2020年11月12日「ぶどうの木と枝11 誠実」

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ぶどうの木と枝11 誠実

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 15章5節

聖句のアイコン聖書の言葉

 私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は何もすることが出来ないのです。
     (2017年度版 新改訳聖書)ヨハネによる福音書 15章5節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちがイエスに留まっているならば、必ず尊い御霊(みたま)の実を結ぶことが出来ることを、イエスの語られた葡萄の木と枝の喩から続けて学んでいます。その実として、ガラテヤ5:22、23の「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御言葉から、今日は7つ目の「誠実」に注目します。

 「誠実」と訳されている元のギリシア語(ピスティス)は、新約聖書では、信仰、確信、論証、約束などの意味でよく用いられます。ただ、ガラテヤ5:22では、これを殆どの英語聖書はフェイスフルネスfaithfulnessと訳しています。忠実、また誠実という意味です。口語訳聖書は「忠実」、新改訳、新共同訳、共同訳の各聖書は「誠実」と訳しています。

 では、主イエスに信仰と生活において留まっているクリスチャンの内に結ばせられる「誠実」とは、どういうものでしょうか。

 聖書で言われているものは全て神との関係がベースにあります。その点から言いますと、誠実は誠実でも、何より神への誠実を決して忘れてはならないでしょう。何故これを言うかといいますと、誠実という概念が、しばしば神との関係を離れて、人間中心に使われることがあるからです。例えば、「私は自分に対して誠実でありたい」と言われることがあります。「自分に誠実。」これだけを聞くなら、もっともなことであり、何が問題なのか分らないかも知れません。しかし、注意する必要があります。何故なら、「自分に誠実でありたい」というその<自分自身>が罪のために歪んでいるからです。自分に誠実であるが故に、言動が自己中心で、周囲の人を振り回し、不幸にする人も少なくありません。

 サタンは自分に対して誠実です。しかし、サタンの本性はとことん神に敵対することですから、サタンが自分に誠実であることは、恐ろしく罪深い影響を人に与えることになります。

 とにかく、イエスに留まっている者の内に結ぶ「誠実」という実は、第一にまず神に対し、また神との関係において、ということです。その意味では忠実と訳すのも良いでしょう。実際、イエスに堅く留まっている真(まこと)のクリスチャンの内に見られる顕著な特質の一つは、何といっても神への誠実さ、忠実さです。

 無論、この世で完全聖化はなく、如何に優れたクリスチャンにも罪の残り滓があり、罪との格闘は生涯続きます。それでも、その人に見られる顕著な特徴の一つは、やはり神への誠実さであり、忠実さです。主イエスに堅く留まっている人とそうでない人との差は、神への、或いは、主イエスへの誠実さ、忠実さというものに、言い換えますと、神の御言葉への誠実さ、忠実さにどうしても表れて来ざるを得ません。

 ルカ福音書12:41以降で、イエスは、いつ帰って来るかも知れない主人に対する「忠実で賢い管理人」の喩話をしておられます。そのように、イエスに堅く留まっている人は、いつイエス・キリストの再臨があっても、そしていつ自分の命を取られても大丈夫なように、神に対し忠実に誠実に真剣に生きる人です。何と尊いことでしょう。

 そしてこのことは第二に、必然的に周囲の人や社会への誠実さとしても表れてきます。絶対者なる神に対して誠実な人は、人や社会に対しても自ずと誠実であるはずです。隣近所や職場、特にキリストの霊的な体である教会に対して誠実で責任感の強いことです。何と大切なことでしょうか。神に対して誠実ではあるが、人や社会や教会には不誠実というクリスチャンがもしいるとしたら、その信仰は一体何なのでしょう?

 Ⅰコリント4:2にパウロの有名な言葉、「管理者に要求されることは、忠実だと認められること」というのがあります。ここの「管理者」とは、神の真理の管理者の意味ですが、平たく言えば、教会役員として立てられた人のことです。牧師は勿論、長老や執事、或いは伝道所委員に求められる相応しい資質は、忠実さ、誠実さです。ということは、実は全てのクリスチャンに期待される資質の一つは、何といっても御霊の実である、教会と人と社会への誠実さです。これを主は期待しておられます。

 そしてこれらを踏まえて、最後ですが、第三に、私たちは自分に対する誠実さという御霊の実も結ばせられたいと思います。

 今言う自分に対する誠実さとは、特に自分の弱さや罪と真剣に向き合い、それらから逃げず、また自分の問題を人や周囲に責任転嫁せず、御言葉と御霊により自分の自我と戦うことです。また、自分の中で主が始めて下さった救いの恵みの業(わざ。ピリピ1:6)をしっかり覚え、主に感謝と信頼を献げ、主にのみ栄光を帰するという、自分の生かされている存在目的を常に覚える誠実さです。

 罪を犯さず、父なる神にとことん忠実!また私たち罪人の救い主としての使命に、まさしく「十字架の死にまで従われ」(ピリピ2:8)、誠実であられた私たちの主イエス・キリスト!その清いご性質に、御霊によりますます与らせて頂きたいと思います。

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