聖書の言葉 私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は何もすることが出来ないのです。 (2017年度版 新改訳聖書)ヨハネによる福音書 15章5節 メッセージ 葡萄の枝は木に留まっているなら実を結びます。私たちも神の御子イエスに、特にイエスの愛と御言葉に留まるなら、必ず霊の実を結ばせられます。これが主イエスのお約束です。 それで様々な実を見てきましたが、今日はガラテヤ5:22、23の教える愛、喜び、平安・平和に続くものとして、「寛容」に進みたいと思います。 ここで「寛容」と訳されている元のギリシア語は<怒りから遠い>という意味であり、「忍耐」とも訳されます。これを古代教父の一人クリュソストモス(4世紀半ば~5世紀初め。コンスタンチノポリスの司教)は、仇を返せるのに返さない人とか怒るのに遅い人の美点だ、と述べたそうです。本当にそうだと思います。 正しい怒りを持つことは、神に許されています。問題は狭い心から生じる性急な怒りです。昔は「瞬間湯沸かし器のような」などと言われましたが、性急で度を越した怒りを爆発させますと、築かれて来た良い関係は一挙に壊れ、マイナスから築き直さなければなりません。何と不幸でしょうか。ですから、ヤコブ1:19、20は言います。「人は誰でも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。」 ところで、先程のギリシア語は新約聖書の中によく見られ、私たち罪人に対する神の忍耐と寛容という意味で使われることが多く見られます。例えば、ローマ2:4には「神の慈しみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈しみと忍耐と寛容を軽んじるのですか」とあります。自分は出来ている、と思う傲慢な自意識から人を偉そうによく裁く者を、パウロはここで諌(いさ)めています。 ローマ9:22にも「もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか」とあり、そこも神の豊かな寛容と忍耐に触れています。 パウロは、自分のような罪人のかしらに表された神の計り知れない忍耐と寛容として、Ⅰテモテ1:15、16でこう述べています。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私は憐れみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまずその私に示し、私を、ご自分を信じて永遠の命を得ることになる人々の先例にするためでした。」 使徒ペテロも、罪人に対する神の驚くべき寛容と忍耐に触れ、Ⅰペテロ3:20でこう語ります。「かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられた時に従わなかった霊たちに…」と。 寛容と忍耐はどんなに大切でしょうか。これが乏しいために、小さなことが怒りや憎悪へ発展し、どれ程悲惨な戦争が起り、夥しい血が流されてきたことでしょうか。身近な所でも、寛容や忍耐の欠如ゆえに、家庭の中、近所付き合い、職場、学校、いいえ、教会内ですら互いに傷付け合い、関係が破綻し、怒りや人を排除する敵対心へとエスカレートしていきます。 ところが、寛容や忍耐をもって人と接することは、何と難しいでしょう。生れつきの罪人である私たちには至難の業(わざ)です。私たちは、自分が人に与えた傷には鈍感で、自分の受けた傷ばかりを執念深く覚え、赦せず、憎みやすい者です。 いいえ、だからこそ、今見ましたように、聖書は私たち罪人に対する<神の忍耐>に何よりまず目を留めるように教えるのです。常にこれが聖書の教え方です。私たちの罪と不信仰に対し、もし神がご自分の聖なる怒りをまともに表されたならば、私たちはとうの昔に滅んでいました。しかし、神はそうされませんでした。寛容と忍耐をもって御子イエスを罪の世の真只中に送られたのでした。罪を犯しては悔い、悔いてはまた犯す情けない私たちを、神は、一体どれだけ寛容と忍耐をもって赦して下さっているでしょうか。 葡萄の木である主イエスに留まっているなら、私たちも寛容や忍耐という霊の実を結ぶことを許されます。しかしそれは、何も学ばず、何も考えず、ただぼんやりとイエス・キリストは救い主だと信じることではありません。イエスを通して繰り返し教えられる神の計り知れない慈愛と寛容、忍耐を、何度でも心に留め直すことです。 イエスはマタイ18:21以降で、自分に罪を犯した者を何回まで赦すべきかと尋ねる弟子たちに「7回を70倍までするまで」と言われました。そしてその後、神の驚くべき豊かな赦しを譬えをもって教え、ついには御自ら十字架にかかり、ご自分を犠牲にして私たちの罪の一切合切を背負って下さいました。何という主の愛であり、寛容でしょうか。 主イエスに留まり、その御声に聞き従い、私たちへの父なる神の無限の赦し、寛容を何度も心に覚え、神を見上げ、感謝する!そのようにして、寛容や忍耐という清い霊の実を、私たちの内面に、是非、豊かに結ばせられたいと思います。 関連する説教を探す 2020年の祈祷会 『ヨハネによる福音書』
