聖書の言葉 私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は何もすることが出来ないのです。 (2017年度版 新改訳聖書)ヨハネによる福音書 15章5節 メッセージ 9月3日の祈祷会から、葡萄の木と枝の喩を通して、私たちがイエス・キリストに留まっているならば、必ず結ばせられる大切な人格的実について見てきました。今日で、一応終りたいと思います。 私たちの内に結ぶ実として、まず永遠の命について、次にガラテヤ5:22、23「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」から8つ見てきました。今日は最後の9番目「自制」を学びます。 「自制」の元のギリシア語は、<堅く保つ、堅く守る、よく支配する>というギリシア語に接頭語が付いたもので、英語聖書はほぼ、セルフ・コントロールself-controlと訳しています。新共同訳はこのギリシア語をここでは「節制」と訳していますが、他の箇所では「自制」と訳しています。口語訳、新改訳では「自制」です。 私たちが信仰と生活においてイエスに留まっているなら結んで頂ける御霊の実の最後に、使徒パウロは主に導かれて何を教えるでしょうか。自制です。クリスチャンとしての自分を、神との、また人との関係においても固く守り、自分を制御し、自分をよく支配できる力です。 私たちの主イエスは、人としても、この点でどんなに見事であられたでしょう。主は救い主としての公生涯を始められた時、何と40日も断食され、ご自分の肉体と精神的苦痛、また悪魔と戦い、悪魔を退け、自分を支配するという資質を見事に示されました。 またルカ福音書がよく伝えていますが、主はしばしば朝早くから起き、天の父に祈り、御父との交わりを欠かされませんでした。 人々から嘲られ、鞭打たれ、唾をかけられても、ただ私たちの救いのためにご自分を制御され、神としての力は使われませんでした。十字架に釘づけされた時、本当は簡単に十字架から降りることが出来ましたが、そうされませんでした。麻酔薬入りの酸い葡萄酒も、一番辛い時、お飲みになりませんでした。私たちの身代りとしての苦痛を最後まで引き受けるためでした。そうして父なる神から託されたご自分の使命を100%果されました。ですから、父なる神も、三日後にイエスを復活させ、栄光の天に引き上げ、全ての権能を授け、ご自分の右に座らせられました。 新約聖書におけるこのギリシア語の使われ方も少し見ておきます。 Ⅰコリント9:25には「競技をする人は、あらゆることについて節制します」とあり、競技者が自分を訓練する場合に使われています。 Ⅰコリント7:9では「自制することが出来ないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚した方が良いから」とあり、クリスチャンが欲情をコントロールする場合にも使われます。 テトス1:8は「人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり」と述べ、長老などの教会役員の重要な資質についての教えでも使われています。 Ⅱペテロ1:6では「知識には自制を、自制には忍耐を」と語り、特に知識と忍耐の間に挟まれて「自制」が言われています。興味深いと思います。 私たちは、人生で様々な困難に遭います。この世は罪の世ですから、これは避けられません。周りの人や社会に問題のある時もあれば、私たち自身の欠けや弱さが原因の時もあります。しかし何であれ、結局、最も必要なものの一つは、自分自身を、ある時は抑制し、ある時は前に向って促す、つまり、自分を制御し、自分を支配する力と言えます。 知的能力や芸術性、また身体能力、運動能力などの点で大変恵まれた人が、ただセルフ・コントロール力の欠如から、暴力を働き、不適切な言葉や態度で他人を傷つけ、大失敗をし、人を自分から遠ざけ、恵みの機会を棒に振り、人生の破綻者になることがあります。 一方、元々はさほど優れていないのですが、自分を律し、辛い時にもヤケを起さず、人に向って爆発もしない。また自分の体と心をより冷静に観察して自己をコントロールし、段々尊い力を身に着け、困難を克服し、人からも信頼され愛され慕われ、神の恵みを豊かに味わうクリスチャンもいます。主イエスに信仰によって結びつきつつ歩むことで形作られるこの節制、自制という人格的な実が、どんなに尊く感謝なものであるかを、改めて思います。 生活習慣病は急になるわけではなく、自分をコントロールせず、良くない生活習慣を続ける内に積もり積もって限界を越え、ついに症状となって、また数値となって表れます。精神的病や性格的ゆがみの中にもそういうものがあります。 逆に言いますと、いつも主イエスを仰ぎ、主と語り、主と交わり、主を思って、自分を抑えたり積極的に押し出す、そういう小さな努力の積み重ねが、徐々に私たちの内に主イエスに似た人格の形成という素晴らしい実を結ぶことを許されるのです。 神の栄光を顕し、神を永遠に喜ぶのみならず、この世にあっても私たちを、人との関係においても自分との関係にいても必ず祝福するこのセルフ・コントロールという御霊の実を、是非、結ぶことを許されたいと思います。 関連する説教を探す 2020年の祈祷会 『ヨハネによる福音書』
