2026年03月01日「神殿をきよめるイエス」
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神殿をきよめるイエス
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- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 21章12節~17節
聖書の言葉
21:12 それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いをしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
21:13 そして彼らに言われた。「『私の家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、お前たちはそれを『強盗の巣』にしている。」
21:14 また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒された。
21:15 ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさった色々な驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、
21:16 イエスに言った。『子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。』イエスは言われた。『聞いています。
<幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました>
とあるのを、あなた方は読んだことがないのですか。」
21:17 イエスは彼らを後に残し、都を出てベタニアに行き、そこに泊まられた。マタイによる福音書 21章12節~17節
メッセージ
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マタイの福音書は、21章から、神の御子イエスが私たちの罪を背負い、エルサレムで十字架にかかられ、命を捧げられた最後の一週間を伝えます。特に11~13節は、不信仰なことが平然と行われていたエルサレム神殿でイエスがそれらを強く阻止されたことを伝えています。これは昔から「イエスの宮きよめ」と呼ばれて来ました。
少し状況を見ておきます。日曜日にイエスはろばの子に乗ってエルサレムへ入られ、並行箇所のマルコ福音書の11章によりますと、神殿の中を見て回った後、夕方、東へ約3km離れたベタニアへ弟子たちと一緒に戻られ、翌日、再びエルサレムへ来られました。マタイ福音書21:12以降は、その日のことを伝えています。
12節を読みます。「イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちを皆追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒された。」
「宮」とは、エルサレム神殿の中の「異邦人の庭」と呼ばれた所であり、異邦人信者たちも礼拝するために入れました。イエスはそこで両替人の台や鳩を売る者たちの腰掛を倒されたのでした。
両替は、世界各地から礼拝のためにやって来た異邦人信者たちが神殿税を納めるためのものであり、イスラエルの通貨で、一人当り、半シェケルでした(出エジプト記30:11以降参照)。イスラエルの通貨を持っていなかった彼らには助かりました。
また捧げられる鳩には傷があってはならず、その検査が非常に面倒なものでしたので、人々は検査済の鳩をここで買いました。この店は大祭司の家族が経営し、多くの利益を得ていたそうです。
こうしてみますと、両替や鳩の売買は、外国からの異邦人信者たちを初め、多くの人に便利だったのですが、当然ここは非常に騒がしく、しかも利益絡みのことが平然と行なわれ、静まって礼拝するには、ほど遠い環境にありました。ですから、イエスは「売り買いしている者たちを皆追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒」す、という厳しい行動に出られたのでした。
前回の1~11節で、私たちは主イエスが柔和な救い主であられることを学びました。しかし、今朝の聖書箇所では、イエスの大変厳しい姿勢が見られます。少し戸惑いを覚えないでしょうか。
しかし、これは矛盾ではありません。神を真に恐れ、自分の罪を心底悲しむ打ちひしがれた者や弱い者に、主はどこまでも憐み深い柔和な救い主です。しかし、神への恐れを忘れ、不信仰なことを平然と行い、無神経に行動する者たちには、イエスは神の正しさ、神の清さをもって厳しく臨まれます。ここに私たちは、イエスご自身による宗教改革の一端を教えられると言えるでしょう。
改革派と呼ばれる教会は日本にも世界にも沢山ありますが、時々、改革が革命と誤解され、過激で怖い教会と思われることが今もあります。しかし、革命ではなく、あくまで改革であり、16世紀から17世紀にあったヨーロッパの宗教改革の信仰を受け継ぐものに外なりません。宗教改革は、ご承知のように旧約時代にも何度かあり、何より主イエスご自身によって行われたことを心に留め、人間の罪の故に、絶えず聖書による改革が教会と私たち一人一人に必要なことを、是非、改めてしっかり心に留めたいと思います。
