聖書の言葉 私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は何もすることが出来ないのです。 (2017年度版 新改訳聖書)ヨハネによる福音書 15章5節 メッセージ イエスの語られた葡萄の木と枝の喩から、私たちがイエスに留まっているなら、大切な実を結ぶことが出来ることを学んでいます。 その実として、ガラテヤ5:22、23が記す御霊の九つの実を学んできましたが、今日は8番目の「柔和」に進みます。 主イエスはマタイ福音書5:5で「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」と述べ、「柔和」を聖霊により新しい誕生を許された真(まこと)のクリスチャンの顕著な特徴の一つとしてお教えになりました。 実は、紀元1世紀のユダヤでは、柔和という性質は高く評価されなかったといいます。ローマ帝国がユダヤを支配し、力が何より重んじられた時代だからです。「柔(やわ)なことでは駄目だ。世の中、力だ。」これは大なり小なりどの時代のどの国でも言われることだと思います。 しかし、人間とその真の幸せ、また永遠の行先をも全てご存じの神の御子イエスは「柔和な者は幸いです」と述べ、真のクリスチャンの最も幸いな特徴の一つは柔和だ、とお教えになります。 では、どういう意味で幸いでしょうか。柔和な人は「地を受け継ぐ」とイエスは言われます。この表現は旧約聖書の詩篇37から来ています。「地」とは大切な土地のことですが、そのようにとても大切なものを意味します。 柔和でない人は、自我が強いため、人を撥ね退け(はねのけ)やすく、折角、人の中に学ぶべき良い点があっても気付かず、様々な良いものを人から吸収出来ません。また、どうしても不満が多く、折角良い物を神から与えられていても気付かず、感謝が少なく、持っていないのと変りません。何と不幸でしょう。 一方、柔和な人は温和ですから、イヤなことがあっても、より穏やかでいることが出来、人の良い点に気付き、吸収し、獲得出来ます。正に(まさに)「地を受け継」ぎます。また柔和な人は僅かな物にもささやかなことにも感謝でき、楽しめます。ですから、本当の意味でそれらを「受け継ぐ」ことになります。 しかも地上の生涯を終える時は、天の御国とその最高の祝福、喜びを、嗣業として神から受けることになります。ですから、「柔和な人は幸いです」とイエスは言われるのです。 こうして見ますと、柔和という御霊の実が如何に尊いものかが、よく分ります。そしてそれは私たちが、いつ如何なる時も主イエスの御姿と御言葉を心に留め、信仰によりイエスに繋がり留まっている時、御霊が私たちの内面に必ず形作り、結んで下さる麗しい人格的な実です。 そう言えば、イエスご自身、どんなに柔和だったでしょうか。確かに、余りにも頑なな当時のユダヤ教指導者たちには、怖いぐらいの権威をもって厳しく臨まれ、神殿で商売する者たちの屋台をひっくり返し、卑しい思いをもっては近づけない凛とした清さと威厳がありました。しかし、自分の罪におののき、悔い砕けた魂に、主はどこまで柔和で憐れみ深かったでしょう。 主は、人々が寝静まり、誰も知らない夜中に、それも飼い葉桶にスヤスヤ眠る柔和な乳飲み子として誕生されました。柔和なイエスは天の父の御心に従い、私たちの贖いを完成するため、鞭打たれ、棒で頭を叩かれ、唾を吐きかけられ、嘲られ、十字架に釘付けされても忍耐され、一切を天の父に任せられました。こうして天の父と私たち罪ある人間にとことん仕えて下さいました。 この柔和な主イエスをペテロは後にこう伝え、柔和の大切さを私たちに教えます。Ⅰペテロ2:20~25「罪を犯して打ち叩かれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。このためにこそ、あなた方は召されました。キリストもあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、あなた方に模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しく裁かれる方にお任せになった。キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷の故に、あなた方は癒された。あなた方は羊のようにさ迷っていた。しかし今や、自分の魂の牧者であり、監督者である方の許に帰った。」 イエスの語られたマタイ福音書5章の幸福の教えによれば、対人関係で最も尊い性質は柔和です。これがあってこそ、福音を隣人に証しでき、ローマ12:15が言うように「喜んでいる者たちと共に喜び、泣いている者たちと共に泣」いて人を慰め、教会をキリストの体として皆と一緒に建て上げることが出来ます。 主イエスを見上げ、主の愛と御言葉に留まり、主と絶えず交わり、そうして柔和という実を、是非、共に結ばせられたいと思います。 関連する説教を探す 2020年の祈祷会 『ヨハネによる福音書』
