聖書の言葉 7: 9 どうか、悪しき者の悪が後を絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。 正しい神は、心の深みまで調べられます。7:10 私の盾は神にあり、 神は心の直ぐな人を救われます。詩編 7章9節~10節 メッセージ ここ2回ばかり、神が私たちの心を見ておられることが、本当はどんなに感謝なことかを見て来ました。第一に、これが色々罪深いことや悪や不信仰から私たちを少しでも守るので感謝だということ、第二に、たとえ私たちが人に正しく理解してもらえず、誤解されるような辛く悲しい状況にあっても、私たち自身の心と魂が守られるので感謝だ、という点を見ました。 今日は三つ目に進みます。それは、他人の罪深いことや悪やこの世の不条理などに、私たちが振り回されて自分を失うという危険から守られることです。これも大変感謝なことです。 改めて言うまでもなく、この世には多くの嘘、偽り、欺き、略奪、搾取や、中にはとんでもない悪もあります。しかも、そういうことでうまくやっている人も沢山います。それ程ハッキリ自覚しないで悪を行なっている人は更に多いでしょう。そういう人たちに出会ったり、彼らの余りの悪どさに気付きますと、私たちは「こんなことが許されて良いのか」と思って腹を立てます。そして彼らの罪や悪が公になり、暴かれ、裁かれることを願います。 ところが、この世は簡単ではありません。この世は正義と善意に満ちているわけではなく、公平でもありません。人類が造り主である真(まこと)の神に背いて堕落したため、罪が蔓延し、この世全体が大きく歪んでしまったからです。ですから、この世は多くの矛盾と不条理に満ちたものになってしまっています。 そこで、結局うまくやっている人たちが賢くて得なのだと思える時も、或いはあるかも知れません。しかし、そう考え出すと、私たち自身の人生観や倫理観もグラつき、歪められ、躓き、自分を失いかねない危険性があります。 詩篇73篇の作者などは、まさにそういう状態に陥り、信仰を激しく揺さぶられ、つまずきそうになりました。作者は73:2~5で、そういう状態にあったかつての自分を振り返ってこう述べています。「…この私は、足がつまずきそうで、私の歩みは滑りかけた。それは、私が悪しき者が栄えるのを見て、誇り高ぶる者を妬んだからだ。実に、彼らの死には苦痛がなく、彼らの体は肥えている。人が苦労する時に、彼らはそうではなく、他の人のように、打たれることもない。」 作者は真面目な人でした。しかし、重い病気にもなったようで、思いがけない苦難が彼を襲いました。彼は一生懸命耐えました。 ところが、神を無視し、神に逆らい、人に分らないように悪を行なっている人たちはとても健康で、仕事も家庭もうまく行き、何の苦労もありません。幸せそのものです。そういう姿が彼の目に入りました。そこで彼はこの不条理につまずきそうになりました。「これはどういうことなのだ。悪いこともしないで真面目に生きて来た私が今こんな辛い思いをしているのに、彼らは神も恐れなければ法律も恐れず、ずる賢く立ち回り、しかも何の苦しみも知らない。法の裁きも受けない。これはひどい。不公平だ。無茶苦茶だ。世の中、どうなっているのか。こんなことなら、真面目に生きても意味がない。神を信じて何の意味があるのか」とかなり心が荒れました。 しかし、色々苦しんだ後、ついに彼は、神がこういうことをご存じでないなど、あり得ず、17~20節で言うように、やがて神の時が来たなら、悪人に必ず報われることを悟りました。そして、そこから、つまずき滑りそうになっていた彼の本来の信仰や人生観、価値観、倫理観は再びよみがえり、彼は以前にもまして堅固な人に成長していました。 繰り返します。私たちはしばしば他人の悪や不信仰やひどい行ないが誰にも知られず、彼らがうまくやっているのを見て、つまずきそうになることがあるかも知れません。しかし、神がそういうことをご存じでないなど、絶対にあり得ません。最初にお読みしました詩篇7:9、10も言います。「正しい神は、心の深みまで調べられます。私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われます。」 神は心を見ておられる!この世でか彼(か)の世でかは、神が決められます。がとにかく、時が来たら神は悪人を必ず裁かれます。お裁きにならないなど、絶対にあり得ません!神は正義の神なのです。 私たちも、心をご覧になり、正しく裁かれる神の前に真にへりくだり、自らの罪と不信仰の赦しと魂の救いのために、神の御子、主イエス・キリストを改めて心から信じ、また真(まこと)の神に一切を委ねて安んじる信仰を固く持ちたいと思います。そして、他人のことでつまずくことも振り回されることもなく、むしろ、自分自身のなすべきことや使命にこそ、自分の思いと熱心とを傾け、キチンと果たし、右にも左にもそれず、神の御前(みまえ)に真直ぐ忠実に歩んでいきたいと思います。 関連する説教を探す 2025年の祈祷会 『詩編』