では、このイエスの宮きよめの出来事から、私たちはどういうことを教えられるでしょうか。この出来事は、マルコ福音書やルカ福音書も伝えていますが、今朝はマタイが伝えていることから三つばかり学びたいと思います。
第一点は、神礼拝を中心とする教会は、常に神を心から仰ぎ、神と向き合う真実な祈りを中心とすべきであるということです。
イエスは言われます。13節「『私の家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、お前たちはそれを『強盗の巣』にしている。」
最初の括弧内の言葉は、旧約聖書のイザヤ書56:7からの、また後のものはエレミヤ書7:11からの引用です。真(まこと)の神を信じる昔のユダヤ・イスラエル民族にも、旧約時代から、こういうことが預言者たちによって言われなければならない不信仰な現実があったのでした。
大切なことは、神礼拝を中心とする教会は、常に神を心から仰ぎ、神と向き合う真実な祈りを中心とすべきだという点です。無論、今ここで言う祈りとは、ただ目と口を閉じ、手を組むなどの祈りの姿勢のことではありません。今、不必要なことは自分の心の中から追い出し、心を天の父なる神とその右におられるイエス・キリストにシッカリ向け、私たちをご覧になる神の眼差しを覚えることが大切です。礼拝前、礼拝中、礼拝後も、神に心を向けることを、決して忘れないでいたいと思います。
参考のために、日本キリスト改革派教会の礼拝指針を少し読みます。
第15条(礼拝前の祈祷) 礼拝する者は、会堂では、敬虔な態度で席に着き、黙祷をもって自分自身・牧師・礼拝奉仕者・全ての出席者・また欠席者のために祈って備えをする。
第16条(礼拝出席の態度) 公的礼拝に出席する者は、神のみ前に相応しい態度で臨み、畏敬の念をもって礼拝に与るようにする。
ある高齢のクリスチャンの女性は、説教中は目を閉じ、体をやや前屈みにし、「他のことは今、全て自分の意識から追い出し、神の御声を聞く」という見事な祈りの姿勢で過ごされました。
とにかく、教会では常に神を覚え、学びや奉仕や交わりをする時にも、祈りの心を忘れないでいたいと思います。
二つ目に進みます。神礼拝を中心とする教会は、常に皆の心と魂の癒しの場でありたいということです。
商売人たちをイエスが追い出された宮浄めの後、マタイは21:14で「宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちが御許に来たので、イエスは彼らを癒された」と伝えます。ここに、教会の大切な役割を改めて教えられると思います。
無論、私たちは主イエスと同じように、身体的癒しをすることはできません。しかし礼拝を中心とする教会において、主イエスが御言葉と御霊により、皆の心と魂の癒しをされることに私たちが役立たせて頂けるなら、何と感謝なことでしょうか。
辛い日々を余儀なくされていた人たちをイエスが宮の中で癒されたことは、示唆に富んでいると思います。実際、教会には絶えず色々な状態の人たちが来られます。順風満帆そうに見えていても、本当は大変辛い状態にあり、陰で涙を流し、苦しみに耐え、辛うじて教会と礼拝に来られる方もあります。
ですから、他者への配慮や思いやりが何と大切でしょうか。私たちの、例えば、ちょっとした慰めの言葉や温かい笑顔、時には手を握り、優しくそっとハグすることを通して、他の兄弟姉妹たちや子供たちの心と魂が、主イエスによって励まされ、少しでも癒されるなら、主はどんなに喜ばれることでしょう!
最後、三つ目は主をたたえる賛美の大切さです。
15、16節で、マタイは、子供たちがイエスを賛美することに対して祭司長たちや律法学者たちが難癖(なんくせ)をつけ、しかし、イエスが旧約聖書の詩篇8:2を引用して彼らに反論されたことを伝えています。
子供たちは、論理や理屈ではなく、親に教えられた素朴な信仰と素直な感性により、イエスのなさることや教えの正しさを見て取り、イエスを賛美したのでした。イエスはこれをとても喜ばれました!
大切なことは、神礼拝の場である教会には、常に子供たちをも含めた賛美の声が満ちていることです。これは、いつの時代、どの場所にあっても、同じですね。
それと、賛美に関わることとして、賛美歌の大切さをも思います。賛美歌は教会の単なる音楽的部分なのではありません。賛美歌は根本的には祈りなのです。教会の長い歴史の中で捧げられて来た大切な祈りの言葉に、音楽・メロディを付けたものが賛美歌なのです。ですから、根本は祈りです。
教会は13節から分りますように、「祈りの家」です。ということは、教会は、賛美歌も含めてまさに「賛美の家」と言っても良いでしょう。
興味深いことに、主イエスが十字架の死から復活された後、主のお約束通り、聖霊が天から教会に降られた(くだられた)ペンテコステのあとの初代教会の様子を、パウロの弟子であった医者ルカが新約聖書の使徒の働き2:46、47で生き生きとレポートしていますので、読んでおきます。信者たちは「毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにして下さった。」
イエスの宮きよめという改革の理由、また礼拝を中心とする教会にとって大切な三つのこと、すなわち、真実な祈り、心と魂の癒し、また子供たちをも含めた賛美の声が満ち、そうしてマタイ福音書18:20で「二人か三人が私の名において集まっているところには、私もその中にいるのです」とお約束下さっている主イエスの臨在を生き生きと覚えられる教会を、皆でますます目指したいと思います。