ、どんなに豊かな平安と喜びと感謝の内に安らいでおられることでしょう。そして彼と同じようにイエス・キリストを信じるご家族も、いつか神の国で彼と再会し、もう一度抱き合って喜び、神を力一杯賛美することを許されます!私たちもお会いできます! 今年、私たちは新型コロナウィルスの脅威にさらされ、死を意識することもあったと思います。そうでなくとも、私たちは、事故や他の病気などで、いつ、どこで、どのように死ぬか分りません。しかし、私たちを愛する故に天の父なる神が下さった御子イエスを心から感謝して信じるなら、私たちが死ぬ時も、イエスは私たちの傍らにおられ、私たちの手を握りしめ、父なる神と一緒になって天の国へ私たちを必ず迎え入れて下さいます。これが神の愛の贈り物、死を超えた永遠の命です。これを知っていることは、私たちに、死に対してどんなに勇気と希望、深い平安と落ち着きを与えるでしょうか。これが第一点です。 しかし、これだけではありません。第二に神の下さる永遠の命は、私たちがこの世で生きている間にも、新たな喜びや感動、感激を味わわせる命です。永遠の命とは、ただ時間的に永遠というのではなく、質的に新しい神からの命と言えます。 命と言っても、草や木や花など植物の命もあれば、昆虫や鳥や魚など動物の命もあります。それらも命ですが、天の父が御子イエスを通して私たちに「受け取りなさい」と言われる永遠の命は、質が違います。それは私たちに新たな感性や気付き、また魂の自由や喜び、感動をも与えることのできる新しい命と言えます。 ですから、例えば、今まで何気なく食べていた食事でも、それにより神が私たちの体を養い、何か尊いことのためにこの体をも用いられることに気付きますと、食べ物が一層美味しくなり、食べられることに感謝を覚えるようになります。 紅葉していく山々、空、白い雲、川を見ても、この大自然を神が造られ、美しく彩り、見事に配置しておられることを思いますと、感動を覚えます。 親に手を握られながらも、幼い子供が、勝手に覚えたのでしょう、楽しそうにスキップしている姿!そこに神の愛と摂理を覚えますと、感動します。 無論、この世は、聖書が言う通り罪の世ですから、危険なこと、ひどいこと、イヤなこと、悲しいことも一杯あります。その現実だけを見るなら、この世に生きることは、苦痛でしかないかも知れません。 しかし、天の神と御子イエスを信じ仰ぐ時、私たちは永遠の新しい清い命を頂くお蔭で、新たな感性を身に着け、魂の新しい五感を与えられ、本当に多くのことに神が生きて働いておられることや、神の愛、知恵、力、聖さ、正しさ、真実などを発見することができます。ですから、イエスは言われました。マタイ5:8「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」詩篇148は、神に感動して自然界にこう呼びかけます。「日よ、月よ、主をほめたたえよ。主をほめたたえよ、全ての輝く星よ。…山々よ、全ての丘よ、実のなる木よ、全ての杉よ、獣よ、全ての家畜よ…主の御名をほめたたえよ。」こういう喜び、感動、発見、感謝を生み出す永遠の命を、天の父なる神は御子イエスにより、私たちにご用意下さっているのです。何と感謝なことでしょうか。 最後、第三に、最も素晴らしい一つの点に短く触れて終ります。それは、実は神の愛そのものが私たちにプレゼントされていることです。 よく分りもしないのに神を頑なに否定し、好き勝手に生き、真の神以外のものを神として頼る偶像礼拝に走る者も多い私たち人間を救う義務など、神にはありません。人間が互いに勝手に争い、苦しみ、そのあげくに死んで滅ぶのを、黙って放っておいても構いません。 ところが、神はそうはされませんでした。自分で自分を罪と永遠の死から救うことの出来ない無力で情けない私たちのために、神は、旧約聖書にありますように、何千年も前から救い主を送ると約束され、また時至って、何と神はご自分の御子を不信仰な人間世界の真只中に、それも、全く無防備で無力な「赤ちゃん」として送られました。何故でしょう。不信仰で頑なな私たち人間ですのに、それでも神は私たちを尚も愛し、ご自分を求める者を決して拒まず、受け入れ、永遠の救いに招いておられることを示すためです。 そして御子イエスは、やがて私たちの罪を全部背負って十字架に架かり、復活され、神と私たちの間の架け橋となり、永遠の救いの道を開いて下さいました。結局、全てが神の愛だったのです。ヨハネ3:16は言います。「神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」 犬や猫など動物でもそうですが、自分が愛されていること、それを知ること程、嬉しくて感謝なことはありません。人間の究極の幸せとは、結局、愛なのですよね。 クリスマスは、まさに神の愛そのものが私たち罪人にプレゼントされ、この神の愛に私たちが一切を委ねて歩んで良いことを教えています。ご一緒に、感謝し、何の気がねをすることもなく、神の愛の中に、夫々の人生を丁寧に刻んで行くことを励まされたいと思います。 関連する説教を探す 2020年の日曜朝の礼拝 『ヨハネによる福音書』
