姦淫してはならない
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 5章27節~30節
5:27 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです
5:29 もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。
5:30 もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。
(新改訳聖書2017年度版)
マタイによる福音書 5章27節~30節
5:16が伝えますように、神の御子イエスは、人々が私たちクリスチャンの良い行いを見て神を崇めるようになることを願って、こう言われました。17節「私が律法や預言者を廃棄するあめに来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。」
そこでイエスは、21~26節で十戒の第6戒「殺してはならない」をまず取り上げ、その本当の意味を話され、次いで第7戒「姦淫してはならない」を取り上げ、こう言われます。27、28節「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなた方も聞いています。しかし、私はあなた方に言います。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、心の中で既に姦淫を犯したのです。」
姦淫とは、人が自分の配偶者以外の異性と性交渉を持ち、結婚関係を破壊することです。従って、大変重い罪です。第7戒は、私たちが自分のものであれ人のものであれ結婚関係を壊してはならず、最大限尊ぶことを求めています。そこに、神による秩序、平和、祝福があります。
しかし、ここでイエスは、姦淫についてもっと根本から語られます。相手が人妻であろうとなかろうと、男が「情欲を抱いて女を見る」こと自体、もう姦淫を犯している、と。
私たちの中には、歳を取って性のことはもう関係ないという人や独身者もあるでしょう。しかし、結婚と性について聖書的認識をキチンと持っていることは、自分以外の人のためにも、クリスチャンとして常に大切です。
問題は男だけではありません。創世記39章が伝えますように、エジプト宮廷の役人ポティファルの妻が若いヨセフに言い寄ったように、女が夫以外の男に情欲を抱くことも罪です。自分や相手が既婚者か否かに関らず、自分の配偶者以外の異性に情欲を抱くことは、既に心の中での姦淫だ、とイエスは教えられるのです。
念のために確認します。「情欲を抱く」とは、ある異性を見て「素敵な人だなぁ」と思うぐらいのことではありません。創世記1章が記す通り、神は人を男と女という違う性に造られました。従って、人が異性に興味を抱くのは極自然なことです。けれども、その異性との性的なことまで考えるなら、それは罪です。神は、性をあくまで結婚関係の中に限定し、そこでこそ性を祝福されるのです。
イエスが十戒の第7戒を取り上げられた紀元1世紀にも、性的な罪は多く見られ、また実際の行為に至らなければ、心で淫らなことを考えても罪ではない、という考えもあったでしょう。
性的な罪は、人類の歴史に常にありました。先程のポティファルの妻だけでなく、創世記35:22は、イスラエル12部族の先祖ルベンが父の側女と寝たこと、また38章は、イスラエル12部族の先祖ユダの性的失敗を伝えます。Ⅱサムエル記11章は、イスラエルの王ダビデが自分の部下の妻バテ・シェバと姦淫したことを伝え、マルコ福音書6:17、18は、自分の兄弟の妻と不倫し結婚したヘロデ王を洗礼者ヨハネが非難したことを伝えます。
人類の歴史で、姦淫や不倫、性の乱れのない時代はなく、今も同じです。そして、クリスチャンなら大丈夫、とは決して言えません。現にルベンもユダもダビデも信仰者でしたが、罪を犯しました。
性の問題は生易しくありません。凄まじい力を持っています。この怖さを私たちは決して忘れたくないと思います。主イエスは人間のこの問題をよくご存じです。ですから、私たちのために教えられるのです。
では、姦淫や性的な罪を犯さず、自分の体と心を神の前に清く保つためには、どうすれば良いでしょうか。
第一は、姦淫や不倫、性的不品行は、神の前に罪であり、神に裁かれることを、自分にハッキリさせることです。この点で生温いと、性の罪には初めから勝てません。
イエスは29、30節で「全身がゲヘナに」、つまり地獄に、と言われます。それ程、この罪は重い。
ところが、人は常に色々理由を付けては罪を正当化し、罪を犯しやすい状況を自分で作ってきました。また実際の行為に至らず、頭で想像し目で楽しむだけならいいとして、罪のハードルを下げ、甘くしてきました。しかし、淫らな思いで異性を見ることは、神の目には既に姦淫ですし、姦淫や不倫は、自分の家庭も相手の家庭も破壊し、多くの関係者を傷つけ、不幸に陥れる非常に罪深いことなのです。
以上の点を私たちは自分に曖昧にしていてはなりません。イエスの言葉を思い起し、主が私たちをご支配下さるように求めるのです。すると、私たちは危険な甘い状態を少しでも避けることが出来るでしょう。
