聖書の言葉 5節 私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は何もすることが出来ないのです。 (2017年度版 新改訳聖書)ヨハネによる福音書 15章5節 メッセージ 葡萄の枝が木に留まるように、私たちも神の御子イエス・キリストに留まっているなら、必ず神に喜ばれ、かつ私たちにとっても感謝な実を結ばせられます。このことをイエスの語られた葡萄の木と枝の譬から学んでいます。 その実として、まず永遠の命について、次にガラテヤ5:22、23「霊の結ぶ実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という教えから、前回は「愛」という実を結ばせられることを学びました。今日は「喜び」に進みます。 私が20歳の時、初めて行った教会で強く印象に残ったものの一つは、クリスチャンに笑顔の多いことでした。しかし、宗教全般に懐疑的な当時の私は、それは新来会者を取り込むためのわざと作った笑顔や喜びではないかと思いました。 しかしその後、自分自身の問題、つまり、自分の罪と不信仰を見つめ、こんな自分が罪と永遠の裁きから救われるためには、全世界の罪を背負い、十字架で命を献げて下さった御子イエス・キリスト.以外にないことに行き着き、イエスを信じ、クリスチャンになりました。そして教会に繋がり、聖書を学び、イエスから離れないようにしました。 沢山失敗もしました。クリスチャンとして気負い過ぎたため、却って人を躓かせたこともあったのではないかと思います。信仰上の波もありました。が、とにかく教会に繋がり、教会学校教師や青年会委員を初め、不十分ですが色々奉仕をし、イエス・キリストから離れませんでした。 すると、神の救いの愛、すなわち、只々イエス・キリストへの信仰だけで、本当に神が私のあらゆる罪と咎を赦し、ご自分の子にして下さり、罪から洗い清め、永遠の天国を用意して下さっていることの嬉しさが徐々に実感出来、それに伴い、喜びも自然に増してきました。 面倒な問題や苦しい試練にも当然、何度か遭いました。しかし、どんなに考えても分らないことは神に委ね、一層神の導きを求め、むしろ私の分っていることと私のすべきこと、特にローマ8:28の「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」という御言葉から、神を愛することこそ、今、自分に問われ、また求められていることと知り、神を愛することに心を傾けました。すると、本当に不思議なことに、いつの間にか問題を乗り越えさせられていたことが何度もありました。こうして喜びが自分の内に深く静かに根付いていったと思います。 使徒パウロはどうでしょうか。Ⅰテサロニケ5:16で「いつも喜んでいなさい」と教え、またピリピ4:4で「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と彼は何度もピリピ教会の信徒に「喜びなさい」と勧めています。実はその時、彼自身は牢獄に繋がれ、裁判次第では命すら危険な状態でした。その上、1章に書いていますが、彼を妬む他のクリスチャンたちからの意地悪な苦しみも味わっていました。 しかしパウロには、もう肉体の死やこの世での艱難や苦しみを遥かに凌駕するキリストにある喜び、すなわち、神の救いの愛についてのキリスト・イエスにある絶対的確信と、この世が与えることも奪うことも出来ない神との永遠の交わりの喜びがありました。ローマ8:38、39で彼はこう述べています。「私はこう確信しています。死も、命も、御使い(みつかい)たちも、支配者たちも、今あるものも、後(のち)に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、その外のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」 「私は葡萄の木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます」という主イエスの約束が、パウロの内に見事に実現しているのを見ます。 ところで、喜びと愛の関係を見ておきたいと思います。ヨハネ15:5の葡萄の木と枝の喩のあと、イエスは9節で、ご自分の愛に留まること、そしてそれは10節、イエスの戒めを守ることであり、12節、その戒めとは互いに愛し合うことだ、と言われます。そういう文脈でイエスは言われます。11節「私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方が喜びで満ち溢れるようになるため」だと。つまり、私たちがイエスの愛に留まり、それ故、互いに愛し合うことと、御霊(みたま)の下さる喜びは密接に関っているということです。しかもイエスは、そのようにして、ご自分の喜びが私たちの内にあるようになると言われます。私たちがイエスとその愛に留まり、それ故、互いに愛し合う!そこには何と素晴らしい喜びが約束されていることでしょう!この大切なことを忘れないでいたいと思います。 最後にもう一つ、人間として最も尊い喜びについて見たいと思います。ウェストミンスター小教理問答の問1は述べます。「人の主な目的は、神の栄光を顕し、永遠に神を喜ぶことです。」 色々な方法で神を喜ぶことが出来ますが、先程私たちが見て来た、つまり、イエス・キリストに留まり、特にイエスの愛と御言葉に留まり、それ故、私たちが互いに愛し仕え合うということ。このことにより、特に「永遠に神を喜ぶ」という人間としてこれ以上ない麗しい幸いな喜びを、是非ご一緒に味わい続けることを許されたいと思います。 関連する説教を探す 2020年の祈祷会 『ヨハネによる福音書』
