小さい者への神の愛
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 18章10節~14節
18:10 あなた方は、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなた方に言いますが、天にいる、彼らの御使い(みつかい)たちは、天におられる私の父の御顔をいつも見ているからです。
18:12 あなた方はどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しにでかけないでしょうか。
18:13 まことに、あなた方に言います。もしその羊を見つけたなら、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。
18:14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなた方の父の御心ではありません。
マタイによる福音書 18章10節~14節
今朝は「小さい者への神の愛」という大切なことをご一緒に学びたいと思います。
イエスは弟子たちに言われました。10節「あなた方は、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。」
「この小さい者たち」とは、どんな人を指しているのでしょうか。イエスはこの表現を6節でも使っておられ、そこは1~5節が伝える内容と関係があります。そこで、そこを少し見てみます。
ある時、弟子たちはイエスに尋ねました。1節「天の御国(みくに)では、いったい誰が一番偉いのですか。」彼らは長らくイエスと共にいて神の御心を教えられ、またイエスの聖い(きよい)ご人格に接して来ました。それにも関らず、未だ(いまだ)に彼らは「誰が一番偉いのか」といったこの世的なことに囚われていました。何と残念なことでしょう。
そこで、イエスは2節「一人の子供を呼び寄せ」、4節「誰でもこの子供のように自分を低くする人が、天の御国で一番偉い」と、つまり、謙り(へりくだり)こそ、神の前で一番尊いのだとお教えになりました。「小さい者」とは、要するに、小さい子供のように特別な知識も能力も社会的地位もなく、ただ神を信じる極(ごく)平凡な人を指します。
しかし、「誰が一番偉いのか」などという世俗的な関心が強いと、人間はついそれらを尺度にして他の人を評価し、何もない人を無意識の内に、10節でイエスが言われるように「軽んじ」る危険性があります。そして、そういうことが小さな人たちを躓(つまず)かせ、大切な神信仰から離れさせ、その魂を滅ぼしかねません。何と恐ろしいことでしょう。ですから、イエスは10節「気をつけなさい」と強く弟子たちに注意されるのでした。
改めて言うまでもなく、このことには今日の私たちも大いに気をつける必要があります。では、私たちはどうすれば良いでしょう。
その第一は、何といっても自分が謙虚であることです。
これは、一日の中で何回振り返ってもいいことです。今朝の礼拝では、この後、聖餐式があります。これは洗礼を受け、神と教会の前に信仰を告白しているクリスチャンだけが与れますが、クリスチャンは自分を吟味することを毎回言われています。今日学んでいることから言いますと、この自己吟味において、私たちは何よりもまず自分が神と人の前で本当に謙虚であるかどうかを鋭く問いたいと思います。そして自分がそうでないと思うなら、直ちに心の中で「神様、未だ謙虚でなく、傲慢な私を、主イエス・キリストの故にお赦し下さい。私をどうか低く低くして下さい」と心から祈りたいと思います。
それでは、次に私たちがしっかり心に留めるべきことは何でしょうか。「小さい者」とイエスが呼ばれる人たちへの神の愛です。私たちは、彼らへの神の愛を繰り返し心の中で確認し、何度でも自分自身に教育したいと思います。
では、神の愛のどういう点を、イエス・キリストにより私たちはここで教えられるでしょうか。
一つは、「小さい者」と言われる人たちに神がいつも関心を持たれ、そして彼らを守ろうとしておられることです。イエスは10節「天にいる、彼らの御使い(みつかい)たちは、天におられる私の父の御顔をいつも見ている」と言われます。
ここで、11節が抜けていることについて少し説明しておきます。古代の写本の中には「人の子は、失われた者を救うために来たのです」という言葉が入っているものがあります。ルカ福音書19:10のイエスの言葉を後の時代の人が加えたようです。しかし、非常に古い有力な写本にはありません。ですから、日本聖書刊行会は11節を省いて印刷しています。
話を戻します。
