聖書の言葉 5:31 また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。 5:32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。 (新改訳聖書2017年度版)マタイによる福音書 5章31節~31節 メッセージ 今朝も神の御子、主イエス・キリストの御声に耳を傾けたいと思います。 5:31、32は27~30節の「姦淫してはならない」の続きですが、離婚という重い内容を扱っていますので、今朝、別個に取り上げることにしました。 一口に離婚といっても、そこには様々な事情があります。安易な議論は避け、神の御言葉・聖書全体から丁寧に学ぶことが大切です。 31節「『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われて」いた、とイエスは言われます。括弧内は旧約聖書の申命記24:1以降を要約したものです。これを男性優位の紀元1世紀頃のユダヤ人男性の多くは「離縁したい時は、離縁状を渡せば良いのだ」と、自分に都合良く解釈していました。この傾向は昔からあり、申命記24章は身勝手な理由で妻を離縁してはならず、離縁するなら、神の前にキチンと道理の通る離縁状を与えなければならない、というのが本来の主旨なのですが、申命記よりずっと後の時代にも、神は「あなたの若い時の妻を裏切ってはならない」とマラキ書2:15で言われた位、男の身勝手さが多く見られました。 実は、マタイ19:3~12、マルコ10:11、12、ルカ16:18にも、離婚に関するイエスと人々とのやり取りが記されています。当時、離婚を軽く見る風潮が多くの男性にあったことが、よく分ります。そういう背景の下、イエスは言われました。32節「しかし、私はあなた方に言います。誰でも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。」要するに、不貞以外は離婚の理由にならず、それで別れても離婚とは言えないということです。こうしてイエスは結婚を大変重んじ、安易な離婚を禁じられるのです。 では、結婚関係を何故イエスはこれ程重んじられるのでしょうか。 第一に、結婚は人間が便宜的に作った制度ではなく、神に起源を持つ神的制度だからです。同じ問題を扱うマタイ19:4、5で、イエスは創世1、2章を示し、「創造者は初めの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それ故、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となるのである』と言われました。だから、彼らはもはや二人ではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」と語られ、結婚が神による神的制度また秩序であることを確認されます。 聖書によりますと、神に起源を持つ重要な制度が三つあります。教会と国家と家庭です。そして最も基本的なものは家庭です。従って、結婚はとても大切です。実際、結婚関係が乱れますと、国は壊れ、結婚と家庭が尊ばれるなら、人は平穏に生活が出来、国も社会も守られます。 特に<地の塩、世の光>として、人々に真の神とイエス・キリストによる救いの福音を証しする使命に生きる教会にとっては、尚更そうです。結婚は神ご自身の定められた制度ですから、誠に尊いのです。 第二に、結婚は私たち個々人を人格的に訓練し、成長させ、祝福します。イエスはマタイ19:5で創世記2:24を引用し、「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となる」と言われました。「父と母を離れ」、従って、人は独立した者となり、自分を治め、責任ある主体的な人格となることが期待されています。 「二人は一体となる」と聖書は言います。生れ育った環境も生活習慣も性格も違い、しかも罪人の二人が一体となるには、双方が自我を砕かれ、尖った所を削られ、足りない所を努力し、双方が補い合ってこそ可能です。