2020年10月18日「真実な言葉と行動を」

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:33 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
5:35 地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
5:36 自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。
5:37 あなたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。
   (新改訳聖書2017年度版)マタイによる福音書 5章33節~37節

原稿のアイコンメッセージ

 聖書を読んで戸惑う教えの一つとして、イエス・キリストが言われたマタイ5:34「決して誓ってはいけません」があると思います。ヤコブ5:12も「誓うことはやめなさい。天にかけても地にかけても、他の何にかけても誓ってはいけません。あなた方の『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』でありなさい。そうすれば、裁きに会うことはありません」と言います。私たちの社会では誓うことはとても大切ですのに、これはどういうことでしょうか。

 これを文字通りに取り、宗教改革時代のアナバプテスト(再洗礼派)の人々は誓いを拒否しました。今も米国のペンシルベニア州にいるクェーカー教徒は誓いをしません。

 私たちは、こういうイエスの教えをどのように捉えれば良いでしょうか。「聖書解釈の無謬(むびゅう)の基準は聖書自身である」という聖書解釈の大原則の一つを覚えることが常に大切です。つまり、一つの分りにくい御言葉があるような時、聖書の御言葉全体から光を当てて理解することです。

 まず、聖書全体は誓いを禁じていません。誓いは聖書の様々な所に見られます。創世記47:31では、ヨセフが父ヤコブに誓い、出エジプト記24章では、イスラエルの民が神に誓っています。神ご自身、申命記32:40で「まことに、私は誓って言う」と言ってイスラエルに誓われました。イエス・キリストの忠実な僕(しもべ)、使徒パウロはⅡコリント1:23で「私は自分の命にかけ、神を証人にお呼びします」と言って誓いました。黙示録10:5、6では天使も誓っています。もう十分でしょう。聖書全体は誓いを禁じていません。むしろ、誓いを大切にしています。

 それでは、イエスが言われたマタイ5:33以降は、どういう意味でしょうか。次にこれを確認します。

 イエスは33節「偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ」というユダヤ人が昔から聞いていた旧約聖書の律法を取り上げられます。前半の「偽って誓ってはならない」はレビ記19:12「あなた方は、私の名によって偽って誓ってはならない。そのようにして、あなたの神の名を汚してはならない」から来ています。後半の「あなたが誓ったことを主に果たせ」は、民数記30:2「男が主に誓願をするか、あるいは、物断ちをしようと誓う場合には、自分の言葉を破ってはならない。全て自分の口から出た通りのことを実行しなければならない」を要約したものでしょう。とにかく、偽りの誓いをしてはならない!主なる神に誓ったことは、必ず果さなければならない!これが聖書の教えであり神の御心です。

 ところが、これをそのまま自分に適用すると厳しいと考えたイエスの時代のユダヤ教の専門家たちは抜け道を考えました。彼らは「主」、すなわち、神によって誓わなければ、誓いを果たさなくても良いと考え、そこで34節「天にかけて」、35節「地にかけて」、36節「自分の頭にかけて」と、神以外の物にかけて誓ったのでした。

 ここには二つの問題が見られます。一つは、神の戒めであっても、人はこのように自分に都合良く解釈し、巧妙にハードルを下げることです。人はいつの時代にもそうしてきました。

 もう一つの問題は、御言葉のハードルを下げつつも、色々な場面でやや大袈裟に誓いをする、その意図です。つまり、自分を誠実な人間だと人に思わせ、自分を信用させようとすることです。根底にあるのは、神への畏れや誠実さよりも、自分の誠実さを人に印象付け、自分は信頼に値する人間だと、とにかく人に思わせたいという不信仰で不純な動機です。この点をイエスは鋭く見抜いておられるのです。

 イエスの言われる点をもう少し見ておきます。人々は「主」という神の名を避け、代りに34節「天」にかけて誓い、35節「地」にかけて誓いました。しかしイエスは、「それは根本的に間違っている。天は『神の御座』、地は『神の足代』ではないか」と言い、イザヤ書66:1の「天は私の王座、地は私の足台」という神の言葉を引用して論駁されます。

 同じように、彼らが抜け道で使った都「エルサレム」(マタイ5:35)についても、イエスは詩篇48:2を用いて「そこは偉大な王の都」、すなわち、神の都だと指摘されます。「自分の頭にかけて誓」うこと(マタイ5:36)も同じです。自分で髪の毛1本、白くも黒くも出来ない、そんな自分の頭にかけて誓うことに何の意味があるのか、それに頭も神が造られたものではないか、ということです。天、地、エルサレム、頭などを使い、人々は「神と直接関係のないこれらによって誓うなら、誓いは果たさなくても良い」としました。何という詭弁でしょうか。この世界に、神と無関係のものなど、あり得ません。

 仮に私たちが広い野原の真ん中で誰かに何かを誓ったとします。確かに他には誰も見ていませんし、聞いてもいません。しかし、忘れてはなりません。神の目、神の耳、神の顔は、下の草むらにあり、傍らの木、空、雲、空気の中にあり、一切を神は聞いておられます!詩篇139:7、8が神に告白する通り、「私はどこに行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。たとえ、天に上っても、そこにあなたはおられ、私が陰府に床を設けても、そこにあなたはいます」なのです。