イエスの語られた葡萄の木と枝の喩から、私たちがイエスに留まっているなら、大切な実を結ぶことが出来ることを学んでいます。
その実として、ガラテヤ5:22、23が記す御霊の九つの実を学んできましたが、今日は8番目の「柔和」に進みます。
主イエスはマタイ福音書5:5で「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」と述べ、「柔和」を聖霊により新しい誕生を許された真(まこと)のクリスチャンの顕著な特徴の一つとしてお教えになりました。
実は、紀元1世紀のユダヤでは、柔和という性質は高く評価されなかったといいます。ローマ帝国がユダヤを支配し、力が何より重んじられた時代だからです。「柔(やわ)なことでは駄目だ。世の中、力だ。」これは大なり小なりどの時代のどの国でも言われることだと思います。
しかし、人間とその真の幸せ、また永遠の行先をも全てご存じの神の御子イエスは「柔和な者は幸いです」と述べ、真のクリスチャンの最も幸いな特徴の一つは柔和だ、とお教えになります。
では、どういう意味で幸いでしょうか。柔和な人は「地を受け継ぐ」とイエスは言われます。この表現は旧約聖書の詩篇37から来ています。「地」とは大切な土地のことですが、そのようにとても大切なものを意味します。
柔和でない人は、自我が強いため、人を撥ね退け(はねのけ)やすく、折角、人の中に学ぶべき良い点があっても気付かず、様々な良いものを人から吸収出来ません。また、どうしても不満が多く、折角良い物を神から与えられていても気付かず、感謝が少なく、持っていないのと変りません。何と不幸でしょう。
一方、柔和な人は温和ですから、イヤなことがあっても、より穏やかでいることが出来、人の良い点に気付き、吸収し、獲得出来ます。正に(まさに)「地を受け継」ぎます。また柔和な人は僅かな物にもささやかなことにも感謝でき、楽しめます。ですから、本当の意味でそれらを「受け継ぐ」ことになります。
しかも地上の生涯を終える時は、天の御国とその最高の祝福、喜びを、嗣業として神から受けることになります。ですから、「柔和な人は幸いです」とイエスは言われるのです。
こうして見ますと、柔和という御霊の実が如何に尊いものかが、よく分ります。そしてそれは私たちが、いつ如何なる時も主イエスの御姿と御言葉を心に留め、信仰によりイエスに繋がり留まっている時、御霊が私たちの内面に必ず形作り、結んで下さる麗しい人格的な実です。
そう言えば、イエスご自身、どんなに柔和だったでしょうか。確かに、余りにも頑なな当時のユダヤ教指導者たちには、怖いぐらいの権威をもって厳しく臨まれ、神殿で商売する者たちの屋台をひっくり返し、卑しい思いをもっては近づけない凛とした清さと威厳がありました。しかし、自分の罪におののき、悔い砕けた魂に、主はどこまで柔和で憐れみ深かったでしょう。
主は、人々が寝静まり、誰も知らない夜中に、それも飼い葉桶にスヤスヤ眠る柔和な乳飲み子として誕生されました。柔和なイエスは天の父の御心に従い、私たちの贖いを完成するため、鞭打たれ、棒で頭を叩かれ、唾を吐きかけられ、嘲られ、十字架に釘付けされても忍耐され、一切を天の父に任せられました。こうして天の父と私たち罪ある人間にとことん仕えて下さいました。
この柔和な主イエスをペテロは後にこう伝え、柔和の大切さを私たちに教えます。Ⅰペテロ2:20~25「罪を犯して打ち叩かれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。このためにこそ、あなた方は召されました。キリストもあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、あなた方に模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しく裁かれる方にお任せになった。キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷の故に、あなた方は癒された。あなた方は羊のようにさ迷っていた。しかし今や、自分の魂の牧者であり、監督者である方の許に帰った。」
イエスの語られたマタイ福音書5章の幸福の教えによれば、対人関係で最も尊い性質は柔和です。これがあってこそ、福音を隣人に証しでき、ローマ12:15が言うように「喜んでいる者たちと共に喜び、泣いている者たちと共に泣」いて人を慰め、教会をキリストの体として皆と一緒に建て上げることが出来ます。
主イエスを見上げ、主の愛と御言葉に留まり、主と絶えず交わり、そうして柔和という実を、是非、共に結ばせられたいと思います。