2026年06月14日「イエスは神の子」

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聖句のアイコン聖書の言葉

22:41 パリサイ人たちが集まっていた時、イエスは彼らにお尋ねになった。
22:42 「あなた方はキリストについてどう思いますか。彼は誰の子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」
22:43 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、
22:44 『主は、私の主に言われた。
    「あなたは、私の右の座に着いていなさい。
     私があなたの敵を
     あなたの足台とするまで」』
    と言っているのですか。」
22:45 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」
22:46 すると誰一人、一言もイエスに答えられなかった。その日から、もう誰も、あえてイエスに質問しようとはしなかった。マタイによる福音書 22章41節~46節

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 続けて学んでいますマタイの福音書22:41~46により、今朝は「イエスは神の子」という大切な点を改めて学びたいと思います。

 41節に「パリサイ人たちが集まっていた時、イエスは彼らにお尋ねになった」とあります。22:15以降が伝えましたように、当時、イエスを妬み、拒否し、敵視していたユダヤ教指導者のパリサイ派やサドカイ派の人たちは、イエスを陥れようとして質問を三つしました。しかし、イエスは見事にお答えになり、彼らは黙ってしまうほかありませんでした。とはいえ、心の中では相変わらずイエスを強く否定していました。

 そこで、パリサイ人たちが集まっていた時、今度はイエスの方から彼らに質問をされました。民衆から慕われ、キリスト、つまり神が約束しておられた救い主ではないだろうかと噂されていたイエスをただ否定し続けるのではなく、本当はどういう方なのかを、彼らに理解させるためでした。

 イエスは質問されます。42節「あなた方はキリストについてどう思いますか。彼は誰の子ですか。」

 「キリスト」とは、神がお遣わしになる「救い主」という役目、職務を指し、ヘブル語ではメシア、ギリシア語ではキリストと言います。ユダヤ人たちは、神からの救い主・キリストを長い間ずぅっと待ち望んでいました。ですから、パリサイ人ちは直ちに答えました。42節「ダビデの子です」と。

 ダビデは、紀元前1000年頃からのユダヤ・イスラエルの王でした。旧約聖書のサムエル記第二 7:11、12などで、神はダビデの子孫の中に全世界の救い主・キリストを与えることを約束され、これは皆によく知られていました。ですから、パリサイ人たちにすれば、何を今更イエスは尋ねるのかという感じで、イエスの質問の真意を深く考えなかったでしょう。しかし、そこに問題があったと言えると思います。

 そこで、イエスは彼らに言われました。43~45節「それでは、どうしてダビデは御霊(みたま)によってキリストを主と呼び、『主は、私の主に言われた。「あなたは、私の右の座に着いていなさい。私があなたの敵を、あなたの足台とするまで」』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」

 イエスが引用されたのは、旧約聖書の詩篇110:1です。詩篇110は、救い主、つまり、メシア・キリストについて預言する詩篇として有名でした。イエスはその詩篇110の1節をよく考えさせようとされたのでした。

 そこで、それを引用しているマタイの福音書22:44を見ます。「主は、私の主に言われた」とダビデは歌いました。

 詩篇110:1は、元のヘブル語聖書では、最初の「主」は天と地を無からお造りになり、ユダヤ・イスラエルの民にご自分を親しく現され、また彼らと救いの契約、恵みの契約を結ばれた生ける真(まこと)の神を指すヤーウェという言葉になっています。

 そのあとの「私の主」とあるその「主」は、アドーナイという言葉であり、ダビデも待ち望んでいた救い主・キリストを意味します。そして、その救い主・キリストは、神に「あなたは、私の右の座に着いていなさい。私があなたの敵を、あなたの足台とするまで」(4節)と言われた特別な存在であることが分かります。

 神の「右の座に着」くとは、神の力と権能を全て託されたことを意味します。

 また神は、やがて神とキリストに敵対する者たちを完全に征服され、彼らをキリストの「足台とする」と約束されます。「足台とする」とは、完全な支配下に置くことを意味し、これは世の終りに実現します。Ⅰコリント15:24、25も言います。「その時、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。全ての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。」

 要するに、キリストは、本当はダビデ自身も仰ぐべき救い主、メシア・キリストであられ、彼の単なる子孫などではないということです。また神がご自分の力と権能を全部託されるのですから、キリストは本当は神の子であられ、イエスはご自分が神の子であることを実はお教えになったのです。そういえば、弟子のペテロは、本当はまだ十分に分ってはいなかったのですが、イエスに対して既にマタイの福音書16:16で「あなたは生ける神の子キリストです」と告白していました。

