聖書の言葉 3:19 サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、神の言葉を一つも地に落とすことはなかった。サムエル記上 3章19節 メッセージ 「ここに希望がある12 神が共にいて下さる 5」と題して、今日も希望の源であられる神が共にいて下さることを、聖書の中で神が約束され、事実そうであられることを見たいと思います。 前回は創世記5章から信仰者エノク、6、7章からノア、出エジプト記4章からモーセ、またヨシュ記1:5、6から「私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる」というヨシュアへの神の約束に注目しました。 今日まず注目するのは、サムエル記 第一が伝えるサムエルです。 母親のハンナは長い間、子供を与えられず、苦しみました。しかし、神がもし男の子を授けて下さるなら、その子を一生主に献げ、その子の頭に剃刀を当てない、と一生懸命シロの神殿で祈りますと、サムエルを授かりました。 サムエルは成長します。そして神殿で眠っている少年サムエルに神の声が臨む時には、「主よ、お話下さい。僕(しもべ)は聞いております」(サムエル記 第一3:9)と主に答えなさい、と祭司エリがサムエルにアドバイスを与えた話は有名です。 しかし、サムエルについて見落としてはならないのは、神が彼と共にいて下さったことです。サムエル記 第一3:19は言います。「サムエルは成長した。主は彼と共におられ、彼の言葉を一つも地に落とすことはなかった」と。 サムエルの生涯は、ペリシテ人やアンモン人、アマレクと戦い続けたイスラエルと共にあって厳しく、イスラエルの不信仰にも苦労しました。また彼が裁き司として任命した息子たちは、父親の道に歩まず、サムエル記 第一8:3が伝えますように、息子たちは利得を追い求め、賄賂を受け取り、裁きを曲げていました。そこで人々は王を求めました。サムエルはこれを悪としましたが、全てを分っておられる主に従い、彼らの求めに応えました。やがてサウルを王に任職しますが、後にはそれを悔やむことになります。そして次にダビデに油を注いだのでした。 彼の生涯はなかなか厳しいものでした。しかし、サムエル記 第一3:19は「主は彼と共におられ、彼の言葉を一つも地に落とすことはなかった」とハッキリ言います。厳しい生涯でしたが、決して神が共におられないのではなく、彼が口にする言葉を主は全て成就させられました。サムエル自身も、困難な現実の中で、なおも神が共におられることを信じ、そこに希望を置いて最後まで自分の務めに励んだのだと思います。 次はダビデですが、彼の祈りとされる詩篇23から明らかなように、主がどんな時にも彼と共におられることを彼自身体験していたことは既に見ました。ですから、改めてダビデを取り上げることはやめておきます。 次は預言者イザヤです。イザヤ書1:1に「アモツの子イザヤの幻。これは彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである」とありますように、近隣諸国との戦いの続く時代に彼は神からの幻を見、特にユダの王たちに神の言葉を伝えました。 6章によりますと、紀元前740年頃、ウジヤ王が死んだ年にイザヤは神の召しを受けています。高く上げられた御座(みざ)に着いておられる主なる神を見、彼は6:5「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから」と言い、皆と自分自身の罪を覚え、神を恐れました。しかし、幻の中でセラフィムの一人が祭壇の上の火ばさみを取って彼の唇に触れましたので、彼は自分が罪を赦され、清められことを知ります。 その直後、「誰を遣わそうか」という神の召しを受け、彼は6:8「ここに私がおります。私を遣わして下さい」とすぐ答え、頑ななユダの民に神の言葉を告げる働きを務めました。大国バビロンに攻められ、ユダとエルサレムが滅ぼされ、悲惨な目に遭うことも告げなくてはなりませんでした。 旧約時代に信仰によって生きた人たちを伝える中で、新約聖書のヘブル人への手紙11:37は「のこぎりで引かれ」た人物に言及しています。偽典の『イザヤの昇天』は、イザヤがヒゼキヤ王の息子マナセにより、のこぎりで殺されたことを伝えています。真偽のほどはともかく、時代背景を考えますと、イザヤの一生も非常に厳しいものであったことが想像できます。 しかしながら、不信仰なアハズ王にイザヤが語りました7:14「主は自ら、あなた方に一つの徴を与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ぶ」という預言はやはり大切だと思います。これは主イエスにおいてやがて成就します。 インマヌエル!神は我らと共におられる!イザヤも生涯これを覚え、辛い時にも神に希望を置いて神に従い、今、その報いを天の御国で主イエスの御側(みそば)で味わい、主を思いっ切り賛美してことでしょう! 関連する説教を探す 2026年の祈祷会 『サムエル記上』
