2020年10月25日「ひとつの願い」
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ひとつの願い
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マルコによる福音書 10章46節~52節
聖書の言葉
46 さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子バルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。
47 彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子イエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。
48 多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。
49 イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。
50 その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
51 イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか」。すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」
52 そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。
(新改訳聖書 2017年度版)マルコによる福音書 10章46節~52節
メッセージ
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はじめに
この朝、岡山西教会に集われた皆さま、オンラインで繋がっておられる方々と、どの御言葉(みことば)を味わおうかと、いろいろと考えたんですけれども、わたしが最も好きな御言葉のひとつから選ばせて頂きました。
聖書に親しむ喜びの一つは、この聖書の言葉、神の言葉がわたしの言葉になる、大切な、わたしを支え、生かすというそういう営みのなかにあるのではないかと思いますけれども、この御言葉は、間違いなく、わたしを支えて来てくれた御言葉のひとつです。
まずはどういうお話であったのか、今一度、辿ってみたいと思います。
舞台となりましたのは、イエス様がおられたガリラヤからずっと南にくだったエリコという街でした。
ここは大きな街でした、交通の要でした。
北に向かうにしましても、南に向かうにしましても、一応、このエリコを通ることになっていました。今ですと、大きな街でもビュッと車や電車で通り過ぎるなんてことがあるわけですけれども、当時はみんな歩いていますから、ここで一休止ということで、街の中を多くの旅人が、多くの商人たちが行き交うことになっていました。
そうした人びとのなかにイエス様一行もありまして、このエリコを通って、もう少し南のエルサレムの街を目指されていたんですね。
そこに、その道端に、バルティマイという人物が座っていた。
このバルティマイと、イエス様との出会いが、わたしにとって大切な物語なんです。皆さんにとってもそうであってほしいと願うのです。
想像してみたいと思います。多くの人々が行きかうエリコの街に、目が見えない一人の人が座っています。この人は物乞いをしています。街の片隅で、道の端っこに座って、ただ人から、食べる物を分けてもらい、お金をめぐんでもらい、そうして、生きていくしかなかった人です。彼は座り続けることしかできませんでした。目が見えないのです。当時にあっっては働くこともままならない。ですから、待ち続けるしかなったんです。
彼は何を待っていったのか。お金をくれる人、食べ物をわけてくれる人、それもそうでしょう。それは必要なものです。
が、それだけではない。それ以上に彼が待っていたものがあるようなんです。バルティマイは叫びますね。「ダビデの子よ、私をあわれんでください」。
「ダビデの子」と言いますのは、救い主の呼び名ですね。旧約聖書にでてきますダビデ王、その子として、その子孫として、ダビデのごとく神に愛され、神に選ばれた方として救い主は来られる。その願いをこめて、人びとは救い主を「ダビデの子」として待ち望んだのです。その「ダビデの子」という呼び名を、バルティマイは叫びました。
バルティマイが待っていたのは救い主なんです。
旧約聖書のイザヤ書の中にこういう御言葉があります。
「神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。」(イザヤ35:4-5) 救い主が来てくれれば、このことは実現する。その時を、バルティマイは本当に信じて、待っていたんですね。
ただ、難しいですよね。
その時が来たとしましょう。救いの時が来た、救い主が来てくれた。その時が来たとしましょう。
が、彼は目が見えないのです。救い主が目の前を通り過ぎても、気が付かないかもしない。
でも、彼は待ち続けました。あきらめたくなるような状況のなかで、救いというものに憧れながら、彼は待ち続けるんです。それが彼のすべきことでした。その日まで生き延びて待つこと。それが彼のすべきことだったんです。
わたしがこの箇所に魅かれる理由のひとつは、このバルティマイの切実さです。何となく、わたしも身に覚えがあるのです。