ここ2回ばかり、神が私たちの心を見ておられることが、本当はどんなに感謝なことかを見て来ました。第一に、これが色々罪深いことや悪や不信仰から私たちを少しでも守るので感謝だということ、第二に、たとえ私たちが人に正しく理解してもらえず、誤解されるような辛く悲しい状況にあっても、私たち自身の心と魂が守られるので感謝だ、という点を見ました。
今日は三つ目に進みます。それは、他人の罪深いことや悪やこの世の不条理などに、私たちが振り回されて自分を失うという危険から守られることです。これも大変感謝なことです。
改めて言うまでもなく、この世には多くの嘘、偽り、欺き、略奪、搾取や、中にはとんでもない悪もあります。しかも、そういうことでうまくやっている人も沢山います。それ程ハッキリ自覚しないで悪を行なっている人は更に多いでしょう。そういう人たちに出会ったり、彼らの余りの悪どさに気付きますと、私たちは「こんなことが許されて良いのか」と思って腹を立てます。そして彼らの罪や悪が公になり、暴かれ、裁かれることを願います。
ところが、この世は簡単ではありません。この世は正義と善意に満ちているわけではなく、公平でもありません。人類が造り主である真(まこと)の神に背いて堕落したため、罪が蔓延し、この世全体が大きく歪んでしまったからです。ですから、この世は多くの矛盾と不条理に満ちたものになってしまっています。
そこで、結局うまくやっている人たちが賢くて得なのだと思える時も、或いはあるかも知れません。しかし、そう考え出すと、私たち自身の人生観や倫理観もグラつき、歪められ、躓き、自分を失いかねない危険性があります。
詩篇73篇の作者などは、まさにそういう状態に陥り、信仰を激しく揺さぶられ、つまずきそうになりました。作者は73:2~5で、そういう状態にあったかつての自分を振り返ってこう述べています。「…この私は、足がつまずきそうで、私の歩みは滑りかけた。それは、私が悪しき者が栄えるのを見て、誇り高ぶる者を妬んだからだ。実に、彼らの死には苦痛がなく、彼らの体は肥えている。人が苦労する時に、彼らはそうではなく、他の人のように、打たれることもない。」
作者は真面目な人でした。しかし、重い病気にもなったようで、思いがけない苦難が彼を襲いました。彼は一生懸命耐えました。
ところが、神を無視し、神に逆らい、人に分らないように悪を行なっている人たちはとても健康で、仕事も家庭もうまく行き、何の苦労もありません。幸せそのものです。そういう姿が彼の目に入りました。そこで彼はこの不条理につまずきそうになりました。「これはどういうことなのだ。悪いこともしないで真面目に生きて来た私が今こんな辛い思いをしているのに、彼らは神も恐れなければ法律も恐れず、ずる賢く立ち回り、しかも何の苦しみも知らない。法の裁きも受けない。これはひどい。不公平だ。無茶苦茶だ。世の中、どうなっているのか。こんなことなら、真面目に生きても意味がない。神を信じて何の意味があるのか」とかなり心が荒れました。
しかし、色々苦しんだ後、ついに彼は、神がこういうことをご存じでないなど、あり得ず、17~20節で言うように、やがて神の時が来たなら、悪人に必ず報われることを悟りました。そして、そこから、つまずき滑りそうになっていた彼の本来の信仰や人生観、価値観、倫理観は再びよみがえり、彼は以前にもまして堅固な人に成長していました。
繰り返します。私たちはしばしば他人の悪や不信仰やひどい行ないが誰にも知られず、彼らがうまくやっているのを見て、つまずきそうになることがあるかも知れません。しかし、神がそういうことをご存じでないなど、絶対にあり得ません。最初にお読みしました詩篇7:9、10も言います。「正しい神は、心の深みまで調べられます。私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われます。」
神は心を見ておられる!この世でか彼(か)の世でかは、神が決められます。がとにかく、時が来たら神は悪人を必ず裁かれます。お裁きにならないなど、絶対にあり得ません!神は正義の神なのです。
私たちも、心をご覧になり、正しく裁かれる神の前に真にへりくだり、自らの罪と不信仰の赦しと魂の救いのために、神の御子、主イエス・キリストを改めて心から信じ、また真(まこと)の神に一切を委ねて安んじる信仰を固く持ちたいと思います。そして、他人のことでつまずくことも振り回されることもなく、むしろ、自分自身のなすべきことや使命にこそ、自分の思いと熱心とを傾け、キチンと果たし、右にも左にもそれず、神の御前(みまえ)に真直ぐ忠実に歩んでいきたいと思います。