砕かれてまろやかになり、相手を思いやり、助け合い、神の栄光を表わすという結婚の目的を繰り返し確認し、愛と芯のある人格へと訓練され、成長するのです。 Ⅰコリント7:28は、「結婚する人たちは、身に苦難を招く」と言います。何しろ罪人同士が一緒になるのですから、当然苦労があります。そこだけを見るなら、独身の方が楽でしょう。しかしその苦労のお蔭で、互いに赦す心や忍耐心を培われ、人格的に成長させられるのです。そうでないと、私たち罪人は何歳になっても我ままで自己中心である可能性が高いのです。 これだけでも結婚の重要性が分りますが、第三に、イエスは先程も申しましたが、5:32で、安易な離婚は姦淫の罪を助長することになると教え、離婚に歯止めをかけられます。 いいえ、単に歯止めではありません。主はこうして、結婚について聖書の御言葉から根本的に教え、考えさせ、結婚における双方の努力を求められます。エペソ5:21以降も夫と妻のあり方を、キリストと教会の関係に例えてまで、双方のあり方を教えます。それ程、結婚関係は神の目に尊いのです。 結婚式は、人生における一つの花かも知れませんが、スタートに過ぎません。夫も妻も常に主イエスを見上げ、絶えず赦し赦され、共に生涯努力してこそ、神に喜ばれる本物の夫婦になっていきます。そしてそこに神の祝福があります。 かつて私は淀川キリスト教病院で多くの方を看取りました。そんな中、さほど仲の良くない夫婦が、最期の日々に心を通わせ、良い終りを迎えられることも結構ありました。「夫婦は、こうやって本物になっていくのだ」と教えられたものです。 ですから、結婚式で新郎・新婦が神と列席者の前で行う誓約の言葉を、既婚者が繰り返し思い出すことはとても大切です。そこで、新郎への言葉を申し上げたいと思います。新婦への言葉は、言葉を一部変えるだけで他は同じです。 ⑴ あなたは、今、この女子を妻にしようとしています。あなたは真心から、この女子を妻とすることを願いますか。⑵ あなたは、この結婚が神の御旨によることと確信しますか。⑶ あなたは、神の教えに従い、清い家庭を作り、夫としての分を果たし、常にあなたの妻を愛し、敬い、慰め、助けて、死が二人を分かつまで、健やかな時も、病む時も、順境にも、逆境にも、常に真実で愛情に満ち、あなたの妻に対して堅く節操を守ることを誓約しますか。 さて、残念ながら私たちの罪と弱さのため、死が二人を分かつ時まで結婚関係が持たず、離婚も多く見られます。それも不貞や姦淫以外の理由での離婚が沢山あります。双方がクリスチャンであっても同じです。一般の統計ですと、男女共に離婚の最大の理由は性格の不一致です。そんなことは当然なのですが、実際に生活すると、生活習慣やものの考え方、価値観の違いなども分り、ズレが生じ、溝が深まり、どちらか、あるいは双方が耐えられず、破綻に至ります。 最近は熟年離婚も増え、特に夫の横暴さに長年耐えてきた妻が、子供が仕上がると、我慢して夫と生活する気持が失せ、自分を取り戻すためにも離婚を切り出すケースが多いそうです。他にも色々な理由で別れざるを得ないことがあります。 念のために確認しておきます。聖書によれば、相手が万一不貞を犯しても、別れなければならないのではありません。旧約聖書のホセア書などなどから、それが分ります。別れても良いだけであり、別れよと聖書は命じていません。相手が心から悔い改めるなら、赦すことが大切です。一体神は、罪を犯しては悔い、悔いてはまた犯す私たちの罪と不信仰にどれだけ忍耐し、キリストの故に何度赦して下さっていることでしょうか。 しかし、それでも離婚が止むを得ない場合もあります。不貞以外にどんな理由なら止むを得ないでしょうか。Ⅰコリント7:15でパウロは言います。「信者でない方の者が離れていくなら、離れて行かせなさい。」つまり、相手が宗教的理由で離れていくなら、仕方がありません。しかし、私たちの側から別れるのではありません。まして直前の12、13節でパウロが言うように、相手が私たちと一緒に生活したいと思っているなら、離婚してはなりません。 