葡萄の枝が木に留まるように、私たちも神の御子イエス・キリストに留まっているなら、必ず神に喜ばれ、かつ私たちにとっても感謝な実を結ばせられます。このことをイエスの語られた葡萄の木と枝の譬から学んでいます。
その実として、まず永遠の命について、次にガラテヤ5:22、23「霊の結ぶ実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という教えから、前回は「愛」という実を結ばせられることを学びました。今日は「喜び」に進みます。
私が20歳の時、初めて行った教会で強く印象に残ったものの一つは、クリスチャンに笑顔の多いことでした。しかし、宗教全般に懐疑的な当時の私は、それは新来会者を取り込むためのわざと作った笑顔や喜びではないかと思いました。
しかしその後、自分自身の問題、つまり、自分の罪と不信仰を見つめ、こんな自分が罪と永遠の裁きから救われるためには、全世界の罪を背負い、十字架で命を献げて下さった御子イエス・キリスト.以外にないことに行き着き、イエスを信じ、クリスチャンになりました。そして教会に繋がり、聖書を学び、イエスから離れないようにしました。
沢山失敗もしました。クリスチャンとして気負い過ぎたため、却って人を躓かせたこともあったのではないかと思います。信仰上の波もありました。が、とにかく教会に繋がり、教会学校教師や青年会委員を初め、不十分ですが色々奉仕をし、イエス・キリストから離れませんでした。
すると、神の救いの愛、すなわち、只々イエス・キリストへの信仰だけで、本当に神が私のあらゆる罪と咎を赦し、ご自分の子にして下さり、罪から洗い清め、永遠の天国を用意して下さっていることの嬉しさが徐々に実感出来、それに伴い、喜びも自然に増してきました。
面倒な問題や苦しい試練にも当然、何度か遭いました。しかし、どんなに考えても分らないことは神に委ね、一層神の導きを求め、むしろ私の分っていることと私のすべきこと、特にローマ8:28の「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」という御言葉から、神を愛することこそ、今、自分に問われ、また求められていることと知り、神を愛することに心を傾けました。すると、本当に不思議なことに、いつの間にか問題を乗り越えさせられていたことが何度もありました。こうして喜びが自分の内に深く静かに根付いていったと思います。
使徒パウロはどうでしょうか。Ⅰテサロニケ5:16で「いつも喜んでいなさい」と教え、またピリピ4:4で「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と彼は何度もピリピ教会の信徒に「喜びなさい」と勧めています。実はその時、彼自身は牢獄に繋がれ、裁判次第では命すら危険な状態でした。その上、1章に書いていますが、彼を妬む他のクリスチャンたちからの意地悪な苦しみも味わっていました。
しかしパウロには、もう肉体の死やこの世での艱難や苦しみを遥かに凌駕するキリストにある喜び、すなわち、神の救いの愛についてのキリスト・イエスにある絶対的確信と、この世が与えることも奪うことも出来ない神との永遠の交わりの喜びがありました。ローマ8:38、39で彼はこう述べています。「私はこう確信しています。死も、命も、御使い(みつかい)たちも、支配者たちも、今あるものも、後(のち)に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、その外のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
「私は葡萄の木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます」という主イエスの約束が、パウロの内に見事に実現しているのを見ます。
ところで、喜びと愛の関係を見ておきたいと思います。ヨハネ15:5の葡萄の木と枝の喩のあと、イエスは9節で、ご自分の愛に留まること、そしてそれは10節、イエスの戒めを守ることであり、12節、その戒めとは互いに愛し合うことだ、と言われます。そういう文脈でイエスは言われます。11節「私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方が喜びで満ち溢れるようになるため」だと。つまり、私たちがイエスの愛に留まり、それ故、互いに愛し合うことと、御霊(みたま)の下さる喜びは密接に関っているということです。しかもイエスは、そのようにして、ご自分の喜びが私たちの内にあるようになると言われます。私たちがイエスとその愛に留まり、それ故、互いに愛し合う!そこには何と素晴らしい喜びが約束されていることでしょう!この大切なことを忘れないでいたいと思います。
最後にもう一つ、人間として最も尊い喜びについて見たいと思います。ウェストミンスター小教理問答の問1は述べます。「人の主な目的は、神の栄光を顕し、永遠に神を喜ぶことです。」
色々な方法で神を喜ぶことが出来ますが、先程私たちが見て来た、つまり、イエス・キリストに留まり、特にイエスの愛と御言葉に留まり、それ故、私たちが互いに愛し仕え合うということ。このことにより、特に「永遠に神を喜ぶ」という人間としてこれ以上ない麗しい幸いな喜びを、是非ご一緒に味わい続けることを許されたいと思います。