2020年12月13日「神が私たちと共におられる」

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神が私たちと共におられる

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 1章18節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
1:19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは訳すと、「神が私たちとともにおられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いに命じられたとおりにし、その妻を迎え入れたが、
1:25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。
   (新改訳聖書 2017年度版)マタイによる福音書 1章18節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝もイエス・キリストの誕生に関わる神の恵みを学びたいと思います。

 約2千年前、自分の与り知らない間に婚約者マリアが身ごもり、悩んでいたヨセフに、天使が夢に現れて言いました。20、21節「ダビデの子ヨセフ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

 マタイは説明します。22、23節「この全ての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと、『神が私たちと共におられる』という意味である。」

 23節は、紀元前8世紀の預言者イザヤの預言の引用です(イザヤ書7:14)。つまり、マリアが聖霊によって身ごもって産むイエスは、全世界の救い主であられ、そのイエスを信じる者には「神、我らと共に在す」という大きな祝福が与えられることが確認されます。

 今朝、心に留めたいのは、私たちがイエスを神の御子また罪人の救い主として心から信じ、受け入れ、寄り頼む時、この約束が必ず私たちに実現することです。

 実は、信仰者へのこの素晴らしい約束は聖書全体に見られます。全く同じ言葉ではありませんが、神はアブラハムに「私は、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者を呪う」と言われ(創世記12:3)、神が彼と共におられることが分かります。

 また古代イスラエル民族をエジプトから救う務めを命じられたモーセに、神は「私があなたと共にいる」と言われ(出エジプト3:12)、彼の生涯は正にその通りでした。

 さらに、後継者ヨシュアにも神は、「私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる。私はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われました(ヨシュア1:5)。

 もっと後に、神はイスラエルの信仰者に言われました。「恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。」(イザヤ41:10)。

 これは新約時代も同じです。復活のイエスはパウロに言われました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。私があなたと共にいる。」(使徒18:9、10)。

 何よりマタイ福音書はイエスの次の言葉で終ります。28:20「私は世の終りまで、いつもあなた方と共にいます。」

 以上のことを最も鮮やかに示す徴が、神の御子が人となって世に来られたクリスマスの出来事です。クリスチャンに与えられる救いの恵みは実に豊かですが、その最高の恵みの一つが「神、我らと共に在す」なのです。

 では、神は具体的にはどのように私たち信仰者と共におられるのでしょうか。

 第一に、神は私たちが苦しんでいる時にも共におられます。実は、イザヤもそういう背景の中で「神、我らと共にいます」ということをイスラエルの民に伝えました。神は言われました。イザヤ43:1、2「恐れるな。私があなたを贖ったからだ。私はあなたの名を呼んだ。あなたは、私のもの。あなたが水の中を過ぎる時も、私は、あなたと共にいる。川を渡る時も、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」

 イザヤ46:3、4でも、神は慰めに満ちた言葉で信仰者たちにこう言われました。「胎内にいた時から担がれ、生れる前から運ばれた者よ。あなたたちが年を取っても、私は同じようにする。あなたが白髪になっても、私は背負う。私はそうしてきたのだ。私は運ぶ。背負って救い出す。」

 逆境の続く時、私たちを苦しめるのは、問題そのものは当然ですが、それ以上に、「一体神は私のことを分っておられるのか。神はどこにおられるのか」という不安や疑いだと思います。順調な時には神を身近に感じることもある。しかし、逆境の時は神が遠く感じられる。これは決して小さな試みではありません。私たちは焦り、苛立ち、落ち込む。そんな時、私たちの心は混乱し、祈ることすら難しくなります。

 しかし、忘れてはなりません。間違いなく神は共におられ、それどころか、私たちの内におられ、祈ることすら困難になっている弱い私たちのために、御霊は執り成して下さっています。言い換えますと、私たちと一緒になって御霊は祈っていて下さるのです。ローマ8:26、27は言います。「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分らないのですが、御霊ご自身が、言葉にならない呻きをもって、執り成して下さるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。何故なら、御霊は神の御心に従って、聖徒たちのために執り成して下さるからです。」

 順境の時も逆境の時も、御霊は私たち信仰者の内におられ、私たちは絶対に忘れられることはありません。神は言われます。イザヤ49:15、16「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎に子を憐れまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、この私は、あなたを忘れない。見よ、私は手のひらにあなたを刻んだ。」イザヤ63:9は、私たちが「苦しむ時には、いつも主も苦し」まれることをも伝えます。

 神は、私たちから苦しみを去らせる時と方法をわきまえておられます。神は信仰者を、「永遠の腕」(申命記33:27)で下から支えておられます。神は私たちが苦しんでいる時にも、本当に共におられる!何という恵みでしょうか!