 抜け道を作り、守らなければならない誓いとそうでない誓いというランク分けまでして、人が尚誓いをしようとする理由、動機は何でしょうか。繰り返しますが、結局、自分を誠実な人間だと人に思わせ、自分を信用させたいからではないでしょうか。根底にあるのは、神への真実な畏れではなく、自分は信頼に値する人間だとアピールし、強く印象付け、無意識かも知れませんが、それにより何かを都合良く進ませようとする計算ではないでしょうか。

 そういう動機や計算、魂胆でする誓いなら、「しない方が良い。してはならない」ということで、イエスは34節「決して誓ってはいけません」と言われたのです。

 実際、私たちが口にし、或いは文書とかメールによる自分のあらゆる言葉に全く誠実で、教会では勿論、職場でも学校でも商取引や友人間でも、常に全て言葉通りに行なっているなら、改めて大袈裟に誓う必要はないでしょう。いちいち誓わなくても、「あの人はいつだってどんなことにも誠実で信頼出来る人だ」と、人は私たちの言葉をそのまま信じてくれるでしょう。私たちが「はい、そうです」「いいえ、違います」と言うだけで、人は信じてくれるでしょう。常に真実な言葉と行動に生きているなら、私たちには誓う必要がありません。やたら誓うのは、普段の自分の言動がいい加減なので、自分を繕いたいからではないか、ということです。

 こうして見ますと、イエスが37節「あなた方の言う言葉は、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは、悪い者(悪魔)から出ているのです」と言われる意味が良く分ると思います。主が問題にしておられるのは、誓う、誓わないという形式のことではなく、言葉と行動の真実さ、誠実さであり、真実な言葉と行動の尊さを何より教えておられるのです。

 では、何故イエスは33~37節のようなことを敢えて教えられるのでしょうか。最後にその積極的な意義、目的を学んで終りたいと思います。一つの点は、5:13以降でイエスが言われましたように、私たちクリスチャンの言葉と行動が真実であるなら、この世に対し、大切な地の塩、世の光としての使命を果たし、特に5:16で言われたように、人々が私たちの「良い行い」を見て、天の父なる神を崇めるようになるからです。

 私たちは、自分が救われ、天国に入れさえすれば良いのではありません。神が御子イエスを賜った程に愛しておられる世の多くの人が、私たちを見て真の神を知り、救われるためにも、私たちは世に置かれています。

 人は実は私たちクリスチャンの言動を黙って良く観察しています。口で言うことと実際の行動にズレがないかを見、私たちが信頼できる人間か否かを見極めます。クリスチャンが口で、愛だ、平和だ、神と人のためだ、弱い立場の人のためだと立派なことを言い、また自分の信仰を説明し、言葉を強めて何かを約束し誓っても、それと違う行動をしているなら、イエス・キリストもキリスト教も信頼されません。

 しかし、言葉と行動とが一致する真実な生き方をしているなら、私たちは、「あの人は信頼できる」と人に言われる者になるでしょう。自分が人に信頼されることは、自分でも嬉しいですね。本当に感謝なことです。しかし、それだけでなく、繰り返しますが、私たちは、神に対して尊い奉仕ができます。つまり、地の塩、世の光として人々に信頼され、今はまだキリスト教に無関心で反対している人も、いつ私たちに「一度自分も教会に行ってみたい」と言い出すか分りません。素晴らしいですね。主はこのことを私たちに期待しておられるのです。

 もう一つ、直接ここでは言われてはいませんが、聖書のどの教えや戒めもそうであるように、私たちを一層祝福するために、イエスは33~37節を語られたと言えます。

 クリスチャンにとって最も嬉しく感謝なことは、ますます神の愛と真実を確信できることでしょう。それを味わわせるためにも、主は今朝の教えを下さったのだと言えると思います。

 人間には、自分の生き方で人を推し量る傾向があります。割合よく嘘をつき、自分を誤魔化し、でも自分を信じてほしくて言葉を沢山繰り出す人は、「他の人だって同じだ」と考え、人を疑いやすくなります。そしてそれは神に対しても同じようになります。何と不幸なことでしょう。詩篇18:25、26が神に対してこう言う通りです。「あなたは 恵み深い者には恵み深く、全き者には全き方。清い者には清く、曲った者にはねじ曲げる方。」自分がねじ曲がっていますと、神のこともねじ曲がった方だと考えやすいのです。

 一方、自分の言葉に誠実で、それを神の前に実行する人はどうでしょうか。他の人が不誠実ですと、無論ガッカリします。だからといって、神にまでガッカリはしません。それどころか、自分のような信仰の薄い罪深い者であっても、自分の言葉に真実であろうと一生懸命努めるのですから、ましてご自分の御子を賜った程に私たちを愛しておられる天の父なる神がどれ程真実なお方であるかがとても良く分り、うんと確信が強められます。これ程、嬉しく幸いなことはありません!どんなに励まされ、勇気付けられるでしょうか!

 私たちを愛しておられる主イエス・キリストは、こういう恵み、祝福にも私たちを与らせ、その幸せを味わわせようとして、今日の御言葉も下さっていると言えるでしょう。私たちも喜んで神と人の前にますます真実な言葉と行動に努めたいと思います。

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