2020年09月27日「恵み、あわれみ、そして平安がありますように」

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恵み、あわれみ、そして平安がありますように

日付
説教
寺川和宏 神学生
聖書
テモテへの手紙一 1章1節~11節

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【新改訳改訂第3版】
Ⅰテモ
1:1 私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロから、
1:2 信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。
1:3 私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、
1:4 果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。
1:5 この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。
1:6 ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り、
1:7 律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。
1:8 しかし私たちは知っています。律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです。
1:9 すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、
1:10 不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。
1:11 祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。
テモテへの手紙一 1章1節~11節

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 今朝は「テモテへの手紙 第一」 1章1節~11節までの御言葉に心を向けて行きたいと思います。

 はじめに、「テモテへの手紙 第一」の「概要」に触れておきたいと思います。この「テモテへの手紙 第一」と「テモテへの手紙 第二」そして「テトスへの手紙」の3つの手紙は、ともに「牧会書簡」と呼ばれています。そしてこれらの手紙は、使徒パウロが、晩年に、愛弟子であった「テモテ」と「テトス」に送られたものであります。

 また「牧会書簡」と呼ばれる理由ついては、これらの手紙が、牧会者であった「テモテ」そして「テトス」にあてられた手紙であり、教会の指導や、教会でいかに牧会的配慮をしていくかについて書かれているからであります。しかし、これらの手紙は、牧会者にあてられた手紙ではありますが、単に、指導的な立場の人のみに、有益なのではなく、教会に集う一人ひとりにとっても大切なことが多く語られているのです。

 またこの「テモテへの手紙 第一」が書かれた理由についてですが、当時パウロのいない「エフェソ教会」での牧会において苦しんでいた、テモテを励ますために書き送られました。

 また「テモテ」は、純粋なユダヤ人ではなく、異邦人の血が混じっていました。「使徒の働き」16:1には「テモテの父親がギリシア人」であることが書かれています。また「テモテへの手紙 第二」には祖母であるロイス、そして母ユニケ、この2人が共に「敬虔なユダヤ人」であったことが書かれています。

 また「テモテへの手紙 第一」の4:12では、「年が若いからといって、誰にも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範となりなさい」とあります。

 さらには「1:3、4」にあるように、「違った教え」や「果てしのない空想話」と「系図」に心を奪われ、得意となっていた者たちから、年が若く、少し気の弱かったであろう「テモテ」が、少し見下されていた面があったのではないかと考えられます。

 ですから、パウロは、一番大切なことは、「純粋なユダヤ人」であることではなく「純粋な信仰」であること、つまり主イエス・キリストを信じる「純粋な信仰」から出る「愛」であることを教えています。わたしたちは、こういった背景にも心を留めながら、今朝の御言葉に心を向け、御言葉より励まされたいと願います。

 それでは1節より見て行きたいと思います。1節「私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロから、」とあります。

 ここでパウロは、初めからはっきりと「救い主」を指さしています。牧会上の問題で悩んでいるテモテに対して、パウロは、悩みの時にこそ「イエスさまは、わたしたちの救い主であり、希望である」という「救いの原点」を思い起こし、立ち返ることの大切さを示しています。またイエスさまこそ、わたしたちの「唯一の希望」であることを、今一度テモテに思い起こさせているのです。

 それはつまり視点を、「自分自身」から「主キリスト」へと変えていく、言い換えれば「救い主であるキリストに心を向け、天を見上げる」時にこそ、悩みからの本当の救いが、神様によって与えられるということなのです。

 わたしたちも、困難の中にあるときには特にそうなのですが、「自分の力」、言い換えれば「人間的な力」によって、物事を乗り越えようとしてしまう時があります。

 「自分の力を尽くす」ことは悪いことではありませんが、そこに「主であるキリスト」があるでしょうか。私自身も神学校に入るまで、トラブルや困難の時にイエスさまを忘れてしまい、「自分の力にのみ」に頼る傾向がありました。また仕事においては、特に自分で何とかしなければならないと思っていたように思います。その時には「神様に祈り求める」こと、あるいは「神様に望みをおいて頼る」ということがありませんでした。言い換えれば「救いに決定的に必要であるイエスさまが欠けていた」ということなのです。

 また、説教を作る時にも、毎回、悩みつつ言葉を紡いでいるのですが、「人間的に」パソコンの前で、何時間頑張っても、一向に説教が進まないことが多いように思われます。

 そんな時、私は「ウォーキング」が趣味なのですが、歩きながら、心の中で祈ったり、説教の箇所を思い巡らしながら、色々な景色や、人の姿などを、何気なく見ているときに、ふと「言葉」が与えられることが多いように思います。

 そんな時、「語るべき言葉」を与えてくださった神様に感謝をしています。そのように神様より与えられた言葉は、私自身「確信」をもって語ることが出来ますし、また「確信」をもって大胆に語る言葉には「聖霊なる神様」が働いて下さると信じています。

 本当に小さく、「ひび」や「欠け」の多い「土の器」でありますが、そんな「小さな私」であっても「聖霊なる神様」によって用いられる時、「必ず」神様の御言葉を届けることが出来ると信じています。

