2020年05月17日「平和をつくる者は幸いです」
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平和をつくる者は幸いです
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- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章1節~10節
聖書の言葉
新改訳聖書 2017年度版
5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
マタイによる福音書 5章1節~10節
メッセージ
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イエスは、3~10節で幸いな真(まこと)のクリスチャンの特徴を8つ描かれます。今朝は7つ目の5:9「平和を造る者は幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるからです」を見ます。
まず、「平和を造る」ことが如何に尊いかをハッキリ覚えたいと思います。
聖書の言う平和は、国と国、人と人が、互いに理解し、支え合い、そうして一人一人が創り主なる神の前でその人らしく完成される上で大変重要なものです。健康な人も病の人も、障碍のある人もない人も、夫々の幸せと全体の益のためにその命と存在を守られ、最終的には神に喜ばれる者へと自分を完成することの出来る環境と条件です。従って、平和は誰もが意識的に貢献すべきことと言えます。
平和がどんなに尊いかは、これが失われている状態を考えると、よく分ります。国と国、職場、家庭、友人、諸々の人間関係に至るまで、平和のない状態が人間をどれ程不幸にするかは明白です。かつて学生の身で戦争に出ることを強いられた青年たちの遺言集、『聞け、わだつみの声』という本には、若い命を無理矢理もぎ取られていく無念さ、悔しさの声が多く見られます。当然でしょう。戦争は残酷です。生きたくても生きられず、ただ敵国の人間というだけで、見も知らない人を殺さなければならない。何と残酷でしょうか。
戦争だけではありません。家庭内の諍い(いさかい)や不和により、特に幼い子供はそれに耐えられる年齢になる前に傷つき、大らかな成長を妨げられやすく、そのまま思春期を迎えて大人になるなら、何と不幸でしょう。
無論、仲の悪い当人たちも不幸です。誰かと仲違いしますと、私たちの心は荒れ、小さなことにも過剰に反応し、喜びや感謝が生れにくく、私たちの魂の健全な営みと成長が阻まれ、体にも影響が出ます。争いや不和のあることは、とても不幸なのです。このことを私たちは十分認識しなければなりません。
人間は何故いつもこうなのでしょうか。聖書はその根本原因をはっきり指摘します。人間には皆、生れながらに腐敗した罪の性質があるからです。イエスは言われます。「人から出てくるもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、妬み、罵り、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚す」と(マルコ7:20~23)。ですから、心が変らない限り、どんなに立派な法律や制度を作っても、根本的解決にはなりません。汚染された川の途中に大量の薬品を投入しても根本的解決にはならず、汚染源を絶たなければ意味がないのと同様、私たちの自己中心の心が変らない限り、平和は造れません。ですから、何よりまず自分自身の心を見つめることが大切です。
では、平和を造る人はどんな人でしょうか。
根本的な点から言いますと、第一に、自分も人も、何より神との関係が修復されなければならないと真剣に考える人です。特に、すぐ自分のことを考え、自分を基準に物事を考える自己中心の罪から、自分が清められなければならないと、心底思う人です。
自分についてひどく過敏で、自分を守るだけでは、平和は造れません。この点で私たちは皆弱いですね。平和を造る人は、自分も人も、主イエスの十字架によって罪を赦され、まず神との間に平和が回復され、罪から解放されなければならないと、真剣に思う人です。
第二に、平和を造る努力を自分がするのは、それにより自分が優位に立ち、得をするからというような計算からではなく、私たち皆の幸いを、イエス・キリストにより造ろうとしておられる父なる神の愛の故であることを、明確に自覚している人です。
第三に、一生懸命努力をしますが、真(しん)の平和は、人間の力では造れないことも知っており、最終的にはイザヤ26:12の御言葉のように、「主よ、あなたは、私たちのために平和を備えて下さいます。まことに、私たちの全ての業も、あなたが私たちのためになさったことです」と、心から神を仰ぎ、信じ、祈る人です。
具体的にはどうでしょうか。聖書から身近な点を学びたいと思います。
平和を造る人は、第一に口を慎む人です。ヤコブ1:19は言います。「人は誰でも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」