わたしが初めて教会を訪れたのは大学一年生の時でした。その時のわたしには確かなもの、真実なものに対する強い憧れがありました。同時に、オウムの事件を見ながら育った世代の特徴かもしれませんが、宗教団体に近づくとやばいという、そういう脅えも持っていた。
そういう大学生のわたしに、ある授業で、その講義を担当されていた先生が、特別伝道集会のチラシを配られた。もちろん、わたしだけではない、クラスのみんなに配られた。しかし、それが、わたしの背中を押したんですね。
ある勇気をもって、教会に行った。何も分からないまま。何も見えていなまま。それが救いに出会うという始まりになりました。
バルティマイにも教えてくれる人がいました。ナザレのイエスがおられる。今、エリコに来ておられる。
必ずしも、それはバルティマイさん、バルティマイさんと教えてくれたものではなかったかもしれない。そう聞こえてきたというだけかもしれない。が、その声が、バルティマイの背中を押すんです。
そうして、叫ぶんですよ。「ダビデの子のイエス様、わたしを憐れんでください」(47)
そうしますと、周りの人はびっくりして、バルティマイを黙らせようとするんですけれども、バルティマイは黙りません。この時を逃す訳にはいかないのです。もう二度とやってこないチャンスかもしれない。だから、叫ぶ。
ただ、それでも悲しいかな、ここに至ってもバルティマイは自分で近づくことができない。分からないんですよ、イエス様がどこにおられるのかは。
エリコにはおられる。近くには来ておられる。が、そこに行けない。
目が見えないんです。ですから、待つしかない。
声をふりしぼって、叫んで、そして待つしかない。
「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(48)
叫びと言いますのは、それが喜びからでありましても、苦しみからであっても、叫ぶという事柄のなかには、何かに訴えるという側面があります。
それは、祈りの土台にあるものと言っていい。願い、喜び、あるいは嘆き、そういうものが叫びというかたちに、わたしたちは祈るということがある。大きなものに訴えかけるということがある。
バルティマイは、イエス様に叫んでいる、救い主に祈っているんです。
真実な祈りは、必ず神に聴かれるものです。
いや、神の御心に適う祈りであるならば、祈ったその瞬間から既に叶えられている。その祈りは神の御手の中にあるのだと、聖書は教えています(ヨハネの手紙 第一 5:15)。
この時、バルティマイの叫び、祈りも、イエス様に届くんですね。
イエス様は立ち止まって言われる。「あの人を呼んで来なさい」。そして、バルティマイは弟子たちの声を聞くことになる。「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」。
救い主があなたを呼んでおられる。この時を待っていたんです。この時を待っていたんです。
するとどうでしょうか。バルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た、と記されています。その上着は、おそらくバルティマイが持っていた唯一の財産と呼べるものです。僅かながらでも暑さをしのぎ、あるいは体温を守り、少しでも雨露をしのいだであろう、その上着を捨てて、イエス様に駆け寄って行きます。
大丈夫でしょうか。この人は、まだ目が見えないのです。そして、社会のはじっこへと押し出され、街の片隅で物乞いをして生きていくしかなかった人です。
が、今、持っている僅かな物まで脱ぎ捨てて、声に促されて、まるでダンスを躍るかのように、イエス様のもとに駆け寄っていく。まだ目は癒されていません。その意味では困難であり続けています。が、待つ時はもう終わった。救い主が、呼んでくれている。救いの時は来た。
彼の視界はまだ暗闇のままです。その状況は変わっていません。そういう時に踏み出す一歩は不確かなものです。不安です。が、救い主が来なさいと言われている。だから、行くんです。
その歩みは確かなものだと、歩むのです。
待つ時は終わったのです。本当に意味あるものとして過ぎ去って行った。
わたしたちの日々にも、こういう瞬間があります。待ち続けた時間が、苦しかった時間がすべて報われるような、あの日々がすべて愛しいと、大切なものであったと思える瞬間が、神にもたらされる時がある。
バルティマイは、イエス様の前にやってくる。そのバルティマイに対して、イエス様は問われます。わたしに何をしてほしいのですか。
不思議な感じがします。イエス様なら、イエス様じゃなくても、分かるじゃないですか。バルティマイが必要としていることは分かるじゃないですか。
けれども、あえて問われるのです。その願いを言葉として置く、告白をする、そのことを求められる。わたしに何をしてほしいのですか。
わたしたちも胸に手をあてて考えてみる。わたしは、神様に、救い主に、何を期待しているのか。イエス様は言われます。わたしに何をしてほしいのですか。
バルティマイが願うことは一つのことでした。
先生、目が見えるようにしてください。
それは、目が見えないバルティマイにとって当然の願いです。が、マルコの福音書は、この聖書は、このバルティマイの願いを、ただ当然の願いということにはすましていないのです。
少しだけ面倒くさいお話をすることをおゆるしください。
新約聖書はギリシア語で書かれています。牧師は、説教者は、こういうお話の準備をする時に一応、そのギリシア語の確認をするのです。それはこの聖書がもっている豊かな意味を少しでも汲み取りたいと願うからです。ギリシア語が分からなければ聖書が読めない、そんなことはない。まったくない。少しでも汲み取りたい、それほどの豊かさがこの聖書にはあるのです。