別れざるを得ず、あるいは別れた方が良いと思われる場合として、他にはどうでしょうか。双方が、もしくは片方が、また子供も、余りにひどく傷つき不幸になる場合でしょう。 十戒に照らして言いますと、一つはイエスが今朝の箇所の直前のマタイ5:21以降で扱われた十戒の第6戒「殺してはならない」と関係する時です。配偶者やその親などに対し、身体的暴力、また人格を破壊する常習的なひどい侮辱や言葉の暴力のある時です。暴力は大きな問題です。 第7戒に関係する性的な異常や暴力の場合も、考えられます。但し、これは精神的病が絡んでいることがあり、専門家による治療が先かも知れません。 第8戒に関りますが、全然働こうとせず、相手やその親族の物を盗み、経済的に生命を脅かす場合とか、第9戒に関りますが、ひどい嘘、虚言で相手の人格をずたずたに傷つけるようなことが頻繁にあるなら、程度次第では別れた方が良いかも知れません。 ただ、この辺りのことも精神的病が絡んでいることがあり、すぐ離婚云々ではなく、全体が良く分っている人や専門家とまず相談する方が良いでしょう。 以上の基本を踏まえ、どちらかが、また子供も含めて、身体的に、また信仰をも含めた人格が余りにも傷つくことになるなら、総合的に判断し、離婚も止むを得ず、許されるのではないでしょうか。どうか、主が私たちを憐れみ、適切な判断力を与えて下さるように! 様々な点を見てきました。私たちを罪から救い、永遠の命を与え、また私たちを助けるために十字架にかかり復活されたイエス・キリストと聖書によれば、何より夫婦関係を、祈りと愛と忍耐をもって育む努力が双方に必要です。神の前での結婚の誓約、「神の教えに従い、清い家庭を作り、夫や妻としての分を果し、常に自分の妻や夫を愛し、敬い、慰め、助けて、死が二人を分かつまで、健やかな時も、病む時も、順境にも、逆境にも、常に真実で愛情に満ち、妻また夫に対して堅く節操を守ること」を何より大事にしたいと思います。 伝道者の書4:12は「三つ撚りの糸は簡単には切れない」と言います。2本の糸は丈夫ですが、そこにもう1本加わるなら、遥かに強いですね。同じように、夫婦だけでなく、そこに常に主イエス・キリストにいて頂くなら、どんなに守られるでしょう! 関連する説教を探す 2020年の日曜朝の礼拝 『マタイによる福音書』
今朝も神の御子、主イエス・キリストの御声に耳を傾けたいと思います。
5:31、32は27~30節の「姦淫してはならない」の続きですが、離婚という重い内容を扱っていますので、今朝、別個に取り上げることにしました。
一口に離婚といっても、そこには様々な事情があります。安易な議論は避け、神の御言葉・聖書全体から丁寧に学ぶことが大切です。
31節「『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われて」いた、とイエスは言われます。括弧内は旧約聖書の申命記24:1以降を要約したものです。これを男性優位の紀元1世紀頃のユダヤ人男性の多くは「離縁したい時は、離縁状を渡せば良いのだ」と、自分に都合良く解釈していました。この傾向は昔からあり、申命記24章は身勝手な理由で妻を離縁してはならず、離縁するなら、神の前にキチンと道理の通る離縁状を与えなければならない、というのが本来の主旨なのですが、申命記よりずっと後の時代にも、神は「あなたの若い時の妻を裏切ってはならない」とマラキ書2:15で言われた位、男の身勝手さが多く見られました。
実は、マタイ19:3~12、マルコ10:11、12、ルカ16:18にも、離婚に関するイエスと人々とのやり取りが記されています。当時、離婚を軽く見る風潮が多くの男性にあったことが、よく分ります。そういう背景の下、イエスは言われました。32節「しかし、私はあなた方に言います。誰でも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。」要するに、不貞以外は離婚の理由にならず、それで別れても離婚とは言えないということです。こうしてイエスは結婚を大変重んじ、安易な離婚を禁じられるのです。
