2026年04月30日「イエス・キリストの名によって」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:10 さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。コリントの信徒への手紙一 1章10節

原稿のアイコンメッセージ

 今日の聖書箇所は、パウロがコリントの教会に送った手紙の一節です。1章10節で、パウロがコリントの教会の人々にお願いしています。同じ箇所を、新共同訳聖書では「勧告します」と訳し、公的に、積極的に実践するようにと言っています。

 パウロの願いは、コリントの教会の人々が、「語ることを一つにして」、「仲間割れせず」、「同じ心、同じ考えで一致」することでした。新共同訳聖書では、「勝手なことを言わず」、「仲たがいせず」、「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合」うと表現されています。

 コリントの教会は、1章2節にあるように、「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々」が集っていたはずですが、パウロの願いからもわかるように、「勝手ばかり言い」、「仲が悪く」、「信仰の一致のない」教会生活を送っていた人が一定数いたことが想像されます。

 神様を信じる信徒が集う教会で、「勝手ばかり言い」、「仲が悪く」、「信仰の一致のない」状態は、例えるなら、不協和音で作られた音楽のようです。音楽の専門的知識がない私の知る限りで説明しますと、不協和音は、同時に鳴らす複数の音が、違和感の残る音の組み合わせのことを言います。美しいメロディーの中に、少しだけ不協和音を入れると、音楽にアクセントをつける効果があるのですが、不協和音だけで作られた曲を聞いていると、初めから最後までゾワゾワとして落ち着かない不安定な印象が強く残ります。まさに、この違和感、ゾワゾワとして落ち着かず不安定な印象に等しい状態が、コリントの教会に持ち込まれていた、もしくは、自然発生的に生じたのではないでしょうか。

 パウロが、手紙の冒頭から勧告しているところを鑑みると、初めは軽微な違和感であったかもしれませんが、その違和感は不協和音だけで作られた曲のように、ゾワゾワと落ち着かない不安定さをもたらし、教会が教会ではなくなる状態にまで至ろうとしていた、いわゆる、コリントの教会の危機と言って良い状態だったに違いありません。

 11節にあるように、パウロは、コリントの教会の危機的状況を、クロエという家の人から報告を受けているのですが、コリントの教会を訪れた人が、教会内の違和感を明らかに感じ取れるくらいの状況であり、一刻も早くパウロに伝えるべきだと思わされたからこそ、パウロがコリント人への手紙を書き送ることになったことが想像できます。違和感が始まった時には、何とか取り繕うことはできていたのでしょうが、今や、修繕のできない問題にまで発展していたのではないでしょうか。

 私たちが、これほどまでの教会の危機に直面することはなかなかありませんが、本日の聖書箇所にあるパウロの願いから、皆さんと一緒に教えられたいと思います。

 

 はじめに、パウロの3つの願いから教えられたいと思います。

 1つ目の願いは、「語ることを一つにして」です。新共同訳聖書では、「勝手なことを言わず」と訳されています。教会での主義主張について、勝手なことを言わず、一つのことを語れるようにすることです。聖書解釈、教理について、様々なことを言うのではなく、一致したことが語られ、信徒は共通の認識を持つことが求められます。

 幸い、改革派教会では、創立宣言の中で、旧新両約の聖書を無謬の経典とし、ウェストミンスター信仰基準を聖書において教えられる教理を最も完備したものとして採択することで、どの改革派教会での礼拝でも、御言葉に忠実な説教を聞くことができる恵みがあります。

 

 2つ目の願いは、「仲間割れせず」です。新共同訳では、「仲たがいせず」と訳されています。いわゆる、仲間外れ、仲が悪いという単純なことではなく、1章12節に書かれた具体的な事実からもわかるように、コリントの教会では、分裂、紛争が起きており、教会内での対立が生じていました。12章12節以降では、体の例えにより、分裂のないキリストを中心とした共同体について教えています。キリストを中心とした共同体としての教会で、キリストという葡萄の幹に結びつく枝々である私たちに、一致があることが当然で、分裂や紛争があることが不自然なことです。キリストを中心とした共同体を形作ることができるように、祈り求めることが求められます。

 

 3つ目の願いは、「同じ心、同じ考えで一致」することです。新共同訳聖書では、「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合」うと訳されています。1つ目の願いでは、語ること、教えることが一致していることが求められていましたが、ここでは、心、考えの一致を目指すように語られます。心は、感情や愛などの情緒面のこと、考えは知識や信仰理解などのことを表しますが、1つ目の願いで教えられた一致した教えを通して、御言葉や教理の具体的な実践において、一致を保つ、同じ信仰に固く立つことが求められます。

 

 パウロは、1章2節、9節で、コリントの教会の人々は、「イエス・キリストにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々」であり、「主イエス・キリストとの交わりに入れられた」ことを強調しています。私たちも、コリントの教会の人々と同じく、聖なる者とされ、聖徒としての歩みをなし、キリストとの交わりの中で生かされています。

 しかし、ウェストミンスター信仰告白の「13章 聖化について」の中で、「聖化は、全人に行きわたるけれども、この世にある間は未完成である」ことが示されます。この地上において腐敗の残部が残っている間は、完全聖化はなされないのですが、「キリストの聖化のみたまからくる継続的な力の補給によって、再生の側が勝利を得る」ことで、一歩でも、半歩でも完全聖化に近づくことができるのです。

 「イエス・キリストにあって聖なる者とされ、聖徒として召され」、「主イエス・キリストとの交わりに入れられた」信徒が教会に集っていますが、完全聖化には至っていない状態ですから、いつ何時、私たちの教会もコリントの教会と同じような状態に陥ることがあるかもしれませんし、そのような芽が生じるかもしれません。このような弱さの中にある私たちに向けて、今日の聖書箇所から、教えられたいと思います。

 コリントの教会の問題を収めるパウロの3つの願いが、パウロの思いつきや伝道の経験のような人間的視点からもたらされるのであれば、誰でもできる単なる進言や提案の類になります。そうではなく、「主イエス・キリストの名によって」なされていることが重要になります。

 どのように重要なのかというと、イエス・キリストによる神から出る知恵、問題に対する正しい判断、キリストの聖化の御霊による力によって、コリントの教会の人々が、教会らしさを取り戻せたように、私たちも促されるのです。私たちはキリスト者であっても、罪の影響下の中で生き、腐敗の残る弱い者ですから、普段の日常生活の中にも、クリスチャン同士の交わりの中にも、教会の交わりの中にも、問題がつきものです。

 私たちは、パウロが願ったように、「主イエス・キリストの名によって」、つまり、イエス・キリストの目線に立って、問題を把握し、分析し、何よりも、自らを深く丁寧に顧み、自らに示された弱さ、罪深さの一つひとつを悔い改めることです。そして、私たちには知恵が与えられていますが、その知恵を人間的に用いるのではなく、イエス・キリストの目線に立って用いる時に、正しい判断と解決の道を導き出せるのです。

 私たちが、問題に対峙する時、感情や気持ちを全面に出すのではなく、先ず、静まって祈り、冷静な判断ができるように願い、人間的な目線に立った解決の道を求めるのではなく、「キリストの聖化のみたま」の働きを心から願い求めて、イエス・キリストの目線に立って、歩みたいと思います。

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