9月3日の祈祷会から、葡萄の木と枝の喩を通して、私たちがイエス・キリストに留まっているならば、必ず結ばせられる大切な人格的実について見てきました。今日で、一応終りたいと思います。
私たちの内に結ぶ実として、まず永遠の命について、次にガラテヤ5:22、23「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」から8つ見てきました。今日は最後の9番目「自制」を学びます。
「自制」の元のギリシア語は、<堅く保つ、堅く守る、よく支配する>というギリシア語に接頭語が付いたもので、英語聖書はほぼ、セルフ・コントロールself-controlと訳しています。新共同訳はこのギリシア語をここでは「節制」と訳していますが、他の箇所では「自制」と訳しています。口語訳、新改訳では「自制」です。
私たちが信仰と生活においてイエスに留まっているなら結んで頂ける御霊の実の最後に、使徒パウロは主に導かれて何を教えるでしょうか。自制です。クリスチャンとしての自分を、神との、また人との関係においても固く守り、自分を制御し、自分をよく支配できる力です。
私たちの主イエスは、人としても、この点でどんなに見事であられたでしょう。主は救い主としての公生涯を始められた時、何と40日も断食され、ご自分の肉体と精神的苦痛、また悪魔と戦い、悪魔を退け、自分を支配するという資質を見事に示されました。
またルカ福音書がよく伝えていますが、主はしばしば朝早くから起き、天の父に祈り、御父との交わりを欠かされませんでした。
人々から嘲られ、鞭打たれ、唾をかけられても、ただ私たちの救いのためにご自分を制御され、神としての力は使われませんでした。十字架に釘づけされた時、本当は簡単に十字架から降りることが出来ましたが、そうされませんでした。麻酔薬入りの酸い葡萄酒も、一番辛い時、お飲みになりませんでした。私たちの身代りとしての苦痛を最後まで引き受けるためでした。そうして父なる神から託されたご自分の使命を100%果されました。ですから、父なる神も、三日後にイエスを復活させ、栄光の天に引き上げ、全ての権能を授け、ご自分の右に座らせられました。
新約聖書におけるこのギリシア語の使われ方も少し見ておきます。
Ⅰコリント9:25には「競技をする人は、あらゆることについて節制します」とあり、競技者が自分を訓練する場合に使われています。
Ⅰコリント7:9では「自制することが出来ないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚した方が良いから」とあり、クリスチャンが欲情をコントロールする場合にも使われます。
テトス1:8は「人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり」と述べ、長老などの教会役員の重要な資質についての教えでも使われています。
Ⅱペテロ1:6では「知識には自制を、自制には忍耐を」と語り、特に知識と忍耐の間に挟まれて「自制」が言われています。興味深いと思います。
私たちは、人生で様々な困難に遭います。この世は罪の世ですから、これは避けられません。周りの人や社会に問題のある時もあれば、私たち自身の欠けや弱さが原因の時もあります。しかし何であれ、結局、最も必要なものの一つは、自分自身を、ある時は抑制し、ある時は前に向って促す、つまり、自分を制御し、自分を支配する力と言えます。
知的能力や芸術性、また身体能力、運動能力などの点で大変恵まれた人が、ただセルフ・コントロール力の欠如から、暴力を働き、不適切な言葉や態度で他人を傷つけ、大失敗をし、人を自分から遠ざけ、恵みの機会を棒に振り、人生の破綻者になることがあります。
一方、元々はさほど優れていないのですが、自分を律し、辛い時にもヤケを起さず、人に向って爆発もしない。また自分の体と心をより冷静に観察して自己をコントロールし、段々尊い力を身に着け、困難を克服し、人からも信頼され愛され慕われ、神の恵みを豊かに味わうクリスチャンもいます。主イエスに信仰によって結びつきつつ歩むことで形作られるこの節制、自制という人格的な実が、どんなに尊く感謝なものであるかを、改めて思います。
生活習慣病は急になるわけではなく、自分をコントロールせず、良くない生活習慣を続ける内に積もり積もって限界を越え、ついに症状となって、また数値となって表れます。精神的病や性格的ゆがみの中にもそういうものがあります。
逆に言いますと、いつも主イエスを仰ぎ、主と語り、主と交わり、主を思って、自分を抑えたり積極的に押し出す、そういう小さな努力の積み重ねが、徐々に私たちの内に主イエスに似た人格の形成という素晴らしい実を結ぶことを許されるのです。
神の栄光を顕し、神を永遠に喜ぶのみならず、この世にあっても私たちを、人との関係においても自分との関係にいても必ず祝福するこのセルフ・コントロールという御霊の実を、是非、結ぶことを許されたいと思います。