 第二に、思い切って言いますが、神は信仰者が罪を犯す時でさえ共におられます!

 無論、「それなら、我々は罪を犯しても良いのだ」ということではありません。けれども、確かに弱さのために信仰者が罪を犯す時にも、神は共におられ、そこから救って下さいます。

 例えば、ダビデは勇敢で優れた信仰者でしたが、生涯に何度も罪を犯しました。自分の部下の妻バテシバと姦通し、それを隠すために、卑劣にも彼女の夫を敵の手で殺させました。

 では、その途端に神は彼を見捨てられたでしょうか。恐ろしい罪を犯している時でさえ、神は彼を離れず、神は彼に自分の罪に気付かせ、彼は良心の呵責にひどく苦しみました。それは神の愛の鞭でした。

 マタイの引用したインマヌエル預言はイザヤ7:14にありますが、イザヤ書には神がイスラエルと共におられることが何度も言われています。しかし、その当時のイスラエルは大変不信仰で、主に頼るより、他国の軍事力や偶像に頼り、罪を重ねていました。そのため、神は苦しみを与えられました。同時に、神は何度も悔改めを呼び掛け、彼らが悔改める時には、神からの救いを約束しておられました。神は言われました。イザヤ44:22「私はあなたの背きを雲のように、あなたの罪を霞のように消し去った。私に帰れ、私があなたを贖ったからだ。」そういう文脈で、「私はあなたと共にいる」と神は言われたのです。

 新約時代も同じです。イエスが捕えられ十字架で殺されるという大事な時、ペテロは怖くてイエスを人々の前で否定しました。しかし、そんな時にも神は共におられました。ですから、ペテロは立ち直ることが出来ました。

 誤解されてはなりませんが、これを自分に罪と不信仰を許す口実としてはなりません。そんなことをすれば、赦されない罪を犯すことになりかねません。罪を犯している最中に命を取られたら、一体どうなるでしょう。

 しかし、これは罪を犯しては悔い、悔いてはまた犯す弱い私たちにとって、何と大きな慰めでしょう。今までの私たちの人生を振り返っても、これはよく分ると思います。やがて十字架につかれ、私たちのあらゆる罪を償って下さる御子を神が私たちに与えられたとは、これ程のことなのです。ですから、私たちも一層神に近づき、神と共に歩ませて頂きたいと思います。

 第三に、神は永遠に信仰者と共におられます。人間にとって最後で最大の試練である死をも超えて、神はイエスを信じる者と永遠に共におられます。

 死は私たちをこの世から恐ろしい力でもぎ取ります。誰も逃れられません。では、私たちはどうなるのか。底知れない永遠の暗闇と絶望と滅びに飲み込まれて行くのでしょうか。

 いいえ、イエスを心から信じ、信仰を公に告白している者は、決してそうではありません。死も神の支配下にあり、イエスを信じる者は神の永遠の救いの契約に入れられているからです。イザヤ54:10で神は言われます。「たとえ山が移り、丘が動いても、私の真実の愛はあなたから移らず、私の平和の契約は動かない。-あなたを憐れむ方、主は言われる。」

 また神は言われます。イザ43:1「恐れるな。私があなたを贖ったからだ。私はあなたの名を呼んだ。あなたは、私のもの。」信仰者は、死ぬ時も神のものに他なりません。しかも43:4「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」、つまり、私たちを御自分の目には宝石のように尊いと言われます。何と、そこまで私たちは神に愛されているのです。そういう私たちの死ですので、その死はまるで貴金属が炉で精錬される最後の行程と同じで、神にとっても大切なのです。ですから、詩篇116:15は言います。「主の聖徒たちの死は、主の目に尊い!」

 そうであるなら、最期の時、神はどうして私たち信仰者を見捨てられるでしょうか。目には見えなくても、神は病室でも私たちと共におられ、私たちのベッドサイドにおられ、また私たちを抱きしめ、ハグしておられます。ですから、ローマ8:38、39は言います。「死も、命も、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にあるものも、深い所にあるものも、その外のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 そして天の御国で、神は御自分の宝として私たちを永遠に喜ばれ、私たちも神を永遠に喜ぶのです。

 クリスマスは、神が私たちに御子をプレゼントされたことを覚える時であり、「神が私たちと共におられる」という最高の祝福が、クリスチャンに既に始っていることを改めて覚える時です。この事実を改めて心に刻み、今年の残る日々、神をますますしっかり仰ぎ、賛美しつつ、ご一緒に歩みたいと思います。

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