御霊と真理による礼拝を
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 4章16節~26節
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 彼女は答えた。「私には夫はいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
4:18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
4:19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、私を信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなた方が父を礼拝する時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、私たちは知って礼拝していますが、あなた方は知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられうのです。」
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られる時、一切のことを私たちに知らせて下さるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこの私がそれです。」ヨハネによる福音書 4章16節~26節
今朝の礼拝は宗教改革記念礼拝として持っています。そこで今朝は、ヨハネの福音書4:16~26、特に23節の主イエスの教えに注目したいと思います。
宗教改革は、聖書の教えから逸脱した点もありました当時のローマ・カトリック教会に対し、ルターが1517年10月31日、ドイツのヴィッテンベルクの教会の扉に95か条の質問状を張り付けたことから始まりました。実際には、既に14世紀の中頃に英国でウィクリフが、また15世紀の末にはイタリアのフィレンツェでサヴォナローラが改革運動をしましたが、上からの権力により弾圧されました。
ルターの場合、状況にも恵まれて全ヨーロッパに及ぶ運動となり、プロテスタントが生れました。改革は聖書論、救済論、教会論、礼拝論など色々な点で聖書に立ち返ろうとしました。
そこで、まず私たちは絶えず宗教改革される必要のあることを覚えたいと思います。ご承知のように、改革派教会とは、正確には「絶えず改革される教会」という意味です。
実は、宗教改革は聖書の中でも見られ、改革は聖書自身が教えていることと言えます。例えば、旧約聖書のⅡ列王記 18章やⅡ歴代誌29~31章が伝えますように、昔、ユダ王国のヒゼキヤ王は、国内の各地で見られた偶像礼拝を徹底的に排除し、改革を断行しました。Ⅱ歴代誌31:20は、彼が「その神、主の前に、良いこと、正しいこと、真実なことを行った」と伝えています。
マラキ書1:6からも、預言者マラキを通して、神ご自身が祭司など聖職者たちの腐敗を取り除き、改革しようとされたことが分かります。
何より神の御子・主イエスご自身、当時のユダヤ人たちの信仰上の問題を正しくし、神への真実な信仰と生活を取り戻す改革をされたと言えます。
では、教会も私たちも、何故、常に改革される必要があるのでしょうか。信仰を神から頂き、洗礼を受けてクリスチャンになっても、私たちの内には罪の性質がまだたくさん残っているからです。その上、堕落した天使であるサタンや悪霊たちも絶えず私たちを狙い、堕落させようとして働いています。ですから、私たちは毎年、10月31日の宗教改革記念日を覚え、改革は絶えず必要なのだという自覚を自らに促すのです。
そこで、今朝は特に正しい礼拝のあり方に焦点を絞り、「御霊と真理による礼拝を」ということを学びたいと思います。真(まこと)の神信仰からの逸脱や堕落は、何と言っても、礼拝についての認識と自覚の不足や不熱心から起るからです。
先程、お読みしましたヨハネ福音書4:16以降は、イエスとサマリアの女との話を伝えています。サマリアは、北のガリラヤと南のユダの間にあった地域であり、昔のイスラエル人と外国人との混血の人たちの子孫が何百年も住み続け、ゲリジム山で礼拝をして来ました。一方、ユダヤ人たちは、エルサレム神殿こそ正しい礼拝場所だと主張し、両者は何かと対立しました。そして礼拝については、場所そのものにもこだわりました。確かに旧約時代には、神はユダヤ・イスラエルの民にエルサレムの重要性をお教えになり、それはその時代には必要なことでした。
けれども、真に重要なことは、ヨハネ福音書4:23でイエスが言われますように、礼拝についての認識、礼拝の態度や自覚など、いわば<礼拝の心>なのです。肝心の礼拝の心を忘れて場所を論じることは、意味がありません。そして、場所ではなく、もっと重要なことを第一とする新しい時が来たことを、イエスは語られたのでした。
では、礼拝の心とは何でしょうか。イエスは言われました。4:23「まことの礼拝者たちが、御霊(みたま)と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられる」と。従って、礼拝の心とは「御霊と真理によって礼拝する」ことであり、父なる神はそのような者を「求めておられる」のです。
それでは、「御霊と真理」とは、どういうことを意味するのでしょうか。
