2019年04月28日「召天者を覚えて」
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召天者を覚えて
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- 田村英典 牧師
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使徒言行録 9章36節~43節
聖書の言葉
新改訳聖書 2017年度版
9:36 またヤッファに、その名をタビタ、ギリシア語に訳せばドルカスという女の弟子がいた。彼女は、多くの良いわざと施しをしていた。
9:37 ところが、そのころ彼女は病気になって死んだ。人々は遺体を洗って、屋上の部屋に安置した。
9:38 リダはヤッファに近かったので、ペテロがそこにいると聞いた弟子たちは、人を二人、彼のところへ遣わして、「私たちのところまで、すぐ来てください」と頼んだ。
9:39 そこで、ペテロは立って二人と一緒に出かけた。ペテロが到着すると、彼らはペテロを屋上の部屋に案内した。やもめたちはみな彼のところに来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。
9:40 ペテロは皆を外に出し、ひざまずいて祈った。そして、遺体の方を向いて、「タビタ、起きなさい」と言った。すると彼女は目を開け、ペテロを見て起き上がった。
9:41 そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。
9:42 このことがヤッファ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。
9:43 ペテロはかなりの期間、ヤッファで、シモンという皮なめし職人のところに滞在した。
使徒言行録 9章36節~43節
メッセージ
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桜や桃の花の美しい4月から若葉の眩しい5月に移ろうとするこの時期、今年も召天者記念礼拝を持つことができ、感謝でございます。ひと時、召天者を覚えることの意義を心に留め、今後の私たち自身に少しでも生かせればと思います。
最初に「召天者」という言葉の意味を、念のために確認しておきます。これは、神の御子イエス・キリストを自らの永遠の救い主として、心から信じ、受け入れ、依り頼み、それ故、人生の最後に天の父なる神の御許(みもと)に召された人を指します。
聖書が言うように、私たちは皆、万物の創り主なる真の神から見れば、自己中心な罪人です。私たちが自己中心であることは、すぐ分ります。例えば、親しい者で集合写真を撮ります。「目に入れても痛くない程可愛い!」と普段から言っている孫もそこにいたとします。では、仕上がった写真を手にして真先に見るのは誰の顔でしょうか。孫でしょうか。自分ですよね!そして孫の写りは少々悪くても、自分が良く写っていれば、「この写真、いいね!」となります。
これなどは笑い話で済みますが、こんなことにも現れる私たちの生れながらの自己中心性から、実は世の中のあらゆる醜い罪が生じています。そして自己中心の罪は、必ず人をも自分をも傷つけ、ひずませ、創り主なる清い真の神から私たちを一層引き離し、最後には永遠の死に至らせます。ローマ6:23が「罪の報酬は死」だと言う通りです。何という不幸でしょうか。
ところが、天の父なる神はこんな私たちを深く憐れまれ、ご自分の最愛の独り子をこの世に送られました。誰でしょうか。イエス・キリストです。イエスは、このままなら永遠の死に至る私たちのあらゆる罪を十字架で背負い、ご自分の死をもって全部償って下さいました。それだけではありません。三日後に復活され、天にあって今も永遠に救い主として生きておられます。このイエスは、私たちのどうしようもない弱さをも全てお分り下さいます。ですから、どんなに罪深く、欠けだらけで、弱い者であっても、ご自分を心から信じ依り頼む者の魂を、必ず守り、導き、共にいて下さり、最後には永遠の天の国へ入れて下さるのです。
召天者とは、神のこういう計り知れない愛と永遠の救いに与(あずか)り、今、天で父なる神また御子イエスと共にあり、言い知れない感謝と喜びと安らぎの中におられる方々を指します。召天者への神の慈しみを、今朝、まず確認しました。
次に、召天者を覚える意義をもう少し具体的に見たいと思います。
その一つは、天に召された方々を丁寧に思い返し、感謝し、彼らを私たちがいわば<もう一度愛し直す>ことにあると言えます。
先程、使徒9:36以降を読みました。ここは、紀元1世紀の初代教会時代の出来事の一つを伝えています。36節が伝えますが、エルサレムから北西へ約60km離れた地中海沿いの町ヤッファにタビタというクリスチャンの女性がいました。ヤッファは現在、テルアビブの一部になっています。ヘブル語の名前タビタをギリシア語に訳すと、「ドルカス」、つまり「かもしか」となります。当時の女性に好まれた名前の一つだそうです。
彼女は36節「多くの良いわざと施しをして」いました。ところが、37節「彼女は病気になって死んだ。」教会員たちは当時の習慣に従って遺体を洗い、屋上の部屋に安置しました。
丁度その頃、ヤッファから南東へ約16km内陸部へ入った38節「リダ」という町に、使徒ペテロが来ていました。そこで皆は人を遣わし、ペテロを呼んできました。この後、40節以降が伝えますように、神はペテロを通してタビタを生き返らせ、42節「このことがヤッファ中に知れ渡り、多くの人々が主を」、つまり、イエス・キリストを「信じた」のでした。驚くべき奇蹟が起ったのです。無論、彼女は永遠の命に甦ったのではありません。歳を取って、最後は天に召されたでしょう。
