聖書の言葉 私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は何もすることが出来ないのです。 (2017年度版 新改訳聖書)ヨハネによる福音書 15章5節 メッセージ 神の御子イエス・キリストの語られた葡萄の木と枝の譬から続けて学んでいます。葡萄の枝が木に留まっているなら実を結ぶように、私たちも信仰と生活においてイエスに堅く留まっているなら、必ず実を結ばせられる。これが主の約束です。 それで、その実ですが、永遠の命について、またガラテヤ5:22、23の「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御言葉(みことば)から、愛と喜びについて学びました。今日は三つ目の「平安」という霊の実に注目したいと思います。 新共同訳聖書や共同訳聖書では、「平安」は「平和」と訳されています。平和は、どちらかというと、神と人、人と人との間の外面に現れる良い関係のように思われますが、元のギリシア語エイレーネーには、人の内面的な良い状態を指す平安の意味もあります。ここでも両方を意味します。ヘブル語では、シャーロームという言葉に相当します。 いずれにせよ、これはイエスへの信仰により罪の赦しと永遠の命に与り、神の無限の愛を知ることから来るものです。そしてこれは、喜びの時もそうでしたが、イエスご自身が持っておられる平安に私たちも与(あずか)らせて頂くというものです。十字架に付けられる前夜、何となく不安がる弟子たちにイエスはこう言われました。ヨハネ14:27「私はあなた方に平安を残します。私の平安を与えます。私は、世が与えるのと同じようには与えません。あなた方は心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」 感謝なことに、イエスの弟子とされたクリスチャンは、神の独り子また真(まこと)の人でもあられる主イエスご自身がお持ちの平安、従って、この世が与えることも奪い取ることも出来ない主の平安を分け与えられ、主の平安に与ることを許されているのです。これ以上の平和、平安があるでしょうか! そしてこれは特にⅠコリント15:26が言うように、人間にとって最後の敵である死が、それも永遠の死が、イエスの十字架と復活により永遠に滅ぼされてしまったことから来るものです。罪と死、そしてサタンに勝利されたイエス・キリストに私たちが堅く留まり結びついているなら、主はご自分の持っておられる深い絶対的な平安を必ず私たちの内に与えて下さる!何という幸いでしょう! 前に一度ご紹介しましたが、福岡県の栄光病院のホスピスでの話をもう一度ご紹介させて頂きたいと思います。 20年以上前のことです。ホスピス病棟勤務になったばかりの若い看護師が、43歳の一人の婦人に「生れ変ったら、どうなりたいですか」と尋ねました。その婦人は微笑んで「同じ人生でいいです」と答えたといいます。「同じ人生でいい」とは、人並みに喜びと悲しみの人生を歩み、43歳の若さで世を去ってもいいということです。何が彼女にこう言わせ得たのでしょうか。 入院して4日目、担当医から病状を告知された彼女は、その日の日記にこう書きました。「夕方、妹二人と共に先生のお話を聞く。去年9月、手術した時点で、私の病気のことは分っていたとのこと。妹たちが隠しておくのは辛かったろうに、と思う。 不思議なことに、死ぬのはイヤだとか、死にたくないという気持は全くない。思い残していることがないからだと思う。それと神様が一番良いようにして下さるという確信。良いことしかなさらない神様ならば、何も心配することも、悩むことも必要なしです。今とても落ち着いているのを、自分でも嬉しく思います。良い病院に入れて下さった神様に、お世話下さった方々に感謝します。」彼女の気持はその後も変りません。 入院して10日。痛みの抑制された彼女は、身辺整理のために家に帰りました。日記には次のように書かれていました。「あとはもう何もすることはありません。今朝は別府湾の朝焼けがきれいで、暫くすると雪!雪景色!海に落ちる雪まで神様が見せて下さいました。本当に素晴らしい2日間でした。妹たちもお父さんも良くしてくれて、私は本当に幸せです。神様、ありがとうございます。」 生れ変っても「同じ人生でいいです」と笑って語った彼女は、数日後の1998年4月13日、つまり、その年のイースターの翌朝、平安の内に天に召されました。イエスがご自分に留まっている者に平安という実を結んで下さることを、鮮やかに知らされます。 イエスは言われます。ヨハネ福音書14:27「私はあなた方に平安を残します。私の平安を与えます。私は、世が与えるのと同じようには与えません。あなた方は心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」 永遠の救い主、御子イエスを信じ、イエスに堅く留まり、愛、喜びに加え、平安という霊の実を私たちの内に豊かに結ばせられ、ますます主を誉め称え賛美し、また神のご栄光と多くの隣人の救いのために、私たちが一層豊かに用いられますように! 関連する説教を探す 2020年の祈祷会 『ヨハネによる福音書』