 ですから、わたしたちキリスト者は、苦しみや、悩みの中にある時でも、「人間的な力にのみ」頼るのではなく、「主であるキリスト」に希望をおいて、また、どんな状況であっても「イエスさま」を忘れてしまうことなく、いつも祈りへと導かれたいと思います。

 2節には、「信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように」とあります。

 「ローマ人への手紙」をはじめ、通常、他のパウロ書簡においては「恵みと平安があるように」とだけ挨拶するのですが、この「テモテへの手紙 第一」そして「テモテへの手紙 第二」では、「恵みと平安」に「憐れみ」が加えられ「最高の形式」をなしています。

 またパウロが、「わが子テモテ」と呼びかけていることからも、いかにテモテのことを愛していたのかが分かります。それに加えて「憐れみ」というパウロにとって「特別な思い」のある言葉を加えているのです。

 その「特別な思い」とは何でしょうか。それは元々、パウロはキリスト者を迫害するものであり、本来なら神様より裁かれて当然な者でありました。しかし、ただ、神様の「憐れみ」によって救われ、使徒となることが出来たからです。

 ですからパウロは神様からの「憐れみ」の大切さを誰よりも知るものであったと言えます。その神様からの「憐れみ」を一番愛する弟子であるテモテにも与えられるよう祈り求めているのです。

 ここで大切なことは「恵み」も「憐れみ」も「平和」も、「人」からでも、もちろん「パウロ」からでもなく「主であるキリスト」から与えられるということです。つまり、パウロは、これらすべては「主であるキリスト」つまり「救い主」によって与えられるということを語っているのです。

 また、「ある神学者」は「恵み」と「憐れみ」と「平安」の関係についてこう語っています。「たとえ『恵み』があっても、『憐れみ』が伴っていないなら、人に『平安』を与えることは出来ないであろう。なぜなら、人は将来のために力が必要なのと同様に、過去のための赦しが必要であるからである。」とあります。

 

 つまり神様からの「憐れみ」とは、「人間の罪に対する赦し」でもあるということです。この「過去の赦し」、つまり言い換えるならば「主イエス・キリスト」の十字架の贖いによる罪からの救いがあるからこそ、わたしたちは、神様からの「恵み」を、心からの「平安」をもって受けることが出来るということなのであります。

 ですから、パウロは「苦しみの中にあり」、心に「平安」の無かったテモテに対して、普段、「手紙の冒頭の挨拶」では殆ど使われることのない「憐れみ」を加えました。

 このことは、テモテが、神様からの「恵み」を、心からの「平安」を持って受けることが出来るように、今一度、主からの「憐れみ」、つまり、「主イエス・キリストの十字架」を指さし強調しているのであります。

 また、「パウロ」は、今朝の続きの箇所である12節以下で「神様からの憐れみ」についてさらに言及していきます。ここからも、神様からの「憐れみ」をテモテに伝えなければならないという強い思いを見て取ることが出来るのです。

 今朝、わたしたちも「テモテ」と同じく、改めて「憐れみの重要性」について心に留めることが出来ればと思います。

 3節からは、「パウロ」が「テモテ」に対して「エペソで指導する際のポイント」を書かれています。3節にあるように、パウロはマケドニア州の諸教会を指導するために旅立たなければならなかったのですが、テモテには「エペソ」で「違った教え」をしていた「教師たち」によって惑わされてしまわないように、「エペソ」にとどまって、エペソ教会を導くように命じられていたことが分かります。

 当時の「エペソの町」は、政治・文化・商業の中心地でありました。また「アルテミス神殿」があり、異教の盛んな地でもありました。ですから、イエスさまの教えとは「違った教え」に満ちており、それに影響を受けて「違った教えをする」教師が多くいました。

 また「エペソ人への手紙」の2:3で、パウロは「自分の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」とあり、4:17では「もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように 歩んではなりません」とあります。つまり「エペソの町」は、そのような異教の教えに満ちた町であったということなのです。

、「違った教え」と訳されているギリシア語は「違った教理を教える」とも訳すことが出来ます。つまり、パウロや使徒たちが教えていることとは違った、言い換えれば「正統ではない教え」を教えていた人たちがいてエペソ教会を混乱させていたということです。また旧約聖書に出て来る「系図」についても自分勝手に解釈して語っていたということなのです。

 また4節にある「空想話」と書かれているギリシア語は、「作り話」や「無駄話」とも訳すことが出来ます。

 ですから主イエス・キリスト以外の「人が作った話」や「無駄である話」に耳を傾けてしまうのではなく、まことの神様である「主イエス・キリスト」に集中することが大切であることを語っているのです。

 このような「正統で無い教え」や「意味の無い系図」、そして「作り話」や「無駄話」に耳を傾け、また心を向けることは「信仰による神の救いの御計画の実現」から遠ざかってしまうとパウロは語っているのです。