ここは「霊とまこと」と訳すことも可能です。「御霊」と訳されている元のギリシア語は、単に「霊」とも訳せます。ですから、日本語のある聖書では、ここを「霊とまこと」と訳しています。その場合、「霊とまこと」とは「私たちが自分の霊魂を傾け、真実に誠実に」というような意味になるでしょう。分かりやすく言いますと、全身全霊を傾けて誠実に礼拝するということであり、私たち自身の主体性が重要だということです。無論、これはとても大切なことです。
しかし、ここで「真理」と訳されている元のギリシア語は、新約聖書では、私たち人間の誠実さというより、客観的な<神の真理>という意味で使われることが圧倒的に多いのです。従って、ここは<神の霊と神の真理>という意味であり、<御霊・聖霊>と、<神の真理を伝える聖書>と取って良いと思われます。天の父なる神は、<御霊と聖書>によって礼拝することを私たちに求めておられるということです。
では、具体的にはこれはどういうことでしょうか。
まず、御霊によって神を礼拝するとはどういうことを指すのかを学びます。
第一に、私たちは自分の不信仰と弱さを覚え、まず心から謙り(へりくだり)、御霊の強いご支配と導きとを自分の上に切に祈り求めて礼拝することと言えるでしょう。
私たちには、やむを得ない事情の時もありますが、時々、礼拝になかなか集中できない弱さがあります。礼拝中でも他のことを考え、他のことを思い出し、他のことを隠れて行い、会堂の外の音や礼拝中の誰かのことが気になるなど、心が上の空(うわのそら)ということはないでしょうか。ですから、そういう自分にハッと気付いたなら、あるいはもっと言うなら、そういうことになる前に、御霊のご支配を切に求め、礼拝に集中しようと是非努めたいと思います。
第二に、自分の霊的理解力の乏しさを覚えて、御霊の強い助けを切に祈り求めたいと思います。イエスは言われました。ヨハネ福音書16:13「その方、すなわち、真理の御霊が来ると、あなた方をすべての真理に導いて下さいます。」
御霊が私たちに働かれる時、罪人ではありましても私たちの霊的理解力は必ず高められ、神とその御心が一段とよく分るようになります。ですから、是非、本気で御霊が私たちに働いて下さることを求めたいと思います。
第三に、御霊は私たちに、かつて教えられた大切なことを思い出させ、私たちの信仰の確信や喜び、また希望も高められます。イエスは言われました。ヨハネ福音書14:26「助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなた方にすべてのことを教え、私があなた方に話したすべてのことを思い起させて下さいます」と。これは、のちに、特にペンテコステの時(使徒の働き2章を参照)に見事に実現しましたが、その時に限定されるのではありません。
私たちは大切なことでも忘れやすい者ですね。しかし、それをただ嘆くだけではなく、御霊・聖霊が私たちに神の真理をより多く、また鮮明に思い起させて下さることを、真剣に祈り求めて、礼拝を捧げたいと思います。
次に「真理(聖書の御言葉)によって)礼拝する」という点を学びます。
第一に、例えば、説教者が話したことであっても、私たちはそれを聖書によって吟味し、検討し、正しい時にはそれを受け入れ、そうでない時には保留するという位のことを忘れないでいたいと思うのです。
旧約時代もそうでしたし、主イエスが世に来られた時も、ユダヤでは宗教の専門家たちが民衆に色々教えました。しかし、中には間違った教えも少なくありませんでした。16世紀にヨーロッパで宗教改革が起った時も、教会が間違ったことも教えていたという事実がありました。ですから神は、聖書という客観的真理を私たちに下さったのでした。従って、私たちは聖書により絶えず教えを吟味したいと思います。
第二に、礼拝で心に深く残った聖書の教えを、是非、書き留め、それを自分の心に深く刻み、記憶したいと思います。すると、私たちが大きく困惑し、自分が激しく試みられるような様々な時でも、真理である大切な聖書の御言葉が思い出され、それは必ず私たちを励まし、慰め、勇気や力や希望、忍耐力を与え、また私たちを罪と不信仰からも固く守るでしょう。
第三に、教えられた聖書の教えに従うこと、つまり、御言葉をただ聞きっ放しというのではなく、是非、行う者、実践する者でありたいと思います。それは必ず私たちを祝福します。ヤコブの手紙1:22~25は言います。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。御言葉を聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」
例えば、Ⅰテサロニケ人への手紙5:16~18は教えます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」ヤコブの手紙1:19は教えます。「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」これらは皆、具体的な教えですが、実際にこれらを行なってみますと、私たちは必ず神の教えの素晴らしさを味わい知ることを許されるでしょう。
御霊と真理による礼拝は、どんなに私たちを祝福し、強め、高め、清め、神に喜ばれる者にして行くことでしょうか。教会全体も絶えず繰り返し覚え、私たち一人一人も自分の宗教改革に絶えず、また誠実に励みたいと思います。神は、そういう私たちを求めておられます。私たちを真に祝福するためです。