聖書の言葉 私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は何もすることが出来ないのです。 (2017年度版 新改訳聖書)ヨハネによる福音書 15章5節 メッセージ 葡萄の木と枝の譬を通して、今日も神の御子イエスの御声に耳を傾けたいと思います。 前回は、私たちがイエスに留まることで結ばせられる霊の実として、ガラテヤ5:22から、この世が与えることも奪うことも出来ない平安について学びました。 ところで、前回申しましたように、「平安」と訳されている元のギリシア語は「平和」とも訳せます。日本語で平安といいますと、私たちの内面に与えられる安らぎといった面が強く、一方、平和は、神と人、国と国、人と人との間の良い関係といった面が強いように思われます。元のギリシア語には両方の意味があります。そこで今日は、イエスが下さる「平和」という霊の実を心に留めたいと思います。 5節「私は葡萄の木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。」イエスは、ご自分に留まる者に平和という実も結ばせて下さいます。では、それはどういう平和でしょうか。 第一は、天地の創り主なる真(まこと)の神との間の最高の平和です。 私たちが神を無視し、或いは神に敵対し、自分の思い通りに生きている限り、永遠者・絶対者なる真の神との間に平和はありません。それどころか、私たち罪人は神の怒りの下にあります。ローマ1:18に「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されている」とある通りです。私たちに待っているのは、永遠の滅び、永遠の死という悲惨でしかありません。 ところが、何とこんな私たちを神は尚も愛し、御子を宥め(なだめ)の供え物として十字架につけ、私たちにご自分の方から和解の手を差し伸べられました。ローマ5:8は言います。「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」同5:1「私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」 生れながらに惨めな罪人の私たち!けれども、信仰により主イエスに留まるなら、イエスは私たちと神との間に、無限・永遠・不変の、まさしくこの世のどんな平和とも全く比較にならない最高に感謝な神との平和という霊の実を結ばせて下さるのです!何という幸いでしょうか。 第二は、人との間の平和です。 神の愛、それもご自分から和解の手を差し伸べられる程の愛がイエス・キリストを通してあらゆる人に及んでいることを心に覚える時、私たちの心には変化が生じないではおれないのではないでしょうか。例えば、自分にとってどちらかというと嫌いなタイプの人とか、自分の尺度に合わず、面倒で、怒りすら覚えさせられる人に対しても、神が和解の手を差し伸べておられる事実を覚えると、どうでしょうか。私たちの刺々しい、或いは尖った心にもブレーキがかかり、自分のような頑なで愛の乏しい罪人にもイエスによって与えられている神との一方的な感謝に満ちた平和を思いますと、よりマイルドな優しい広い気持に少しずつでも変えられざるを得ないのではないでしょうか。 ご自分に留まる信仰者に、時間はかかっても、こうして人との間にも平和という霊の実をイエスは徐々に結ばせて下さり、ますます父なる神のご性質に似る者にして下さいます。ご自分に留まるそういう信仰者について、イエスはマタイ5:9で言われました。「平和を造る者は幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるからです。」 平和という素晴らしい霊の実に関して、もう一つ、第三に自分との平和があります。 私たち罪人の特徴の一つとして、自分自身と旨く行かず、自分が嫌いで、自分の罪、弱さ、汚れを赦せず、自分を受け入れられないということがあると思います。 無論、その反対に、何であっても自分をOKとする自己肯定型の人というのも、罪人の大きな特徴です。それと比べますと、自分の罪や弱さ、汚れや醜さを悲しみ、赦せず、自分が嫌いで自分を受け入れられないのは、まだましかも知れません。しかし、それもまだ自分を尺度とし自分を基準としている点では、神の御心から少し離れています。 けれども、もし私たちがイエスに留まるなら、イエスは、私たちが自分を量る尺度はもはや自分自身ではなく、ご自分の十字架の愛と赦しを中心とする福音であることをますます分らせて下さいます。こうして私たちは、罪人の自分を受け入れ、自分と和解でき、自分を神の前に大切にして良いという自分との平和を体験することを許されます。実際、パウロはこう言えました。Ⅰコリント4:3「私は自分で自分を裁くことさえしません」と。 イエス・キリストに留まる、すなわち、イエスの愛と御言葉に留まる者には、神との、人との、更には自分との平和という、本当に感謝で幸いな霊の実を結ぶことを許されるのです。この幸いに一層皆で与りたいと思います。 関連する説教を探す 2020年の祈祷会 『ヨハネによる福音書』