第二は、罪を犯させるものから自分を物理的にキッパリ遠ざけることです。イエスは言われます。29、30節「もし右の目があなたを躓かせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれない方が良いのです。もし右の手があなたを躓かせるなら、切って捨てなさい。体の一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれない方が良いのです。」
「躓かせる」と訳されている元のギリシア語は、スキャンダルという英語の語源スカンダリゾーで、「罪を犯させる、信仰をやめさせる」という強い意味を持ちます。ですから、罪を犯す体のその部分を捨てよとまで、イエスは言われるわけです。ここと殆ど同じ過激な表現を、イエスはマタイ福音書18:8、9の罪の誘惑に対する警告という文脈でもしておられます。罪の恐ろしさを繰り返し強調し、イエスがどんなに私たちを救おうとしておられるのかが、良く分ります。
では、このことでイエスは何を教えようとしておられるのでしょうか。罪を犯す糸口や誘惑となるものから、物理的に断固自分を遠ざけることです。
歴史を振り返りますと、イエスの教えを文字通り実践し、2~3世紀にアレクサンドリアで活躍した聖書学者で神学者でもあったオリゲネスなどは、去勢までしました。明治時代のあるクリスチャンの男性は、自分の右手を火で焼いたといいます。
そういう真剣さを忘れてはなりませんが、大事なことは、罪への糸口や誘惑となるものから物理的にキッパリ離れることです。右目が罪を犯しそうなら、それが見えない所に移動し、右手が罪を犯しそうなら、罪を犯せない所に行く!29、30節で「えぐり出す、捨てる、切って捨てる」と訳されているギリシア語は、どれも<キッパリ>えぐり出す、捨てる、切り捨てるというニュアンスの言葉です。
ですから、「これ位なら、まだ大丈夫。まだいいだろう」などという甘い姿勢では駄目です。軽い気持で麻薬やギャンブルに手を出し、段々深みにはまって自分を滅ぼす人も同じです。そうではなく、最初から断固近づかない!でも、つい近づき、「あっ、どうしよう」と思ったならば、即座に自分を物理的に遠ざける!単純そうですが、これが神の知恵であり、一番賢いのです。Ⅰコリント1:25は言います。「神の愚かさは人よりも賢」い、と。
第三に、ここでは直接教えられていませんが、聖書全体から教えられることは、自分が罪を犯しそうだと思う時には、他のもっと大事なことに自分を投入することです。
ポティファルの妻やダビデが罪を犯した時、彼らはどうだったでしょうか。暇(ひま)でした。本当は他にするべきこともあったでしょう。しかし、何となく暇に思えて気が緩み、そこにサタンが働き、罪が入り込み、彼らを虜(とりこ)にしたのでした。無論、暇自体が悪いのではありません。神に感謝し、リラックスすれば良いのです。けれども、同時に注意も必要です。
マタイ12:43~45のイエスの教えによれば、悪い心や生活習慣を、自分の中からただ追い出し、自分を空っぽにするだけでも十分ではありません。神が喜ばれるもっと良いこと、例えば、他の誰かのためとかキリストの体である教会のための奉仕とか、自分のなすべき義務や責任などに、体も心も時間も用い、打ち込むのです。すると、私たちは罪を犯さず、自分の体も心も清潔に保つことが出来るでしょう。
第四は極簡潔に申しますが、本気でイエス・キリストを仰いで祈り、自分の心と生活に入って頂き、御霊に支配して頂くことです。
以上、性的な罪に少しでも打ち勝つ方法を見ました。
性の問題は、単に体だけでなく、私たちの人格と深く関ります。性的にだらしなくしていると、自分の人格を堕落させ、顔まで卑しくし、魂を滅ぼします。その逆に、この問題と真直ぐ向き合い戦うことで、私たちは必ず人格を清められ、高められ、祝福されます。
無論、一度罪を犯したなら、二度と赦されないのではありません。ヨハネ福音書8:1~11は、姦淫の場で捕えられた女とイエスのことを伝えています(ここは本来の聖書本文ではないという意見もありますが、今は触れません)。群衆の前で罪を恐れる彼女を、イエスは罪に定められませんでした。ここだけでなく聖書全体から、私たちが自分の罪を心底悔い改めるなら、神に赦されることをハッキリ教えられています。と同時に、イエスが彼女に「これからは、決して罪を犯してはなりません」と言われたことも忘れたくないと思います。
またヘブル12:16、17が教えますが、エサウは後になって神に祝福を求めましたが、退けられました。悔い改めにも、時があるのです。「罪を犯しても、また悔い改めればいいのさ」などと安易に考え、自分に罪を許し、たかをくくっていて、突然事故や病気で心臓が止まり、悔い改めの機会を永遠に失ったら、どうなるでしょう。悔い改めも神の憐れみのある間でしか出来ないことを、忘れてはなりません。
私たちの体も魂も愛する故に、お教え下さる主イエスに心から感謝し、喜んで主の教えに従いたいと思います。憐れみ深い主が、私たちをますます清めて下さり、性と結婚においても、神を讃え、キリストの体なる教会に仕え、隣人と社会にも一層良く仕えることが出来ますように!