2026年05月03日「神への忘恩の罪」

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聖句のアイコン聖書の言葉

21:33 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣根を巡らし、その中に踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。
21:34 収穫の時が近づいたので、主人は自分の収穫を受け取ろうとして、農夫たちのところにしもべたちを遣わした。
21:35 ところが、農夫たちはそのしもべたちを捕えて、一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石打ちにした。
21:36 主人は、前よりも多くの、別のしもべたちを再び遣わしたが、農夫たちは彼らにも同じようにした。
21:37 その後、主人は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした。
21:38 すると農夫たちは、その息子を見て、『あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう』と話し合った。
21:39 そして彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。
21:40 ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょうか。」
21:41 彼らはイエスに言った。「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を収める別の農夫たちに貸すでしょう。」
21:42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。
   『家を建てる者たちが捨てた石、
    それが要の石になった。
    これは主がなさったこと。
    私たちの目には不思議なことだ。』
21:43 ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。
21:44 また、この石の上に落ちる人々は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」
21:45 祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらの譬を聞いた時、自分たちについて話しておられることに気づいた。
21:46 それでイエスをと捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。マタイによる福音書 21章33節~46節

原稿のアイコンメッセージ

 ひと時、聖書から神の声に耳を傾けたいと思います。

 私たち罪人の救い主として、約2千年前、世に来られた神の御子イエスは多くの大切な教えをされました。そこには、人間の罪と不信仰に対する強い警告もあります。今朝は、マタイ福音書21:33以降からその一つに注目致します。

 イエスがエルサレム神殿の中で教えておられますと、23節が伝えましたが、当時のユダヤ教の指導者たちが来て、イエスを咎(とが)めました。イエスは24節以降でそれに答え、更に33節以降でもお答になります。33節をもう一度読みます。「もう一つの譬(たとえ)を聞きなさい。ある家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣根を巡らし、その中に踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。」

 この中で、「主人」は神を指し、「ぶどう園」はイザヤ5:1、2などから分りますように、旧約時代に神の民とされたユダヤ・イスラエル民族を指し、「農夫」は彼らの宗教的指導者を指します。神は、イスラエルの民が天地の造り主なるご自分をよく知り、真実な信仰を持ち、聖く(きよく)生きることを願って、彼らを指導者たちに託されました。後で出て来ますが、「収穫」はイスラエルの民の真実な信仰と聖(きよ)い生活、また神と隣人を愛し、真心(まごころ)から仕える生活と言って良いでしょう。

 さて、主人は34節「収穫の時が近づいたので、…自分の収穫を受け取ろうとして、農夫たちのところにしもべたちを遣わ」しました。すると、35、36節、農夫たちは何と罪深いでしょうか。主人が遣わしたしもべたちとは、神の言葉をイスラエルに伝えた旧約時代の主の預言者たちを指します。彼らはしばしば迫害され、時には殺されました。指導者たちの何と罪深いことでしょうか。時には良い指導者もいましたが、旧約時代の歴史を振り返りますと、良くない人たちが少なくありませんでした。

 譬に戻ります。37節をご覧下さい。最後に、主人は自分の息子なら敬ってくれるだろうと思い、彼らのところに遣わしました。しかし38、39節、農夫たちは主人の息子をも殺します。「息子」とは無論、神の御子イエスを指します。

 39節に「ぶどう園の外に放り出して」とあります。昔、罪の贖いの動物が宿営の外で屠られたように、イエスもエルサレムの城壁の外で殺されます。こうして、神に逆らい、やがてご自分をも殺すユダヤ教指導者たちの罪と不信仰を、イエスは指摘されました。

 ここでイエスが40節のように質問しますと、彼らは41節のように答えました。これは、やがて紀元70年、ローマの将軍ティトゥスの率いるローマ軍により徹底的にエルサレムが滅ぼされることで、彼ら自身の上に実現します。そして、全世界に向って新しい神の民が広がることになります。これは43節でイエスご自身も確認しておられます。

 なお、42節でイエスは旧約聖書の詩篇118:22、23を引用されます。ここに出て来ます「要(かなめ)の石」とは、二つの壁が接合する所を下から支える重要な石を指します。要するに、不信仰な人々の捨てた石であるイエスが、やがて罪の赦しと永遠の命を中心とする最高の特権に与る新しい神の民、すなわち、教会の最も重要な要石(かなめいし)となることをイエスは語られます。これもやがてその通りになりますね。

