2020年11月01日「聖なる祭司として(宗教改革記念日を覚えて)」

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聖なる祭司として(宗教改革記念日を覚えて)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ペトロの手紙一 2章9節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の栄誉を、あなたがたが宣べ伝えるためです。
2:10 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。
   (新改訳聖書2017年度版)ペトロの手紙一 2章9節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、10月31日の宗教改革記念日を覚えてお話させて頂きます。

 ヨーロッパの宗教改革は、中世の終り頃から色々な人が始めていましたが、ルターがそれを決定的なものにしました。1517年10月31日、ドイツのヴィッテンベルク城の教会の扉に、当時の教会についての95か条の質問状を貼りました。事態は大きく展開し、改革運動はたちまちヨーロッパ中に広がりました。

 宗教改革の三原則というものがあります。第一は、形式原理、すなわち聖書のみという原則です。ローマ・カトリック教会は、昔からの伝承やローマ教皇の勅令、教会会議の決定など、<聖伝>というものも聖書同様に扱い、その結果、聖書の教えが歪められることもありました。宗教改革は、聖書を信仰と生活の唯一の規準とする古代教会の原理を回復したのでした。

 第二は、実質原理と言われます。つまり、人が罪を赦され義とされるのは、ただ神の恵みによるということ、すなわち、救いは決して私たち人間の行いによらず、救い主なる神の御子イエス・キリストを心から信じ受け入れ寄り頼む、ただ信仰によるということです。これは「恩恵のみ」とか「信仰のみ」の原理とも言われます。

 第三は、万人祭司論です。万人祭司論とは、イエス・キリストを唯一の救い主と信じる者は、誰でも直接神に近づき、仕えることが出来る祭司である、という教理です。今朝はこれを確認します。

 これは聖書に基づいています。先程のⅠペテロ2:9は「あなた方は選ばれた種族、王である祭司」と言います。つまり、クリスチャンは皆、神の前に祭司とされているわけです。

 宗教改革者たちは、では、何故これを強く訴えたのでしょうか。それは、当時の教会が、キリストの救いの恵みは、教会だけが信徒に与えることが出来るとしていたからです。

 しかも、その教会が聖書の教えと違っていました。聖書によれば、教会はキリストの霊的な体であり、信徒一人一人はその部分なのです。Ⅰコリント12:27は「あなた方はキリストの体であって、一人一人はその部分」と言います。教会は全信徒が構成しているのです。

 ところが、当時のローマ・カトリック教会はそう考えませんでした。教会は司教や司祭などの聖職者が構成し、これを特別視し、この意味での教会がいわば祭司として人々を神に執り成し、この教会を通さなければ、人は神に近づけず救われないとしていたのです。つまり、聖職者による教会を、神と一般信徒との間に介在させたのでした。

 改革者たちが万人祭司を唱えたのは、こういうことに対してでした。聖書によれば、信徒は皆神の前で祭司だからです。黙示録1:6も「私たちを王国とし、<祭司>として下さった方に、栄光と力が世々限りなくあるように」と言っています。

 では、万人祭司論は、もう少し具体的に言って、どんなことを意味するのでしょうか。

 第一は対神的なことです。つまり、信徒一人一人は、今やイエス・キリストを通して、直接真(まこと)の神に近づき、祈り、神と親しく交わり、神を喜び、神に仕えることが出来るということです。

 神と信徒との間にあって、信徒の救いを神に執り成すのは、教会や牧師、聖職者ではありません。Ⅰテモテ2:5が「神と人との間の仲介者も唯一であり、それは…キリスト・イエスです」と言う通り、私たちの罪のために十字架で命を献げ、復活され、今、天の父なる神の右にあって、私たちのどんな弱さも分り、執り成して下さる神の御子イエス・キリストだけです。キリストにより、クリスチャンは今や皆、祭司として神に近づけるのです。

 心から慕う人のそばで、私たちがその人の役に立てるならば、どんなに嬉しいでしょうか。でも、クリスチャンはもっと素晴らしい幸せに与っています!本来、私たちは皆、神の前に顔も上げられない罪人です。けれども、今や主イエス・キリストの故に、勿体なくも、一人一人が祭司として大胆に恵みの座に近づき、直接、神に仕えることを許されているのです。私たちは今やキリストの故に、自分自身を神への芳しい献げ物とし、神に喜んで受け入れられます!何という光栄また喜びでしょうか!

