2025年10月30日「人の生きる目的 4」
問い合わせ
人の生きる目的 4
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
詩編 43篇
聖書の言葉
43:1 神よ、私のためにさばいて下さい。
私の訴えを取り上げ、
不敬虔な民の言い分を退けて下さい。
欺きと不正の人から、私を助け出して下さい。
43:2 あなたは私の力の民であられるからです。
なぜ、あなたは私を退けられたのですか。
なぜ、私は敵の虐げに、嘆いて歩き回るのですか。
43:3 どうか あなたの光とまことを送り
それらが私を導くようにして下さい。
あなたの聖なる山、あなたの住まいへと
それらが私を連れて行きますように。
43:4 こうして 私は神の祭壇に
私の最も喜びとする神のみもとに行き
竪琴に合わせて あなたをほめたたえます。
神よ 私の神よ。
43:5 わが魂よ
なぜ お前はうなだれているのか。
なぜ 私の内で思い乱れているのか。
神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。
私の救い 私の神を。詩編 43篇
メッセージ
関連する説教を探す
私たちはここ数回、人の生きる目的について学んで来ました。少し振り返ってみますが、このことほど、人が生きる上で重要なものはありません。しかし、これが何であるかは、結局、人間とこの世界を造られた真(まこと)の神に聞く他なく、その答は、聖書が教えるように、神の栄光を現すことであることを学んで来ました。
そして、神の栄光を現すとは、私たちにとって最も幸せで光栄なことも学びました。楽器職人は最高の音が出るように丹精を込めて楽器を造ります。そして出来上がった楽器が職人の願っている通りの美しい音を出せるなら、それは楽器にとって一番幸せですし、同時にその楽器は製作者の栄光も現しています。
人間も同じです。造り主なる神が願っておられるように、私たちが神の御心に従って神と人を愛し、神の愛に励まされて神と人に喜んで仕え、栄光を全ての点で神に帰することほど、私たちの人格を清め、美しくし、完成する幸いなものはありません。これが実は神の栄光を現すことなのです。
確かに、人には皆生れながらに罪の性質があり、利己的です。そういう罪ある人生の最後は、永遠の死であり滅びです。しかし、こんな私たちのために、神の御子(みこ)は人となられ、私たちの罪を背負い、十字架で私たちの身代りとなって命を捧げ、私たちの罪を全部償い、また神の御心に生きることのできる永遠の命を私たちに与えるために甦られました。ですから、この御子イエスを心から信じ、受け入れ、依り頼むなら、人は誰も罪を赦され、いつ、どのように死んでも、直ちに天の国に入れられ、しかもこの世でも最後まで神の栄光を現すことができるようにされます。
人の生きる究極の目的は、自分を喜ばせ、己の願望を満たすことではなく、造り主なる神の栄光を現し、神に喜ばれることです。Ⅰコリント10:31は言います。「あなた方は、食べるにも飲むも、何をするにも、全て神の栄光を現すためにしなさい。」
さて、今日はもう一つの目的に話を進めます。何でしょうか。神を喜ぶことです。神の栄光を現すことに加え、神を喜ぶこと。それも永遠に神を喜び、神をエンジョイすること!これもとても大切な「人の生きる目的」です。
先ほど、詩篇43を読みました。これは古代のイスラエルで2千数百年前に作られた詩です。注目したいのは、この作者が特に4節で「私の最も喜びとする神」と歌っていることです。ただ単に神の与えて下さる良いもの、つまり恵みや祝福を喜ぶというのではありません。「私の神を」、すなわち、人間とこの世界を造られ、またただ信仰によって彼を救って下さる神ご自身を「喜びとする」と言います。よくよく考えてみますと、これは何と大胆な発言でしょうか。しかし確かにこれがこの詩篇の作者の真実な気持であり信仰でした。
詳しい具体的な点はまでは分りませんが、彼は、彼に敵対する心ない人たちからひどく苦しめられ、非常に辛い状況にありました。彼の魂はその苦しみと辛さの中で渇き、呻き、神を慕い求め、悶々として、日々を送っていました。人間的にはもう限界とも言えるところまで追いつめられていました。
でも、彼は倒されませんでした。潰されもしませんでした。先ほどお読みしました4節のすぐ後の5節で彼は、「わが魂よ。なぜお前はうなだれているのか。なぜ、私の内で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を」と歌います。すなわち、神への信仰に立って、今彼は「わが魂よ」と、自分に語りかけ、「なぜ」と自分に質問し、自分に尋ね、自分と論じ、「神を待ち望め」と自分に命じています。
43篇の最初の方では、痛々しい感じの言葉が多いのですが、だからといって、彼はこの状況に振り回されることを自分に許しませんでした。
43篇の作者は、決して鉄のような強い人ではありませんでした。涙も流せば、人知れず呻きも漏らします。元気で幸せだった昔のことを思い起しては、今の惨めさを嘆く、そういう私たちと変らない人だったと思います。神を信じていることは間違いありませんが、神に疑問と苛立ちも投げかけています。彼は一人の弱い信仰者でしかありませんでした。
それにも関らず、今申し上げたように、この人はこんな状況でもなお自分を失いませんでした。信仰に立って、強く自分に語り掛けることができました。そうして彼はついに苦難と試練を乗り越えて行くのでした。詩篇43はこういうことを私たちに示しています。
では、何が彼にこういうことを可能とさせたのでしょうか。今日の話の本筋に戻りますが、それは彼が神御自身を一番の喜びとしていたからでした。
しかし、今日はこの点をもうこれ以上詳しくお話しする時間がありません。次回にこの続きをもう少し詳しく学びたいと思います。