心に思ったことは何でも口にし、誰かについて知っていることは他の人に喋らずにはおれないという人がいます。正直かも知れませんが、こういう人はつい人を傷つけ、諍いを引き越します。自分の口を制御することは、とても大切です。何でもすぐ喋らず、特に不和の元になることは、知っていても喋らない。平和を造る人は、自分の口を慎み、語るのに遅い人です。詩篇141:3のように、「主よ、私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守って下さい」と祈る人です。
第二に、同じくヤコブ1:19が言うように「怒るのに遅」い人です。怒りやすい人は、他に優れた点が色々あっても、平和を造ることには向いていません。平和を造る人は、イエスが言われるように、「柔和」な人(マタイ5:5)です。従って、それは温かい優しい笑顔と感謝の多い人と言えるでしょう。
第三に、人をすぐ裁かない人です。やたら人のことに干渉しては欠点を見つけ、すぐ人を裁く癖のある人もいます。それでは平和は造れません。イエスは言われます。マタイ7:1「裁いてはいけません。自分が裁かれないためです。」
第四に、よく考える人です。ヤコブ1:19は「聞くのに早く、語るのに遅く」と言います。言い換えますと、よく考えよ、ということでもあります。あの人は何故ああなのか、どういう成育歴があるのか、神の御心はどうなのかと、福音の光の下で冷静によく考える人です。
第五に、自分のことは後にし、犠牲を払ってでも平和を造ろうとする人です。誰かと自分との間で何か不和が生じた場合、相手に非があってもなくても、まず自分から仲直りせよと、イエスはマタイ5:23以降で言われます。相手が悪い時、私たちはつい、まず相手が謝るべきだと主張します。が、イエスは「不和を感じているあなたから仲直りしなさい」と言われます。
考えてみれば、神に背を向け敵対していた私たち罪人に、神はご自分の方から御子イエスを遣わされ、十字架につけてまで和解の手を差し出されました。神にそんな義務は全くありません!しかし、神はそれをなさいました!何という神の愛でしょう!ですから、神に罪を赦された私たちクリスチャンも、自分からそうせよ、とイエスは言われます。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈」るのです(マタイ5:44)。ローマ12:20も言います。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。」
そこで、最後の点を見ます。イエスは、こういう信仰者こそ幸いだと言われます。9節「その人たちは神の子供と呼ばれるからです」と。
クリスチャンは、イエスを信じ、洗礼を受けた時、既に神の子という身分を頂いています。とすると、ここはどういう意味でしょうか。私たちが実質的にも神の子と呼ばれる者にされ、神がますます私たちをご自分の子と呼んで下さるということです。
神の最も麗しい性質は、不信仰な私たちが日々自己中心の罪を犯しているのに、自らイエスの十字架の血によって私たちと和解し、ご自分との平和を造って下さった驚くべき愛に表されています。ですから、平和を造り出す人は、正(まさ)に神の子と呼ばれるに相応しいのです。
私たちは神について色々なイメージを抱いていると思います。裁きの神、絶対者なる神!それらは皆正しいものです。しかし、他にも聖書で表されているものがあります。何でしょう。平和の神です。イザヤ9:6はキリストを「平和の君」と呼びます。ローマ15:33は「平和の神が、あなた全てと共にいて下さいますように」と言い、Ⅰテサロニケは5:23「平和の神御自身が、あなた方を完全に聖なる者として下さいますように」とあります。
神は、御子イエスの十字架の血によって自ら平和を造り、それを私たちに差し出し、更に私たちがそれを他の人との間に造ることを、強く願っておられる平和の神なのです。ですから、自ら犠牲を払ってでも「平和を造る者」は、正に(まさに)神に似る人なのです。この世にあっても、神はそういう人をいよいよ御自分の子と呼ばれ、世の終りにはハッキリ公にそれを宣言され、「神の相続人であり、キリストと共に共同相続人」(ローマ8:17)として御国を継がせられます。必ずその時が来ます!
「平和を造る者は幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるからです。」平和を造ることは、私たちが常に目指すべき、最も尊いことの一つなのです。それは、私たちの神が平和の神であられるからです。
今朝、私たちは、単に平和を愛するだけでなく、実際に平和を造ること、造り出すことが、如何に尊いかを改めて心に刻み、是非、これに生きる決意をしたいと思います。どうか、平和の君なる主イエスが、聖霊により私たちを大いに励まして下さいますように!
11世紀の終りから12世紀の初めに生きたアッシジのフランチェスコの「平和の祈り」と呼ばれるものの一部を読んで終ります。
「主よ、私をあなたの平和の道具にして下さい。
憎しみのある処に愛をもたらし、争いのある処に赦しを、
疑いのある処に信仰を、絶望のある処に希望を、
闇のある処に光を、悲しみのある処に喜びをもたらす人にして下さい。
主よ、慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを求めることが出来ますように。」