葡萄の木と枝の譬を通して、今日も神の御子イエスの御声に耳を傾けたいと思います。
前回は、私たちがイエスに留まることで結ばせられる霊の実として、ガラテヤ5:22から、この世が与えることも奪うことも出来ない平安について学びました。
ところで、前回申しましたように、「平安」と訳されている元のギリシア語は「平和」とも訳せます。日本語で平安といいますと、私たちの内面に与えられる安らぎといった面が強く、一方、平和は、神と人、国と国、人と人との間の良い関係といった面が強いように思われます。元のギリシア語には両方の意味があります。そこで今日は、イエスが下さる「平和」という霊の実を心に留めたいと思います。
5節「私は葡萄の木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。」イエスは、ご自分に留まる者に平和という実も結ばせて下さいます。では、それはどういう平和でしょうか。
第一は、天地の創り主なる真(まこと)の神との間の最高の平和です。
私たちが神を無視し、或いは神に敵対し、自分の思い通りに生きている限り、永遠者・絶対者なる真の神との間に平和はありません。それどころか、私たち罪人は神の怒りの下にあります。ローマ1:18に「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されている」とある通りです。私たちに待っているのは、永遠の滅び、永遠の死という悲惨でしかありません。
ところが、何とこんな私たちを神は尚も愛し、御子を宥め(なだめ)の供え物として十字架につけ、私たちにご自分の方から和解の手を差し伸べられました。ローマ5:8は言います。「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」同5:1「私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
生れながらに惨めな罪人の私たち!けれども、信仰により主イエスに留まるなら、イエスは私たちと神との間に、無限・永遠・不変の、まさしくこの世のどんな平和とも全く比較にならない最高に感謝な神との平和という霊の実を結ばせて下さるのです!何という幸いでしょうか。
第二は、人との間の平和です。
神の愛、それもご自分から和解の手を差し伸べられる程の愛がイエス・キリストを通してあらゆる人に及んでいることを心に覚える時、私たちの心には変化が生じないではおれないのではないでしょうか。例えば、自分にとってどちらかというと嫌いなタイプの人とか、自分の尺度に合わず、面倒で、怒りすら覚えさせられる人に対しても、神が和解の手を差し伸べておられる事実を覚えると、どうでしょうか。私たちの刺々しい、或いは尖った心にもブレーキがかかり、自分のような頑なで愛の乏しい罪人にもイエスによって与えられている神との一方的な感謝に満ちた平和を思いますと、よりマイルドな優しい広い気持に少しずつでも変えられざるを得ないのではないでしょうか。
ご自分に留まる信仰者に、時間はかかっても、こうして人との間にも平和という霊の実をイエスは徐々に結ばせて下さり、ますます父なる神のご性質に似る者にして下さいます。ご自分に留まるそういう信仰者について、イエスはマタイ5:9で言われました。「平和を造る者は幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるからです。」
平和という素晴らしい霊の実に関して、もう一つ、第三に自分との平和があります。
私たち罪人の特徴の一つとして、自分自身と旨く行かず、自分が嫌いで、自分の罪、弱さ、汚れを赦せず、自分を受け入れられないということがあると思います。
無論、その反対に、何であっても自分をOKとする自己肯定型の人というのも、罪人の大きな特徴です。それと比べますと、自分の罪や弱さ、汚れや醜さを悲しみ、赦せず、自分が嫌いで自分を受け入れられないのは、まだましかも知れません。しかし、それもまだ自分を尺度とし自分を基準としている点では、神の御心から少し離れています。
けれども、もし私たちがイエスに留まるなら、イエスは、私たちが自分を量る尺度はもはや自分自身ではなく、ご自分の十字架の愛と赦しを中心とする福音であることをますます分らせて下さいます。こうして私たちは、罪人の自分を受け入れ、自分と和解でき、自分を神の前に大切にして良いという自分との平和を体験することを許されます。実際、パウロはこう言えました。Ⅰコリント4:3「私は自分で自分を裁くことさえしません」と。
イエス・キリストに留まる、すなわち、イエスの愛と御言葉に留まる者には、神との、人との、更には自分との平和という、本当に感謝で幸いな霊の実を結ぶことを許されるのです。この幸いに一層皆で与りたいと思います。