クリスマス礼拝を今年もご一緒に捧げることができ、感謝でございます。
クリスマスといいますと、子供にはプレゼントが嬉しいですね。いつものお父さん、お母さんなのですが、改めて彼らから贈り物をもらえるとなると、子供は、いいえ、大人も同じです、ワクワクします。贈り物自体も嬉しいですが、それをくれる人の愛が嬉しいですね。
その上、贈り物が自分にとって最も大切で必要なものなら、喜びは最高です。
実はクリスマスは、この世界と私たちを、愛をもって、また愛するために創られた天の父なる神が、私たちに最も素晴らしい贈り物を下さったことを覚え、私たちが感謝や希望や励ましを与えられ、新しい年も神を仰ぎつつ歩もうと、思いを新たにする時と言えます。
では、それはどんな贈り物でしょうか。ヨハネ3:16は言います。「神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」何と神は、ご自分の愛しい独り子イエスを、救い主として私たちにプレゼントして下さったのでした。
日本の宗教的土壌では、神仏が私たちを愛し、プレゼントをするなど、非常に考えにくいと思います。日本では、宗教の出発点は人間です。私たちが善行に励み、自分の欲望や煩悩と戦い、精進して何かを獲得し、或いは、一心不乱に願掛けをして神仏を動かし、救いや助けを得るというのが殆どです。
しかし、天と地を創られた真(まこと)の神は違います。何と神は、不信仰な罪人の私たちを尚も愛し、ご自分の掛け替えのない御子イエスを救い主としてお贈り下さったのです。しかも、イエス・キリストを通して与えられるものが素晴らしい。
贈り物をする時、私たちは相手に喜ばれる物や必要なものを選ぶと思います。実は父なる神も私たちに最も必要で大切なものを下さいます。何でしょう。永遠の命です。16節「神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」そうです、神は、御子を心から信じる者に、永遠の命を下さるのです!
しかし、永遠の命とは、それ程素晴らしいのでしょうか。無論、素晴らしいです!ではどう素晴らしいのか。そこで、その点を三つばかり、今日はお話したいと思います。
第一に、それは私たちに、特に死に対する平安や落ち着き、勇気、希望を与えます。
私たちは皆、順番の違いはあっても、時が来れば必ず死にます。『月と六ペンス』などを書いた小説家サマセット・モームは「この世で100%確かなこと、それは人が死ぬことだ」と言ったそうです。その通り、私たちは必ずいつか死ぬのです。
しかも死後、この世での自分の思いと言葉と行いが全てあらわにされ、裁きを受けます。Ⅱコリント 5:10は言います。「私たちは皆、善であれ悪であれ、夫々肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストの裁きの座の前に現れなければならない…。」
死ねば一切が終りで、どう生きようとも、人は皆同じように永遠に消滅するという考えもあります。が、もしそうであるなら、私たちがこの世で辛いことも我慢し、誠実に生き、人を愛し、人に仕え、人に役立ちたいなどと思って生きた所で、何の意味があるでしょう。
しかし、感謝なことに神は、御子イエスを私たちが救い主として心から信じ、寄り頼むなら、私たちのあらゆる罪を赦し、私たちを神の子供とし、永遠の命を下さいます。
死ねば、何もかも終りではなく、永遠の裁きでもありません。神は御子イエスを信じる者の魂を直ちに完全に清め、天国に迎え、この世でのあらゆる苦痛や悲しみから解放し、限りない愛をもって慰めて下さいます。その時のことを黙示録21:3、4はこう言います。「見よ、神の幕屋が人々と共にある。神は人々と共に住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、共におられる。神は彼らの目から涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」到底言葉では言い尽せない喜びと感謝と平安の中に、神は私たちを包んで下さるのです。
その上、この世で私たちが不十分ながらも神と人のためにさせて頂いた様々な奉仕や捧げ物、人知れず流した汗、涙、忍耐や祈りも決して無駄にならず、一切が報われます。そういう永遠の命を神は下さるのです。黙示録14:13は言います。「『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らと共について行くからである。」
先週の火曜日、一人のクリスチャンが天に召されました。晩年は癌による辛い日々が続き、「早く神の許(もと)に召されたい」ともおっしゃっていました。私は「ただ神の御心がなりますように」と祈っていました。父なる神は、遂に彼を召されました。今や彼は、一切の涙を拭われ、神の御顔を仰ぎ、どんなに豊かな平安と喜びと感謝の内に安らいでおられることでしょう。そして彼と同じようにイエス・キリストを信じるご家族も、いつか神の国で彼と再会し、もう一度抱き合って喜び、神を力一杯賛美することを許されます!私たちもお会いできます!