では、結婚関係を何故イエスはこれ程重んじられるのでしょうか。
第一に、結婚は人間が便宜的に作った制度ではなく、神に起源を持つ神的制度だからです。同じ問題を扱うマタイ19:4、5で、イエスは創世1、2章を示し、「創造者は初めの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それ故、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となるのである』と言われました。だから、彼らはもはや二人ではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」と語られ、結婚が神による神的制度また秩序であることを確認されます。
聖書によりますと、神に起源を持つ重要な制度が三つあります。教会と国家と家庭です。そして最も基本的なものは家庭です。従って、結婚はとても大切です。実際、結婚関係が乱れますと、国は壊れ、結婚と家庭が尊ばれるなら、人は平穏に生活が出来、国も社会も守られます。
特に<地の塩、世の光>として、人々に真の神とイエス・キリストによる救いの福音を証しする使命に生きる教会にとっては、尚更そうです。結婚は神ご自身の定められた制度ですから、誠に尊いのです。
第二に、結婚は私たち個々人を人格的に訓練し、成長させ、祝福します。イエスはマタイ19:5で創世記2:24を引用し、「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となる」と言われました。「父と母を離れ」、従って、人は独立した者となり、自分を治め、責任ある主体的な人格となることが期待されています。
「二人は一体となる」と聖書は言います。生れ育った環境も生活習慣も性格も違い、しかも罪人の二人が一体となるには、双方が自我を砕かれ、尖った所を削られ、足りない所を努力し、双方が補い合ってこそ可能です。砕かれてまろやかになり、相手を思いやり、助け合い、神の栄光を表わすという結婚の目的を繰り返し確認し、愛と芯のある人格へと訓練され、成長するのです。
Ⅰコリント7:28は、「結婚する人たちは、身に苦難を招く」と言います。何しろ罪人同士が一緒になるのですから、当然苦労があります。そこだけを見るなら、独身の方が楽でしょう。しかしその苦労のお蔭で、互いに赦す心や忍耐心を培われ、人格的に成長させられるのです。そうでないと、私たち罪人は何歳になっても我ままで自己中心である可能性が高いのです。
これだけでも結婚の重要性が分りますが、第三に、イエスは先程も申しましたが、5:32で、安易な離婚は姦淫の罪を助長することになると教え、離婚に歯止めをかけられます。
いいえ、単に歯止めではありません。主はこうして、結婚について聖書の御言葉から根本的に教え、考えさせ、結婚における双方の努力を求められます。エペソ5:21以降も夫と妻のあり方を、キリストと教会の関係に例えてまで、双方のあり方を教えます。それ程、結婚関係は神の目に尊いのです。
結婚式は、人生における一つの花かも知れませんが、スタートに過ぎません。夫も妻も常に主イエスを見上げ、絶えず赦し赦され、共に生涯努力してこそ、神に喜ばれる本物の夫婦になっていきます。そしてそこに神の祝福があります。
かつて私は淀川キリスト教病院で多くの方を看取りました。そんな中、さほど仲の良くない夫婦が、最期の日々に心を通わせ、良い終りを迎えられることも結構ありました。「夫婦は、こうやって本物になっていくのだ」と教えられたものです。
ですから、結婚式で新郎・新婦が神と列席者の前で行う誓約の言葉を、既婚者が繰り返し思い出すことはとても大切です。そこで、新郎への言葉を申し上げたいと思います。新婦への言葉は、言葉を一部変えるだけで他は同じです。
⑴ あなたは、今、この女子を妻にしようとしています。あなたは真心から、この女子を妻とすることを願いますか。⑵ あなたは、この結婚が神の御旨によることと確信しますか。⑶ あなたは、神の教えに従い、清い家庭を作り、夫としての分を果たし、常にあなたの妻を愛し、敬い、慰め、助けて、死が二人を分かつまで、健やかな時も、病む時も、順境にも、逆境にも、常に真実で愛情に満ち、あなたの妻に対して堅く節操を守ることを誓約しますか。
