2026年06月11日「罪と空しさから喜びへ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが益となることを、私たちは知っています。ローマの信徒への手紙 8章28節

原稿のアイコンメッセージ

 今お読みした所は、多くのクリスチャンが愛し、心に留めている御言葉の一つです。今日は、最後にはこの御言葉とも関係しますが、私自身のことを「証し」として少しお話させて頂きたいと思います。

 私が初めて教会へ行き、キリスト教に近づいたのは、高専の卒業間近で、20歳の学生の時でした。当時の私は完全な唯物論ではありませんでしたが、無神論者ではありました。ですから、洗礼を受けてクリスチャンになった同級生の一人と神についてよく議論し、彼を小馬鹿にしたりしました。

 それなのに何故キリスト教に近づいたのか。

 一つには、同期の学生の友人たちを初めとする回りの人たちの内に見られ、小説や映画、ベトナム戦争を通しても示された人間の汚さ、醜さ、罪深さを感じ、けれども、自分も本当に自分が願っている姿からはほど遠い、情ない罪人であることを強く感じていた点があります。ですから、先ほどのクリスチャンの友人が言いましたように、死後、私たちを裁かれる神がおられるなら、死んだ後のことを考えますと心は穏やかでなく、この問題を解決しなければ、と思っていました。

 もう一つは、人生の空しさを心の奥にずっと感じていたことです。

 人は死んでしまえば、それまでの人生をどう生きようが皆同じであり、死の瞬間に一切が終り、永遠に消滅するというのであるなら、一生懸命努力し、むきになってある生き方に固執し、人生の成功者になり、あるいは超真面目に生きても、何の意味があるのか。ずるいことをし、さんざん人に迷惑をかけ、自己中心に好き放題に生きても、死ねば皆、永遠に消滅するだけだというなら、どんな生き方をしても構わない。誠実に生きるなどと言っても、それは所詮、本人の自己満足に過ぎず、客観的には何の意味もない。だが、本当にそうなのか。真実はどうなのか。死ねば分るだろう。しかし、それでは遅い……。

 無論、いつもこんなことを考えていたのではありません。普段は友達とふざけ、よく遊び、好きなことをしていました。特に音楽が好きで、自分で組み合わせたステレオ装置でよくレコードやテープを聞き、またクラシック・ギターが好きで、よく弾いていました。

 しかし根底にこういう思いがあり、どこか冷めていて、空しく、心に空洞がありました。自分の生きる意味、目的が分らなかったのです。

 それで、いつしか生きる目的を求めるようになっていたと思います。それも人間を裏切ることのない絶対に真実で確かなものを求めていました。こんな気持ちの中、当時、私は自分の心の空洞を埋めるために、近所の幼い子供たちとよく遊び、また誰もいない川原に出かけては自然界に触れるのが好きでした。時には、目的もなく、というより、何かを求めて、全く知らない場所を遠くまで何時間も歩き回ったりしました。結局、私の問いは神がおられるかどうかにかかっていました。

 そんな折、母がたまたま町でもらった教会案内をくれました。「まあ、一度行ってみるか。でも、思っているものと違っていたら、すぐやめよう」と思っていました。

 そして教会で見て聞いたもの、すなわち、永遠者、絶対者なる真(まこと)の神のことと、その神の御子イエス・キリストへのただ信仰による罪の赦しと永遠の救い、また全てをご存じで一切を公平に裁き評価されるけれども、慈しみに満ちた真の神に喜ばれるように生きることに人の生きる目的があるということは、まさに私の求めに答えるものでした。こうして今日に至っています。

 洗礼を受けてクリスチャンになった後も、以前の人生観や人間観を暫くはなかなか払拭できず、人をも自分をも冷めた目で見る傾向が強かったと思います。しかし、段々空しさというものはなくなりました。人間の、特に私自身の罪深さと不信仰にガッカリして、ため息をつく時はありますが、御子イエス・キリストを十字架につけられたほどに私を愛して下さっている神の計り知れない大きな赦しの愛と憐れみを本当に信じていますから、早く元気になれます。

 それと、どんなに辛いイヤなことや腹立たしいこと、悲しいこと、見通しのつかない心配事、不安なことがありましても、私が心から神を信じ愛しているなら、ローマ8:28「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが益となることを、私たちは知っています」とあります。つまり、今は訳が分からなくても、どんなにイヤなことにも意味があり、しかも最終的には全知全能の神が必ず益として下さると本当に信じていますので、不思議ですが、一方で平安を感じることができます。

 今日は、私個人のことをお話させて頂きました。罪からも空しさからも私たちを根底からお救い下さる主イエス・キリストの尊い福音により、空しさや苦しみの中にある方々に、今は皆様とご一緒にもっともっとお仕えできればと心から願っています。

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