 ですから「パウロや使徒たちの教え」にとどまることが大切であり、そこにこそ本当の「愛」につながるのであると教え、エフェソの信徒たちを混乱させるような「違った教理」や「作り話」を教えさせないように、テモテに助言したのであります。

 5節「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています」とあります。「清い心」とは「違った教えなどが混じっていない心」のことで、「正しい良心」は「やましいことのない良心」のことを指しています。つまり「正しい教えから来る心」、「やましいことのない良心」、そして「偽りのない信仰」こそ「本当の愛」につながる道であることを、パウロは語っているのであります。

 ここに目を向けていくとき、幸いなことに、わたしたち改革派教会には「神学校」そして「研修所」があり正しい教理を学ぶことが出来ます。しかし当時にはそのような「正しい教理」を学ぶ機関はありませんでした。ですから、ある意味このような「違った」もしくは「自分で勝手に考えた」教えが広がるのは仕方のないことであったのかも知れません。

 6節には「ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り」とあります。

 本来、キリストにある「愛」につながる道へと歩むべきなのですが、「わき道」、言い換えれば「違った教理」や「意味の無い系図」に心を奪われてしまい、本来の道である「愛」につながる道を見失ってしまっている教会の姿が見えてくるのです。

 そして7節にある「律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません」とあります。この御言葉を見るとき、私自身が、より真剣に「正しい教理」を学び、皆さんにお伝えすることの重要性を思わされます。

 本当に「誠実」に「正しく」神様からの御言葉をお伝え出来るよう、これからも神学校の学びに励んでいきたいと思います。

 8節には「しかし私たちは知っています。律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです」とあります。

 つまり「律法」を正しく用いていない者たちがいたということです。それは「エペソ人への手紙」でパウロが強調している通り、旧約聖書の戒めや掟を「行うことによって救われる」と教えている者たちのことを指していると考えられます。

 しかし「律法を完全に行うこと」は、わたしたち人間には出来ません。ですから「律法を行うこと」によっては誰も救われないということです。

 そうではなく「救い」とは、主イエス・キリストの十字架の贖いによって、つまり主であるキリストを信じることによって、神様からの恵みが与えられ救われるのです。ですから「律法を守ること」によって救われると教えていた者たちは、正しく律法を理解しないまま誤って教えていたことになります。

 それでは「律法を正しく用いる」とは何でしょうか。9節、10節には「11の罪」が書かれています。それは「律法を無視する不従順な者」「不敬虔な罪人」、「汚らわしい俗物」、「父や母を殺す者」、「人を殺す者」、「不品行な者」、「男色をする者」、「人を誘拐する者」、「うそをつく者」、「偽証する者」、「健全な教えにそむく者」であります。

 この「11の罪」ですが、一見して「十戒」に近いものが多いことに気づくのではないでしょうか。そして、先ほどエペソには「アルテミス神殿」があり、異教の盛んな地であると言いましたが、「汚らわしい俗物」や「男色(なんしょく)」が横行していました。それらに倣ってしまわないように注意を呼び掛けています。

 さらに「違った教え」に従うのではなく、パウロたちの伝えた「健全な教え」つまり「正しい教理」に従うことの大切さを語っています。

 また律法については、「ローマ人への手紙」3:20に「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」とあります。

 ここでパウロが言うように「違った教え」をしていた者たちのように、「律法を行うこと」によって救われるというのではありません。そうではなく「かえって罪の意識が生じる」言い換えれば、「律法」は、わたしたちが「罪の意識を生じさせるためのもの」であるということなのです。

 また「ガラテヤ人への手紙」3:24では「律法は私たちをキリストへと導くためのわたしたちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです」とあります。パウロは「律法」は、罪の意識を生じさせるだけでなく、「キリストへの信仰を通してのみ救われる」という「神の真理」を知り、キリストへと導くための「養育係」であるというのです。

 つまり、わたしたちは、「人の行い」にはよらずに、ただ「神の憐れみ」によって、救いへと導かれていることを知るために「律法」はあるということなのであります。

 このことは11節にある「祝福に満ちた神の、栄光の福音」と一致するのであります。

 この日本にも異教があふれており、テモテのように、わたしたちもこの異教世界の中で伝道していくことの難しさを覚え、苦しみ悩んでいます。しかし、その異教世界の中にあっても、異教の教えに影響されることなく、主イエス・キリストの福音に堅く立つことが求められているのです。

 そして、それは単に律法を完全に守ること、言い換えれば「人の行い」には依りません。そうではなく、パウロの「冒頭の挨拶」にあるように、自分のためだけではなく、今、隣におられる方のために、さらにはこの岡山西教会のこれからのために、キリスト・イエスからの「恵みと憐れみと平安とがありますように」と共に祈り、心からの「平安」を持って、一つ一つ困難を乗り越えていくこと。それは今ある「コロナ禍」の中にあっても「同じ」なのであります。

 今週も、キリスト・イエスによる「恵みと憐れみと平安」を与えてくださる神様に心から感謝しつつ、困難の中にあっても「主にある平安」を失うことなく、祈り合い、そして支え合いながら、共に、「新たな一歩」を踏み出して行こうではありませんか。

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