 では、何故イエスはこういうことを当時のユダヤ教指導者たちに教え、よく考えさせようとなさったのでしょうか。

 それは、第一に彼らのキリスト理解・メシア理解が間違っていたからです。

 彼らがキリストをダビデの子と呼ぶ時、次々と敵を打ち破って王国を安泰させたかつてのダビデ王のように、メシア・キリストが特に当時ユダヤを支配していたローマ帝国を打ち破り、ユダヤを解放し、ユダヤ・イスラエル王国を再建してくれる、そういう王のような世俗的指導者を期待していたのでした。武力による革命家のような人たちが出ていたことは、使徒の働き5:36、37からも分ります。

 しかし、こういう世俗的キリスト像・メシア像を抱いている限り、イエスが大切な神の真理をどんなに教え、また神の力をもって素晴らしい御業(みわざ)をされても、彼らはイエスを拒み続け、また彼らが指導する多くのユダヤの民衆をも誤らせ、彼らを世俗的な生き方に留まらせ、滅びに至らせます。

 、紀元70年、将軍ティトゥスに率いられたローマ軍の攻撃により、ユダヤの都エルサレムは徹底的に破壊され、おびただしいユダヤ人が殺害され、1948年にパレスチナに国を再建する時まで、彼らは国のない流浪の民となりました。このように、救い主についての誤った理解は、人の心の目を曇らせ濁らせ、神が示しておられる真理を分らなくさせ、拒絶させ、また他の人々にも影響を与えて不幸にし、時として滅びに至らせかねません。間違ったメシア・キリスト理解は、とても危険なのです。

 第二の理由は、今申し上げたことの丁度裏返しです。つまり、イエスが永遠の神の御子だという真理を知ることにより、彼らとその彼らによって指導される人々も、本当の救いに与れるためです。これは今の私たちにも大いに関係する大切な点です。

 イエスが神の子、神の御子であるということは、イエスへの信仰による救いが、今は目に見えませんが、神の永遠の世界に関わることであり、つまり物質的・世俗的幸せなどではなく、私たちを何よりも、私たちの造り主であられ、永遠者、絶対者であられる真(まこと)の神に喜ばれる者にし、またこの世が与えることも奪うこともできない最高の幸せに私たちを与らせることを意味します。

 イエスはヨハネの福音書18:36で「私の国はこの世のものではありません」と言われました。「国」は、聖書では支配を意味します。

 では、神の子イエスによる支配とは、どういうものでしょうか。色々ありますが、今朝は、義と愛が何より支配し、尊ばれる点を上げたいと思います。

 讃美歌の262番1節に、「十字架のもとぞ いと安けき、神の義と愛の あえるところ」とあります。確かに、主イエスは私たちの罪を全部償い、神の前に私たちを罪のない者、すなわち、義とし、更に私たちに永遠の命を与えるために、十字架でご自分の命を、それもただ愛によって捧げて下さいました。

 ですから、神の子イエスは、力を誇示し、力で物事を推し進める指導者や権力者、独裁者のような者とは全く違います。神が聖書で示しておられる正しさ、義を何より尊ばれる救い主なのです。

 従って、そういう神の御子イエスを心から信じ仰ぐキリスト教会では、誰かが上から目線でものを言うとか、強引に人を動かし、あるいは少々正しくないことであっても力で押し通すというようなことは、絶対にあってはなりません。むしろ、聖書に教えられている神の聖い(きよい)戒め・律法を何より重んじ、義・正しさが何より支配する、そういう清潔で誠実な教会であることに、私たちは絶えず皆で努めていきたいと思います。

 また教会は、神の御子イエスのように、まず自分自身を捧げ、また自分を低くして他の人に仕える愛が何より支配し、尊ばれるところと言えるでしょう。イエスは言われました。マタイ福音書20:26~28「あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。…あなた方の間で先頭に立ちたいと思う者は、皆の僕(しもべ)になりなさい。人の子(=イエスご自身のこと)が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

 神の子イエスは、ご自分の命を捧げて下さり、罪人の私たちを、何よりも義・正しさに、そして真実な愛に満ちた聖い永遠の神の国の祝福に与らせて下さる救い主であられます。この主イエス・キリストの心を心として歩み、この世が与えることも奪うこともできない幸せに、ますます皆で励まし合い、ご一緒に与りたいと思います。

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