 対神的な点で、一つ付け加えますと、今や私たちは、神と自分との個人的・人格的関係をしっかり覚える<自律した信徒>として、キリストの体なる<教会に><主体的>に関り、自分の賜物を活かし、皆で共に神に仕え、神に喜んで頂けるという点があります。これも何と光栄なことでしょうか。

 第二は、対人的なこと、すなわち、人に仕えるという点です。

 旧約聖書によれば、祭司は特に人を神に執り成しました。例えば、罪を犯した人に神の律法が命じることをさせて罪の赦しに与らせ、その人の魂に赦しの確信と平安、慰めと癒しを与え、元の生活へ戻してやりました。

 こうして祭司は人にも仕えました。愛と同情をもって人に仕えることを通して神に仕え、神に仕えるという尊い目的をもって人に仕えました。万人祭司論を宗教改革者が強調した時、彼らは、信徒が人にも仕えるという誠に尊い奉仕と役割を教え、勧めたのでした。

 この対人的なことに二つの面があります。

 一つは教会内のことです。信徒が互いに思いやり助け合う、いわゆる相互牧会です。例えば、誰かが不信仰になって神から離れる時には連れ戻し、また病や辛い試練に遭って傷つき、或いは苦しみ、弱っている時には、優しく助け、慰め、共に励まし合って天国への道を進み、救いの完成に至れるようにするのです。

 万人祭司の教理は、神には熱心だけれども人には関心が薄い、というのではありません。神の栄光を目的として、互いの信仰と救いの完成のために自分を献げ、祈りと愛と清い心で温かく支え合う<積極的でかつ自律的な信徒>を生み出すことを目指します。Ⅰペテロ1:22は言います。「あなた方は真理に従うことによって、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で互いに熱く愛し合いなさい。」

 万人祭司論は、私たちが互いに神の前で執り成し手とされているという誠に尊い務めに与っていたことを再認識させます。

 対人的な面のもう一つは、私たちが、イエス・キリストによる魂の救いをまだ知らない教会外の人のための執り成し手だということです。Ⅰペテロ2:9は言います。「あなた方は選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなた方を闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召して下さった方の栄誉を、あなた方が告げ知らせるためです。」

 万人祭司論は、私たちを未信者の方々への伝道や証しや奉仕に導くものでもあるのです。クリスチャンは、真の神を知らない多くの人を神に執り成す祭司として召されています。一体、私たちを他にして誰が、真の神とその救いの愛を知らない多くの方々を神に執り成し、キリストによる罪の赦しと永遠の命の道を伝えられるでしょうか。

 ただ、このためには、私たちは清くある必要があります。Ⅰペテロ2:11、12は言います。「愛する者たち、私は勧めます。あなた方は旅人、寄留者なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。異邦人の中にあって立派に振る舞いなさい。そうすれば、彼らがあなた方を悪人呼ばわりしていても、あなた方の立派な行いを目にして、神の訪れの日に神を崇めるようになります。」

 旧約時代、祭司たちは大変美しい祭服を身にまとい、清い生活を求められました。彼らを見て、皆が神の聖さと美しさを学び、覚えるためです。

 今日も同じです。祭服は着ませんが、執り成しの祈りと共に、親切で人によく仕え、清潔で温かい人柄と生活により、私たちはⅠペテロ2:9「闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召して下さった方の栄誉を」多くの人に知って頂くのです。

 万人祭司論は私たちクリスチャンの信仰生活の質を問い、イエスの十字架と神の愛に生かされている私たちが、神と人に喜んで仕えるという生き方をも問う教理と言えるでしょう。

 3年前、105歳で天に召された元聖路加国際病院理事長・日野原重明氏は、1970年3月、よど号ハイジャック事件に遭い、北朝鮮へ連れていかれました。けれども助かり、正に死からの生還でした。クリスチャンであった彼は、あの事件に触れてこう書いています。「私の人生は、そこで方向を変えたと言えましょう。私の人生は、私だけのために私が作るのではなしに、私のためではないことのために、もっと私を使わなければならないという気持が自然に湧き上がってきたのです。」

 宗教改革より約100年あとの時代のカトリック信者、パスカルは祈りました。「主よ、今から、あなたの御用のために、あなたと共に、またあなたにおいて、役立てる以外には、私が健康や長寿をいたずらに願うことがありませんように。あなたお一人が、私にとって何が最善であるかをご存じです。ですから、あなたがご覧になって最も良いと思われることをなさって下さい。御心のままに私に与え、また取り去って下さい。私の意志をあなたの意志に従わせて下さい…。」

 いずれも、イエス・キリストに救われた自らを神と人に献げて、深く生きた人の言葉だと思います。

 大祭司イエスは、私たちのためにどんなにご自分を献げて下さったでしょうか。また大切な万人祭司の教理を取り戻し、命がけで神と人に仕えた宗教改革者たちも何と高く深い生を生きたでしょうか。彼らを待っていたものは、栄光に満ちた天の国以外にあるでしょうか。

 万人祭司論を確認した今朝、私たちはイエス・キリストによりどんなに光栄ある恵みに与り、どんなに尊い対神的・対人的奉仕へ召されていたかを改めて覚え、主の愛とご期待に是非応えられるように、御霊を熱心に求めたいと思います。

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