ここで、バルティマイが「目が見えるように」と願った、その「見る」というところに使われましたギリシア語(アナブレポー)には二つの意味があります。
それは、「もう一度見えるように」という、視力の回復を願う意味。
もう一つ意味があります。それは、「上を見る」、「見上げる」という意味です。そして、この聖書は、このマルコの福音書は、「上を見る」、「見上げる」という意味を大切にしているんです。
その多くはイエス様の眼差しとして記されています。
例えば、5000人の人たちにパンを配られるというお話があります。そこで、こう記されている。イエスは天を仰いで(6:41)、讃美の祈りを唱えられた。その時の、「天を仰ぐ」という言葉です。
その天を仰ぐという言葉を、マルコの福音書は、ここでバルティマイの願いとして記すのです。先生、見えるように、すなわち、天を仰ぎ見られるようにしてください。天を仰ぎ見る事。それは、イエス様の眼差しであると、救い主の眼差しであると言えます。そんなふうに、天を仰ぎたい。
それが、バルティマイの願いであったと、この聖書は記すのです。彼は「見えるようになり」と記されるところもそうです。同じ言葉が使われている。
もちろん、実際に見えるようにされたんでしょう。同時に、天を仰ぐという、神を仰ぐという、そういう眼差しを、彼は与えられた。ですから、イエス様についていくんです。
イエス様は、バルティマイに言われました。
「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」(52)
あなたが待ち続けたので、あきらめそうになっても、でも、待ち続けた。
救いを待ち続けた。そして、叫び続けた。
その信仰が、あなたを救いましたと、言われる。
これまでの日々が決して無駄ではなくて、むしろ天を仰ぐためには必要な時間でありまして、そうして育まれてきたものが、今、あなたを救ったんだと言われる。神の時が今、来たんだと言われる。
であれば、もう大丈夫だから、さあ、行きなさいと言われる。
どこでにいても、天を仰ぐことができるならば、大丈夫なので、さあ、行きなさいと言われる。
イエス様は、何処に、という事は言われません。
聖書を読んでいますと、イエス様はいろいろな人たちに出会われて、さあ、行きなさいと言われている。ある人には、家に帰りなさいとも言われました。しかし、その旅の最後の最後に出会われたバルティマイに対しまして、もう、何処にということは何も言われません。ただ行きなさいと言われるだけです。
言われたバルティマイはどうしたでしょうか。
イエス様に従うんです。その眼差しをもって、イエス様の姿をとらえ、救いを仰ぎ見た、その眼差しをもってイエス様の行かれる道に従うのです。
今日の最後の一行、52節後半は本当に美しい一文です。直訳的に見ます。
「すぐに彼は見上げるようになり、そしてイエスのいる道に従い続けた」。
バルティマイは従い続けるのです。そういう言葉が使われている。従い続けて、達成するということはない、いつまでも未完成、そういうふうに従い続ける。イエス様の道に従い続ける。
これまでは、街の片隅で、道の端っこで座り続けるしかなかったバルティマイです。その人が、天を仰ぎ見て、そして、イエス様の道の真ん中に従い続ける。そういう光景が、ここに記されているんです。
これからイエス様が向かわれる道は、十字架への道、死に向かう道です。けれども、それを越えて生命に、尽きる事のない永遠の命に向かう道です。その道の真ん中に、天を仰ぐバルティマイはい続けるのです。
この朝、わたしたちはイエス様とバルティマイとの出会いのお話を学びました。
わたしに何をしてほしいのですか。
このイエス様の問いかけに、私たちはどのように答える事が出来るでしょうか。
私たちには様々な願いがあります。それらがすべて必要のない事だとは思えません。バルティマイにも、幾つかの願いが心をよぎる事もあったかもしれません。お金が欲しい。いい家に住みたい。よき友がほしい。人々のために尽くしたい。意味ある仕事がしたい。けれども、それら一つ一つが打ち砕かれていく時に、はぎ取られていく時に、その時、それでもなお私たちは何を願う事が出来るのでしょうか。いやそうではなくて、何を願う事を、神様にゆるされているのでしょうか。目が見えない、一人で座り、ただ待つしかない、手にするものは身を守る上着しかない、日々の糧は人々に頼るほかない、そのような状況の中で、それでも、何を願う事を、私たちはゆるされているのでしょうか。
先生、目が見えるようにしてください
バルティマイは願いました。もう一度見る事を。天を仰ぎ見る事をです。これが、私たちが、どんな時にあっても、何も手の中に残されていなくても、最後の最後までゆるされている願い、祈りです。わたしたちを救う祈りです。
イエス様は、この祈りを、私たち自身の言葉とするために、問い続けて下さいます。わたしに何をしてほしいのですか。
この問いに答える、答え続ける事から、私たちの新しい日々が始まります。
いつからでも、どこからでも始められるのです。
私の先生、天を仰ぎ見るようになりたいのです。
この祈りをもって、共に同じ道を歩み続けましょう。お祈りいたしましょう。
祈り
イザヤ書
35:5 そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。
35:6 そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。