「ここに希望がある12 神が共にいて下さる 5」と題して、今日も希望の源であられる神が共にいて下さることを、聖書の中で神が約束され、事実そうであられることを見たいと思います。
前回は創世記5章から信仰者エノク、6、7章からノア、出エジプト記4章からモーセ、またヨシュ記1:5、6から「私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる」というヨシュアへの神の約束に注目しました。
今日まず注目するのは、サムエル記 第一が伝えるサムエルです。
母親のハンナは長い間、子供を与えられず、苦しみました。しかし、神がもし男の子を授けて下さるなら、その子を一生主に献げ、その子の頭に剃刀を当てない、と一生懸命シロの神殿で祈りますと、サムエルを授かりました。
サムエルは成長します。そして神殿で眠っている少年サムエルに神の声が臨む時には、「主よ、お話下さい。僕(しもべ)は聞いております」(サムエル記 第一3:9)と主に答えなさい、と祭司エリがサムエルにアドバイスを与えた話は有名です。
しかし、サムエルについて見落としてはならないのは、神が彼と共にいて下さったことです。サムエル記 第一3:19は言います。「サムエルは成長した。主は彼と共におられ、彼の言葉を一つも地に落とすことはなかった」と。
サムエルの生涯は、ペリシテ人やアンモン人、アマレクと戦い続けたイスラエルと共にあって厳しく、イスラエルの不信仰にも苦労しました。また彼が裁き司として任命した息子たちは、父親の道に歩まず、サムエル記 第一8:3が伝えますように、息子たちは利得を追い求め、賄賂を受け取り、裁きを曲げていました。そこで人々は王を求めました。サムエルはこれを悪としましたが、全てを分っておられる主に従い、彼らの求めに応えました。やがてサウルを王に任職しますが、後にはそれを悔やむことになります。そして次にダビデに油を注いだのでした。
彼の生涯はなかなか厳しいものでした。しかし、サムエル記 第一3:19は「主は彼と共におられ、彼の言葉を一つも地に落とすことはなかった」とハッキリ言います。厳しい生涯でしたが、決して神が共におられないのではなく、彼が口にする言葉を主は全て成就させられました。サムエル自身も、困難な現実の中で、なおも神が共におられることを信じ、そこに希望を置いて最後まで自分の務めに励んだのだと思います。
次はダビデですが、彼の祈りとされる詩篇23から明らかなように、主がどんな時にも彼と共におられることを彼自身体験していたことは既に見ました。ですから、改めてダビデを取り上げることはやめておきます。
次は預言者イザヤです。イザヤ書1:1に「アモツの子イザヤの幻。これは彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである」とありますように、近隣諸国との戦いの続く時代に彼は神からの幻を見、特にユダの王たちに神の言葉を伝えました。
6章によりますと、紀元前740年頃、ウジヤ王が死んだ年にイザヤは神の召しを受けています。高く上げられた御座(みざ)に着いておられる主なる神を見、彼は6:5「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから」と言い、皆と自分自身の罪を覚え、神を恐れました。しかし、幻の中でセラフィムの一人が祭壇の上の火ばさみを取って彼の唇に触れましたので、彼は自分が罪を赦され、清められことを知ります。
その直後、「誰を遣わそうか」という神の召しを受け、彼は6:8「ここに私がおります。私を遣わして下さい」とすぐ答え、頑ななユダの民に神の言葉を告げる働きを務めました。大国バビロンに攻められ、ユダとエルサレムが滅ぼされ、悲惨な目に遭うことも告げなくてはなりませんでした。
旧約時代に信仰によって生きた人たちを伝える中で、新約聖書のヘブル人への手紙11:37は「のこぎりで引かれ」た人物に言及しています。偽典の『イザヤの昇天』は、イザヤがヒゼキヤ王の息子マナセにより、のこぎりで殺されたことを伝えています。真偽のほどはともかく、時代背景を考えますと、イザヤの一生も非常に厳しいものであったことが想像できます。
しかしながら、不信仰なアハズ王にイザヤが語りました7:14「主は自ら、あなた方に一つの徴を与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ぶ」という預言はやはり大切だと思います。これは主イエスにおいてやがて成就します。
インマヌエル!神は我らと共におられる!イザヤも生涯これを覚え、辛い時にも神に希望を置いて神に従い、今、その報いを天の御国で主イエスの御側(みそば)で味わい、主を思いっ切り賛美してことでしょう!