 更に44節で、天の父なる神が最後に遣わされた御子イエスに対してあまりにも不信仰で頑なな人たちは、悲惨な最後を迎えることをイエスは警告されます。

 45、46節は、説明の必要がないでしょう。ユダヤ教の指導者たちは、真に神を恐れ、神の言葉に従ってイエスを咎めたというのではなく、ただ自分たちの権威を振りかざし、それでいて群衆の顔色を見ながら行動したのでした。こざかしくて、卑怯ですね。また、イエスに自分たちの罪を指摘されても悔い改めず、ただ自分たちの保身に努めたのでした。

 以上、簡単に全体を見ました。

 では、ここから私たちは何を教えられるでしょうか。いくつかあると思いますが、その一つは、罪深い農夫たちに例えられたユダヤ教指導者たちの根底にある神への忘恩の罪と言えるでしょう。

 彼らは魂の指導者として尊い務めを授かり、それに必要な賜物も与えられていました。先祖アブラハムに神が言われたように、真(まこと)の神を知らないでそのまま自分の罪のために滅んでいく全世界の人々に神を証しし、全世界の祝福となるために、イスラエルの民を教え育てる務めは、何と尊いでしょうか。そのために、彼ら指導者たちは幼い時から聖書を中心とする大切な教育を特別に受け、とても恵まれていました。

 ところが、旧約時代を振り返ってもそうなのですが、特に救い主として神がご自分の独り子(ひとりご)イエスを遣わされましたのに、彼らは自分たちの特権に胡坐(あぐら)をかき、それを脅かされまいとしてイエスを邪魔者扱いし、ついには殺したのでした。神への何とひどい忘恩の罪でしょうか。

 イエスは、十字架の死の後、約束通り復活され、弟子たちを人々のところに派遣されたが、ユダヤ教指導者たちと彼らに影響された人たちは、弟子たちをも迫害しました。ですから、彼らはやがて神の裁きを受け、先ほど触れましたように、紀元70年、ローマ軍に徹底的に攻撃され、彼らの誇りであったエルサレム神殿は破壊されました。

 これは他人事(ひとごと)ではないと思います。私たちにも、同じように神への忘恩の罪はないでしょうか。

 実際、私たちも神から様々な尊い物をいっぱい頂いています。空気、水、光、温度、湿度、食べ物、何より命そのものがそうですし、目も耳も口も手も足も、また何か得意なことやお金や家族も、本当は神が下さったものです。いいえ、正しくは、イエスがマタイ福音書21:33で言われましたように、神が暫くの間、「貸して」下さっているものにほかなりません。

 そして、これらは自分のためだけにあるのではありません。神に感謝し、神の御心に従って他の人のためによく用い、特に神の愛と救いの恵みに満ちた目に見えない神の国の進展に用いるためにあります。

 しかし、人間の内に生れつき染みついている罪の力は、何と恐ろしいでしょうか。そのために、真(まこと)の神と救い主イエス・キリストを知ってはいても、神への感謝に疎く(うとく)、時間やお金、体力も、神と隣人、またイエス・キリストの体なる教会のために捧げることには、二の足を踏みやすい。

 無論、私たちは、イエス時代のユダヤ教指導者たちのように、永遠の救い主として世に来られた神の御子イエスを拒み排斥して、ついに神の裁きを受けるような不信仰なことは絶対にしません。そうですよね。けれども、神への忘恩的なところはないだろうかと、自分自身をよく吟味したいと思います。

 むしろ、昔からよく歌われてきました聖歌604番「数えてみよ、主の恵み」の歌詞のように、神が私たちに与え、貸して下さっている様々な恵みを、一つずつ数え上げ、すなわち、列挙し、神を讃えたいと思います。ご承知のように、その一節の歌詞はこうです。

 「望みも消えゆくまでに、世の嵐に悩む時、数えてみよ主の恵み、なが心は安きを得ん。

  数えよ 主の恵み、数えよ 主の恵み、数えよ 一つずつ、数えてみよ主の恵み。」

 考えて見れば、イエスが当時のユダヤ教指導者たちに、譬によって彼らの忘恩的で利己的な罪とそれへの神の厳しい裁きを警告されたのも、彼らの悔い改めを真剣に願ってのものでした。それは私たちに対しても同じです。

 ですから、ヘブル人への手紙4:7が「今日、もし御声(みこえ)を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と言いますように、自分の忘恩の罪を今、直ちに、そして繰り返し悔い改めたいと思います。そして、ただご自分への信仰の故に、私たちのあらゆる罪を赦し、永遠の命を与えるために、死に至るまで天の御父(みちち)に忠実であられた主イエスに、心から、そして何度でも感謝したいと思います。

 更に、私たちに与えられ貸して頂いているものを、神と隣人と教会のために喜んで用いることを、改めて決意したいと思います。

 私たちのこの決意を、どうか、神が喜ばれ、祝福し、私たちを一層励まし、聖(きよ)めて下さいますように!

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