神は小さな者のために御使いを送られ、その御使いが天の父なる神の御顔をいつも見ているとは、神を信じる小さな人たちのために御使いがいつも神に執り成し、そのようにして神が彼らを守ろうとしておられることを意味します。詩篇34:7は「主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される」と言います。勿体なくも、神は小さな人たちを愛され、つねに関心を傾け、守ろうとしておられるのです。
無論、神は私たち皆に関心をお持ちです。嬉しいですね。けれども、小さな者にいつも関心を寄せられ、天使を用いてでも守ろうとしておられるそういう神の熱い愛を、特によく心に留めたいと思います。すると、私たちは決してそういう方々を軽んじることはできないはずです。
二つ目に進みます。何でしょう。神が一人一人を個別に愛しておられることです。
イエスは言われます。12~13節「あなた方はどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しにでかけないでしょうか。まことに、あなた方に言います。もしその羊を見つけたなら、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。」
聖書を見ると分りますが、この譬をイエスは色々な時に話しておられますね。これは紀元1世紀当時のユダヤに人たちにはとても分りやすかったでしょう。
さて、羊飼いは、自分の持っている百匹の羊の内、一匹がいなくなっても平気などということは決してありません。羊飼いにとっては、どの羊も大切です。愛しているからです。同じように、神は私たちを決して十把一絡げ(じっぱひとからげ)ではなく、一人一人を個別に愛しておられるのです。何ともったいないことでしょう。
クリスチャンであっても時々、いつまでたっても不信仰で罪深い自分が嫌いになり、人と比べて自分なんかどうでもいい存在だと考え、この世から消えたいなどと思うことも、あるいは、あるかも知れません。しかし、イエスは神を見上げなさいと言われます。神は何と御子を賜ったほどに私たちを本当に愛しておられるのです。ですから、誰一人として、滅びることは神の御心ではありません。エゼキエル書33:1で神は言われます。「私は決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。」これが神の愛なのです。
そしてこの愛を、神は皆に個別に向けておられます。そうであるなら、私たちは、色々な事情で信仰の弱っている人や教会に今来られない人、また教会生活の難しい人などを、どうして軽んじて良いでしょうか。ここでも、私たちは決して自分が傲慢であってはならず、自分を低くし、神の愛と憐みを見上げることを教えられます。主イエスは言われます。14節「このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなた方の父の御心ではありません。」
神の愛の三つ目の特徴を心に留めたいと思います。それは何でしょう。忍耐強いことです。
もし羊飼いが、羊への愛が薄く、気が短かったらどうでしょうか。迷い出た一匹の羊を捜すことは、とても面倒であり、少し捜して、見つからないなら、すぐやめるでしょうね。しかし、羊を本当に愛する羊飼いは違います。忍耐強く捜します。そして遂に見つけます。
神も同じです。神は、私たち罪人に対してどんなに忍耐強いお方でしょうか。神が短気な方であったなら、私たちは誰一人救われず、全員が永遠の死、永遠の滅びに至っていたことでしょう。
しかし、神は驚くほど忍耐強い方であられます。これまでも、私たちが自分の罪と不信仰に気付き、悔い改め、主イエス・キリストに立ち返ることを、実に忍耐強く待っておられたのです。それは神が本当に私たちを愛しておられるからです。詩篇103:8は言います。「主は憐み深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。」
神が忍耐強いお方なのですから、私たちも、子供たちの信仰の成長についても、なかなか信仰が成長しないと思える人たちや、教会と<つかず離れず>といった人たちについても、来週の礼拝でまた学びますが、マタイ福音書18:19で「あなた方の内の二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださいます」と言われる主イエス・キリストの約束を堅く信じて、忍耐強く祈りたいと思います。また夫々の人の背後にある、でも私たちの知らない事情にも配慮しつつ、是非、粘り強く関り続けたいと思います。