それで、今朝注目したいのは、タビタが生き返ったことではなく、彼女の死を教会の皆がどう受け止めたか、です。ヤッファに到着し、屋上の部屋に案内されたペテロの所にやもめたちが来て、39節「泣きながら、ドルカスが一緒にいた頃作ってくれた下着や上着の数々を見せ」るのでした。皆は彼女が天の神の許に召されたことは、よく分っていました。しかし、どんなに声をかけ、手を握っても全く反応がなく、体は冷たく、声も聞けず、笑顔も見せてくれない彼女をそばにして、あまりにも悲しく、泣かないではおれませんでした。そして彼女が作ってくれた下着や上着の数々をペテロに見せました。
ここにあるのは何でしょうか。クリスチャンとしての彼女の人となりをペテロに伝えたかったのですが、こうすることで、彼らは無意識にも、亡くなった彼女をいわば<愛し直した>のではないかと思うのです。
生前のタビタは、36節「多くの良い業と施しをしていた」とありますように、人柄の優しい、その上、自分をしっかり持った女性だったようです。皆のために下着や上着も数多く作った彼女は、手先も器用な働き者で、何でもテキパキとこなす素敵な女性だったように思われます。こんな彼女ですから、元気だった頃も多くの人から愛されたでしょう。それだけに、病気で彼女が思いがけず早く天に召されたのですから、悲しみと淋しさは、ひときわ大きかったと思われます。
しかし、ただ単に生前の彼女を懐かしむだけでなく、彼女の姿、笑顔、眼差し、声、その抑揚、話、彼女のしたことを思い出すことで、悲しいですが、皆は改めて彼女に感謝し、神の前でいわば愛し直していたのだと思います。ですから、召天者を覚え、記念することは、私たち人間にとって大変尊いことなのだと思います。
私自身のことを少しお話させて頂きます。私は51歳~65歳まで、大阪の淀川キリスト教病院の牧師・チャプレンとして働きました。その中で、毎日午後1時からの30分間、「お昼の放送」という時間も担当しました。讃美歌のCDを2曲かけ、15分少々聖書の話をし、患者さんのためにお祈りもしました。最初の導入の音楽の後、5、6分、ディスクジョッキー風に季節の話など色々なことを話しました。その中で、特に考えもなく私は始めたのですが、自分の幼少期から小学生時代のことをしばしば話しました。今から19年前の4月と5月に続けて亡くなった父や母のことにも、時々触れました。すると、若い頃は余り思わなかったのですが、父や母のことを思い返すことで、彼らに私がどんなに愛されていたかが分り、放送室のマイクを前にしながら、よく泣きそうになりました。そして改めて彼らに感謝し、今更遅いのですが、彼らを愛し直すという体験をしました。彼らに私はもう何もして上げられません。父や母には欠点も弱さも沢山ありました。クリスチャンでもありませんでした。しかし、彼らから教えられた、人としての真面目さ、優しさ、誠実さなどを、改めて大切にしたいと思ったものです。
今朝ご出席のNWさんのご家族、また教会員には、彼女の様々な想い出があると思います。彼女は3年前の丁度今日4月28日、天に召されましたが、その少し前に書かれた文を私は読み、お写真も拝見し、彼女についての想い出も少し教会員から伺いました。お若い頃にはミャンマーで日本の医療ボランティア・ティームの栄養士として働かれた位しっかりした熱い方で、同時に、幼子のように素直で、謙虚で、感謝を忘れず、温かい方であることが分かりました。讃美歌85番がお好きだったことも、私にはよく理解できました。
彼女には、私たち同様、欠点や短所も当然あったでしょう。完全な人など、この世に一人もいません。しかし、この世にもう少し生きることを許された私たちは、今からでも遅くはありません。神のご計画の中で、彼女の親族とされ、また彼女を知り、交わりを許された者として、厳しいお病気の中でも最後まで誠実に歩まれた愛すべき、また尊敬すべき彼女に再度感謝したいと思います。そうして、彼女が私たちの記憶の中に刻んで下さった、人としての大切なものを私たちも尊ぶという形で、彼女への愛を改めてしっかり表わしたいと思います。これは他の召天者の皆様についても同じです。
以上、亡くなった方を思い出し、感謝し、彼らを愛し直すことの尊さを学びました。
さて、もう一点はもうお分りと思いますが、私たち罪人を尚愛し、御子イエスによる罪の赦しと永遠の命に、ただ信仰によって与(あずか)らせて下さる真(まこと)の神を仰ぎ、神の御心に従って生きることです。
先程、召天者を愛し直す、大切にし直すという点を見ました。と同時に、彼らもそうでありましたように、私たちもまたいつか死ぬ身だ、ということを思わないではおられません。
で、もし私たちの大切な人が、神に愛されて天の国で永遠に生きているのであるならば、私たちもまたいつか天の国へ行き、彼らとずっと一緒にいたいと思わないでしょうか。
昔、ある教会に、難病を患う年配の女性がいました。夫は彼女に優しかったのですが、「妻は妻。私は無宗教です!」とキッパリおっしゃっていました。ところが、彼女が亡くなると、何と彼は彼女のお骨を納めた教会墓地へよく出かけ、しばしばお墓の傍で泣いて夜を明かすこともあると、とご親族から聞きました。やがて女性執事たちの献身的支えもあり、ついに彼は洗礼を受け、穏やかな老人になられ、神の許へ召されました。今、天国で彼女と共におられ、どんなに大きな平安の中で神に感謝しておられることでしょう。大切な人を本当に愛し、愛し直す時、人は神と永遠の世界に心が開かれるように、神はなさっているのだと思います。
私たちも、愛と赦しに満ちた御子イエス・キリストに全てを委ね、天地の創り主なる真の神を、私たちの永遠の父とされたいと思います。そして、幼子のように素直な信仰者とされ、やがて必ず迎える死をも穏やかに受け入れ、天の国で召天者との再会を許され、何より慈しみ深いイエス・キリストの御顔を仰ぐことのできる幸いに、是非、与りたいと思います。
今朝は、召天者を覚えることの意義の一端を、改めて心に留めることができました。弱くて、すぐうな垂れやすい私たちですが、憐み深い神が、どうか私たちを慰め、愛する召天者の皆様と共に、やがて永遠の復活の祝福に与らせて下さいますように!