さて、残念ながら私たちの罪と弱さのため、死が二人を分かつ時まで結婚関係が持たず、離婚も多く見られます。それも不貞や姦淫以外の理由での離婚が沢山あります。双方がクリスチャンであっても同じです。一般の統計ですと、男女共に離婚の最大の理由は性格の不一致です。そんなことは当然なのですが、実際に生活すると、生活習慣やものの考え方、価値観の違いなども分り、ズレが生じ、溝が深まり、どちらか、あるいは双方が耐えられず、破綻に至ります。
最近は熟年離婚も増え、特に夫の横暴さに長年耐えてきた妻が、子供が仕上がると、我慢して夫と生活する気持が失せ、自分を取り戻すためにも離婚を切り出すケースが多いそうです。他にも色々な理由で別れざるを得ないことがあります。
念のために確認しておきます。聖書によれば、相手が万一不貞を犯しても、別れなければならないのではありません。旧約聖書のホセア書などなどから、それが分ります。別れても良いだけであり、別れよと聖書は命じていません。相手が心から悔い改めるなら、赦すことが大切です。一体神は、罪を犯しては悔い、悔いてはまた犯す私たちの罪と不信仰にどれだけ忍耐し、キリストの故に何度赦して下さっていることでしょうか。
しかし、それでも離婚が止むを得ない場合もあります。不貞以外にどんな理由なら止むを得ないでしょうか。Ⅰコリント7:15でパウロは言います。「信者でない方の者が離れていくなら、離れて行かせなさい。」つまり、相手が宗教的理由で離れていくなら、仕方がありません。しかし、私たちの側から別れるのではありません。まして直前の12、13節でパウロが言うように、相手が私たちと一緒に生活したいと思っているなら、離婚してはなりません。
別れざるを得ず、あるいは別れた方が良いと思われる場合として、他にはどうでしょうか。双方が、もしくは片方が、また子供も、余りにひどく傷つき不幸になる場合でしょう。
十戒に照らして言いますと、一つはイエスが今朝の箇所の直前のマタイ5:21以降で扱われた十戒の第6戒「殺してはならない」と関係する時です。配偶者やその親などに対し、身体的暴力、また人格を破壊する常習的なひどい侮辱や言葉の暴力のある時です。暴力は大きな問題です。
第7戒に関係する性的な異常や暴力の場合も、考えられます。但し、これは精神的病が絡んでいることがあり、専門家による治療が先かも知れません。
第8戒に関りますが、全然働こうとせず、相手やその親族の物を盗み、経済的に生命を脅かす場合とか、第9戒に関りますが、ひどい嘘、虚言で相手の人格をずたずたに傷つけるようなことが頻繁にあるなら、程度次第では別れた方が良いかも知れません。
ただ、この辺りのことも精神的病が絡んでいることがあり、すぐ離婚云々ではなく、全体が良く分っている人や専門家とまず相談する方が良いでしょう。
以上の基本を踏まえ、どちらかが、また子供も含めて、身体的に、また信仰をも含めた人格が余りにも傷つくことになるなら、総合的に判断し、離婚も止むを得ず、許されるのではないでしょうか。どうか、主が私たちを憐れみ、適切な判断力を与えて下さるように!
様々な点を見てきました。私たちを罪から救い、永遠の命を与え、また私たちを助けるために十字架にかかり復活されたイエス・キリストと聖書によれば、何より夫婦関係を、祈りと愛と忍耐をもって育む努力が双方に必要です。神の前での結婚の誓約、「神の教えに従い、清い家庭を作り、夫や妻としての分を果し、常に自分の妻や夫を愛し、敬い、慰め、助けて、死が二人を分かつまで、健やかな時も、病む時も、順境にも、逆境にも、常に真実で愛情に満ち、妻また夫に対して堅く節操を守ること」を何より大事にしたいと思います。
伝道者の書4:12は「三つ撚りの糸は簡単には切れない」と言います。2本の糸は丈夫ですが、そこにもう1本加わるなら、遥かに強いですね。同じように、夫婦だけでなく、そこに常に主イエス・キリストにいて頂くなら、どんなに守られるでしょう!