神の御子イエス・キリストの語られた葡萄の木と枝の譬から続けて学んでいます。葡萄の枝が木に留まっているなら実を結ぶように、私たちも信仰と生活においてイエスに堅く留まっているなら、必ず実を結ばせられる。これが主の約束です。
それで、その実ですが、永遠の命について、またガラテヤ5:22、23の「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御言葉(みことば)から、愛と喜びについて学びました。今日は三つ目の「平安」という霊の実に注目したいと思います。
新共同訳聖書や共同訳聖書では、「平安」は「平和」と訳されています。平和は、どちらかというと、神と人、人と人との間の外面に現れる良い関係のように思われますが、元のギリシア語エイレーネーには、人の内面的な良い状態を指す平安の意味もあります。ここでも両方を意味します。ヘブル語では、シャーロームという言葉に相当します。
いずれにせよ、これはイエスへの信仰により罪の赦しと永遠の命に与り、神の無限の愛を知ることから来るものです。そしてこれは、喜びの時もそうでしたが、イエスご自身が持っておられる平安に私たちも与(あずか)らせて頂くというものです。十字架に付けられる前夜、何となく不安がる弟子たちにイエスはこう言われました。ヨハネ14:27「私はあなた方に平安を残します。私の平安を与えます。私は、世が与えるのと同じようには与えません。あなた方は心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」
感謝なことに、イエスの弟子とされたクリスチャンは、神の独り子また真(まこと)の人でもあられる主イエスご自身がお持ちの平安、従って、この世が与えることも奪い取ることも出来ない主の平安を分け与えられ、主の平安に与ることを許されているのです。これ以上の平和、平安があるでしょうか!
そしてこれは特にⅠコリント15:26が言うように、人間にとって最後の敵である死が、それも永遠の死が、イエスの十字架と復活により永遠に滅ぼされてしまったことから来るものです。罪と死、そしてサタンに勝利されたイエス・キリストに私たちが堅く留まり結びついているなら、主はご自分の持っておられる深い絶対的な平安を必ず私たちの内に与えて下さる!何という幸いでしょう!
前に一度ご紹介しましたが、福岡県の栄光病院のホスピスでの話をもう一度ご紹介させて頂きたいと思います。
20年以上前のことです。ホスピス病棟勤務になったばかりの若い看護師が、43歳の一人の婦人に「生れ変ったら、どうなりたいですか」と尋ねました。その婦人は微笑んで「同じ人生でいいです」と答えたといいます。「同じ人生でいい」とは、人並みに喜びと悲しみの人生を歩み、43歳の若さで世を去ってもいいということです。何が彼女にこう言わせ得たのでしょうか。
入院して4日目、担当医から病状を告知された彼女は、その日の日記にこう書きました。「夕方、妹二人と共に先生のお話を聞く。去年9月、手術した時点で、私の病気のことは分っていたとのこと。妹たちが隠しておくのは辛かったろうに、と思う。
不思議なことに、死ぬのはイヤだとか、死にたくないという気持は全くない。思い残していることがないからだと思う。それと神様が一番良いようにして下さるという確信。良いことしかなさらない神様ならば、何も心配することも、悩むことも必要なしです。今とても落ち着いているのを、自分でも嬉しく思います。良い病院に入れて下さった神様に、お世話下さった方々に感謝します。」彼女の気持はその後も変りません。
入院して10日。痛みの抑制された彼女は、身辺整理のために家に帰りました。日記には次のように書かれていました。「あとはもう何もすることはありません。今朝は別府湾の朝焼けがきれいで、暫くすると雪!雪景色!海に落ちる雪まで神様が見せて下さいました。本当に素晴らしい2日間でした。妹たちもお父さんも良くしてくれて、私は本当に幸せです。神様、ありがとうございます。」
生れ変っても「同じ人生でいいです」と笑って語った彼女は、数日後の1998年4月13日、つまり、その年のイースターの翌朝、平安の内に天に召されました。イエスがご自分に留まっている者に平安という実を結んで下さることを、鮮やかに知らされます。
イエスは言われます。ヨハネ福音書14:27「私はあなた方に平安を残します。私の平安を与えます。私は、世が与えるのと同じようには与えません。あなた方は心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」
永遠の救い主、御子イエスを信じ、イエスに堅く留まり、愛、喜びに加え、平安という霊の実を私たちの内に豊かに結ばせられ、ますます主を誉め称え賛美し、また神のご栄光と多くの隣人の救いのために、私たちが一層豊かに用いられますように!