葡萄の枝は木に留まっているなら実を結びます。私たちも神の御子イエスに、特にイエスの愛と御言葉に留まるなら、必ず霊の実を結ばせられます。これが主イエスのお約束です。
それで様々な実を見てきましたが、今日はガラテヤ5:22、23の教える愛、喜び、平安・平和に続くものとして、「寛容」に進みたいと思います。
ここで「寛容」と訳されている元のギリシア語は<怒りから遠い>という意味であり、「忍耐」とも訳されます。これを古代教父の一人クリュソストモス(4世紀半ば~5世紀初め。コンスタンチノポリスの司教)は、仇を返せるのに返さない人とか怒るのに遅い人の美点だ、と述べたそうです。本当にそうだと思います。
正しい怒りを持つことは、神に許されています。問題は狭い心から生じる性急な怒りです。昔は「瞬間湯沸かし器のような」などと言われましたが、性急で度を越した怒りを爆発させますと、築かれて来た良い関係は一挙に壊れ、マイナスから築き直さなければなりません。何と不幸でしょうか。ですから、ヤコブ1:19、20は言います。「人は誰でも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。」
ところで、先程のギリシア語は新約聖書の中によく見られ、私たち罪人に対する神の忍耐と寛容という意味で使われることが多く見られます。例えば、ローマ2:4には「神の慈しみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈しみと忍耐と寛容を軽んじるのですか」とあります。自分は出来ている、と思う傲慢な自意識から人を偉そうによく裁く者を、パウロはここで諌(いさ)めています。
ローマ9:22にも「もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか」とあり、そこも神の豊かな寛容と忍耐に触れています。
パウロは、自分のような罪人のかしらに表された神の計り知れない忍耐と寛容として、Ⅰテモテ1:15、16でこう述べています。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私は憐れみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまずその私に示し、私を、ご自分を信じて永遠の命を得ることになる人々の先例にするためでした。」
使徒ペテロも、罪人に対する神の驚くべき寛容と忍耐に触れ、Ⅰペテロ3:20でこう語ります。「かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられた時に従わなかった霊たちに…」と。
寛容と忍耐はどんなに大切でしょうか。これが乏しいために、小さなことが怒りや憎悪へ発展し、どれ程悲惨な戦争が起り、夥しい血が流されてきたことでしょうか。身近な所でも、寛容や忍耐の欠如ゆえに、家庭の中、近所付き合い、職場、学校、いいえ、教会内ですら互いに傷付け合い、関係が破綻し、怒りや人を排除する敵対心へとエスカレートしていきます。
ところが、寛容や忍耐をもって人と接することは、何と難しいでしょう。生れつきの罪人である私たちには至難の業(わざ)です。私たちは、自分が人に与えた傷には鈍感で、自分の受けた傷ばかりを執念深く覚え、赦せず、憎みやすい者です。
いいえ、だからこそ、今見ましたように、聖書は私たち罪人に対する<神の忍耐>に何よりまず目を留めるように教えるのです。常にこれが聖書の教え方です。私たちの罪と不信仰に対し、もし神がご自分の聖なる怒りをまともに表されたならば、私たちはとうの昔に滅んでいました。しかし、神はそうされませんでした。寛容と忍耐をもって御子イエスを罪の世の真只中に送られたのでした。罪を犯しては悔い、悔いてはまた犯す情けない私たちを、神は、一体どれだけ寛容と忍耐をもって赦して下さっているでしょうか。
葡萄の木である主イエスに留まっているなら、私たちも寛容や忍耐という霊の実を結ぶことを許されます。しかしそれは、何も学ばず、何も考えず、ただぼんやりとイエス・キリストは救い主だと信じることではありません。イエスを通して繰り返し教えられる神の計り知れない慈愛と寛容、忍耐を、何度でも心に留め直すことです。
イエスはマタイ18:21以降で、自分に罪を犯した者を何回まで赦すべきかと尋ねる弟子たちに「7回を70倍までするまで」と言われました。そしてその後、神の驚くべき豊かな赦しを譬えをもって教え、ついには御自ら十字架にかかり、ご自分を犠牲にして私たちの罪の一切合切を背負って下さいました。何という主の愛であり、寛容でしょうか。
主イエスに留まり、その御声に聞き従い、私たちへの父なる神の無限の赦し、寛容を何度も心に覚え、神を見上げ、感謝する!そのようにして、寛容や忍耐という清い霊の実を、私たちの内面に、是非、豊かに結ばせられたいと思います。