今年、私たちは新型コロナウィルスの脅威にさらされ、死を意識することもあったと思います。そうでなくとも、私たちは、事故や他の病気などで、いつ、どこで、どのように死ぬか分りません。しかし、私たちを愛する故に天の父なる神が下さった御子イエスを心から感謝して信じるなら、私たちが死ぬ時も、イエスは私たちの傍らにおられ、私たちの手を握りしめ、父なる神と一緒になって天の国へ私たちを必ず迎え入れて下さいます。これが神の愛の贈り物、死を超えた永遠の命です。これを知っていることは、私たちに、死に対してどんなに勇気と希望、深い平安と落ち着きを与えるでしょうか。これが第一点です。
しかし、これだけではありません。第二に神の下さる永遠の命は、私たちがこの世で生きている間にも、新たな喜びや感動、感激を味わわせる命です。永遠の命とは、ただ時間的に永遠というのではなく、質的に新しい神からの命と言えます。
命と言っても、草や木や花など植物の命もあれば、昆虫や鳥や魚など動物の命もあります。それらも命ですが、天の父が御子イエスを通して私たちに「受け取りなさい」と言われる永遠の命は、質が違います。それは私たちに新たな感性や気付き、また魂の自由や喜び、感動をも与えることのできる新しい命と言えます。
ですから、例えば、今まで何気なく食べていた食事でも、それにより神が私たちの体を養い、何か尊いことのためにこの体をも用いられることに気付きますと、食べ物が一層美味しくなり、食べられることに感謝を覚えるようになります。
紅葉していく山々、空、白い雲、川を見ても、この大自然を神が造られ、美しく彩り、見事に配置しておられることを思いますと、感動を覚えます。
親に手を握られながらも、幼い子供が、勝手に覚えたのでしょう、楽しそうにスキップしている姿!そこに神の愛と摂理を覚えますと、感動します。
無論、この世は、聖書が言う通り罪の世ですから、危険なこと、ひどいこと、イヤなこと、悲しいことも一杯あります。その現実だけを見るなら、この世に生きることは、苦痛でしかないかも知れません。
しかし、天の神と御子イエスを信じ仰ぐ時、私たちは永遠の新しい清い命を頂くお蔭で、新たな感性を身に着け、魂の新しい五感を与えられ、本当に多くのことに神が生きて働いておられることや、神の愛、知恵、力、聖さ、正しさ、真実などを発見することができます。ですから、イエスは言われました。マタイ5:8「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」詩篇148は、神に感動して自然界にこう呼びかけます。「日よ、月よ、主をほめたたえよ。主をほめたたえよ、全ての輝く星よ。…山々よ、全ての丘よ、実のなる木よ、全ての杉よ、獣よ、全ての家畜よ…主の御名をほめたたえよ。」こういう喜び、感動、発見、感謝を生み出す永遠の命を、天の父なる神は御子イエスにより、私たちにご用意下さっているのです。何と感謝なことでしょうか。
最後、第三に、最も素晴らしい一つの点に短く触れて終ります。それは、実は神の愛そのものが私たちにプレゼントされていることです。
よく分りもしないのに神を頑なに否定し、好き勝手に生き、真の神以外のものを神として頼る偶像礼拝に走る者も多い私たち人間を救う義務など、神にはありません。人間が互いに勝手に争い、苦しみ、そのあげくに死んで滅ぶのを、黙って放っておいても構いません。
ところが、神はそうはされませんでした。自分で自分を罪と永遠の死から救うことの出来ない無力で情けない私たちのために、神は、旧約聖書にありますように、何千年も前から救い主を送ると約束され、また時至って、何と神はご自分の御子を不信仰な人間世界の真只中に、それも、全く無防備で無力な「赤ちゃん」として送られました。何故でしょう。不信仰で頑なな私たち人間ですのに、それでも神は私たちを尚も愛し、ご自分を求める者を決して拒まず、受け入れ、永遠の救いに招いておられることを示すためです。
そして御子イエスは、やがて私たちの罪を全部背負って十字架に架かり、復活され、神と私たちの間の架け橋となり、永遠の救いの道を開いて下さいました。結局、全てが神の愛だったのです。ヨハネ3:16は言います。「神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」
犬や猫など動物でもそうですが、自分が愛されていること、それを知ること程、嬉しくて感謝なことはありません。人間の究極の幸せとは、結局、愛なのですよね。
クリスマスは、まさに神の愛そのものが私たち罪人にプレゼントされ、この神の愛に私たちが一切を委ねて歩んで良いことを教えています。ご一緒に、感謝し、何の気がねをすることもなく、神の愛の中に、夫々の人生を丁寧に刻んで行くことを励まされたいと思います。