2025年11月30日「神による報い」

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聖句のアイコン聖書の言葉

19:27 その時、ペテロはイエスに言った。「ご覧下さい。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」
19:28 そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなた方に言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、私に従って来たあなた方も十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。
19;29 また、私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠の命を受け継ぎます。
19:30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」マタイによる福音書 19章27節~30節

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 先ほどお読みした聖書箇所から、今朝は信仰者への「神による報い」について学びたいと思います。

 前回、私たちは16~26節で、自分は神の戒めを守って来たと自信があり、しかし救いの確信は弱く、どうすれば永遠の命を得られるのかと尋ねた一人の青年と主イエスとのやり取りを見ました。結局、彼は22節「悲しみながら立ち去」りました。自分に自信のある富める人が救われることの困難さを、イエスは23、24節で語られました。

 このことに弟子たちは大変驚き、これでは誰も救われないのではないのかと思いました。しかし、イエスは26節「神にはどんなことでもできます」と、つまり、人は自分の力で救いを得ることはできませんが、救いの希望が神の内にあることをお教えになりました。

 それを聞いて安心したのでしょう。ペテロは27節「私たちは全てを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何を頂けるでしょうか」とやや強気でイエスに尋ね、ここから神による報いというテーマが展開します。

 27~30節の今朝の聖書箇所から、私たちはどんなことを教えられるでしょうか。大きく二つあります。

 一つは、クリスチャンが神の救いの愛に応えてイエスに従い、自分を捨てることに対して、神は必ず豊かに報いて下さることです。

 イエスは言われます。28節「まことに、あなた方に言います。人の子(=イエスご自身)がその栄光の座に着く時、その新しい世界で、私に従って来たあなた方も十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。」

 少し説明致します。この時から少し後、イエスは十字架で命を捧げ、復活して贖いを完成し、天の父なる神の許に昇って栄光の座に着かれ、世の終りまで教会とクリスチャンを用いて、多くの人を救われます。

 そして今のこの世界は終り、神は新しい世界を造られます。このことを、神は既に旧約聖書のイザヤ書65:17でこう預言しておられました。「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する」と。また新約聖書のペテロの手紙 第二 3:10、13も、世の終りについて「その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、……しかし私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます」と言います。マタイ福音書19:28でイエスが言われたのは、その終りの時のことです。

その時、イエスを心から救い主と信じ、イエスに従って神のきよい御心に誠実に生きて来た人たちは皆、必ず報いを受けます。イエスが弟子たちに「十二の座に着いて」とか「イスラエルの十二の部族を治める」と言われたのは、要するに、神から最高の報いを与えられるという意味です。

 また29節で「私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨て」とイエスが言われたのは、要するに、何のことでも頭をもたげて来る自我を私たちが捨てることを意味します。16:24でもイエスは「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい」と教えておられました。

 自我を捨てることは、何と難しいでしょう。しかし、命を捨ててまで私たちを愛して下さっているイエス・キリストの故に自分を捨てた者は、世の終りの新しい世界で、29節「皆、その百倍を受け、また永遠の命を受け継ぎます」とイエスは約束されます。

 確かに神は、私たちの隠れた罪深い考えや恥かしい行いも皆ご存じです。私たちは心から悔い改め、イエスに赦して頂く必要があります。

 それと共に、私たちが神の救いの愛に感謝して、自分を捨て、イエスに従い、特に愛をもって神と隣人に仕える時、神は全てを見ておられ、世の終りに何倍、何十倍にもして報いて下さいます。これが神による報いです!神の御心に従順に生きて来た者は、その時、「いったい、神はどうしてこんなに私に報いて下さるのだろう。あぁ、神様、感謝いたします!」と驚き、叫んでいる自分自身を発見することでしょう。

 また、自分を捨て、イエスに従って生きて来た人は、そのことで人から批判され、大変悲しく、辛く、泣くこともあるでしょう。しかし、世の終りに神はそのことにも報いて下さいます。その様子をヨハネの黙示録21:3、4はこう伝えます。「神は人々と共に住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、共におられる。神は彼らの目から、涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。」

 以上が一つの点です。

 しかし、もう一点あります。何でしょうか。神による報いは、しばしば私たちの思いや期待とは異なることです。

 イエスは言われます。30節「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」その例として、はイエスは20:1から例え話をされ、最後の16節でこう言われます。「このように、後の者が先になり、先の者が後になる。」この例え話はまた改めて学びたいと思います。

 19:30に戻ります。イエスがこう言われたのには理由がありました。ペテロが27節「ご覧下さい。私たちは全てを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何を頂けるでしょうか」と言ったからです。

 「私たちは」は、元のギリシア語では「この私たちは」という強い言葉になっています。ですから、「この私たちは」「全てを捨てて、あなたに従って」来たと強調し、「それで、私たちは何を頂けるでしょう」かと、自信を持って、ペテロはイエスに尋ねたのでした。

 確かに、富める青年は、持ち物を、言い換えれば自分を捨てられず、イエスに従わないで、立ち去りました。一方、ペテロをはじめ、弟子たちは自分の色々な物を捨ててでもイエスに従って来ました。それは確かです。

 けれども、ここには、やや得意顔で、「我々はよくやっている。頑張っている」と言わんばかりの自負心や誇り、また報いは当然だと言わんばかりの高ぶりと打算的な思いが見られないでしょうか。イエスはルカの福音書17:10で、信仰者は、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と、神に申し上げるべきことを教えておられます。しかし、マタイ福音書19章の時点での弟子たちには、神の前に徹底して謙虚で、あらゆる点で神を喜び、神に栄光を帰する真(まこと)の信仰からではなく、人間的・肉的な思いがつい優先するこの世的な点がありました。

 もっとも、そういう彼らに対しても、先ほど学びましたように、イエスは、報いについての彼らの質問に丁寧に答えられました。イエスの寛容さを思わないではおれません。コリント人への手紙 第一 13:4に「愛は寛容であり」とあります。こんな所にも、弟子たちを愛される主イエスの深い愛が見られます。

 けれども、愛は寛容であるだけではありません。彼らを愛するが故に、イエスは注意も与えられます。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります」がそれです。

 先にも言いましたように、これは、神による報いがしばしば私たちの思いや期待とは異なるという教えです。

 仮に、私たちが「頑張っている自分こそ高くされ、十分に報われるはずだ」という考えでいるなら、それは神のお考えとは違います。18:4でイエスは、「誰でもこの子供のように自分を低くする人が、天の御国で一番偉い」と教え、23:12でも「誰でも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高く」されると言われます。旧約聖書の箴言29:23もこう教えていました。「人の高ぶりはその人を低くし、謙った人は誉れをつかむ」と。

 だからといって、私たちが神と隣人のために自分の時間や体力や持ち物、お金、そして真心(まごころ)から祈りを捧げたことを、神は決してお忘れになりません。

 また私たちが「自分なんか、こんなことぐらいしかできない」と、自分を嘆き、しょげていても、神は違います。幼い子供の小さな奉仕をも殊の外(ことのほか)喜ばれ、報いて下さるイエス・キリストの父なる神は、私たちが自分のした小さな貧しい奉仕をすっかり忘れていても、これをしっかり覚えておられ、必ず報いて下さるのです。

 結局、私たちにとって、最も公平で最も相応しいきよい報いを、慈愛に満ちた天の父なる神は必ずお与え下さる!これが神による報いです。

 最後に、コリント人への手紙 第一 15:58を読んで終ります。

 「私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主の業(わざ)に励みなさい。あなた方は、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」

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