2025年10月02日「イエス・キリストによる救いー私が私としてー」
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イエス・キリストによる救いー私が私としてー
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 6章37節~40節
聖書の言葉
6:37 父が私に与えて下さる者はみな、私のもとに来ます。そして、私のもとに来る者を、私は決して外に追い出したりはしません。
6:38 私が天から下さって来たのは、自分の思いを行うためではなく、私を遣わされた方の御心(みこころ)を行うためです。
6:39 私を遣わされた方の御心は、私に与えて下さった全ての者を、私が一人も失うことなく、終わりの日に甦らせることです。
6:40 私の父の御心は、子を見て信じる者がみな、永遠の命を持ち、私がその人を終わりの日に甦らせることなのです。ヨハネによる福音書 6章37節~40節
メッセージ
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今日は、主イエスがご自分を信じる者に下さる救い、あるいは永遠の命と呼ばれるものの一つの側面を少しお話致します。
今読みましたヨハネ福音書6:39、40をもう一度読みます。イエスは、父なる神から託されたご自分の使命、すなわち、ご自分を信じる者たちにご自分がお与えになる世の終りの復活と永遠の命について、こう語っておられます。
「私を遣わされた方の御心は、私に与えて下さった全ての者を、私が一人も失うことなく、終りの日に甦らせることです。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を持ち、私がその人を終わりの日に甦らせることなのです。」
注目したいのは、「私が一人も失うことなく」とか「その人」とかと言って、ご自分を信じる個々人をイエスが強調しておられる点です。私たちが主イエスを自分の救い主として心から信じ、受け入れ、寄り頼むなら、私たちはどこまでも「私」という固有の存在として永遠の命を頂き、また永遠の神の国に相応しい者に復活させられるということです。聖書が信仰者に約束する復活という救いの最終的なものは、私という固有性(アイデンティティ)を伴った祝福なのです。
もう十数年前になります。大阪城の南にあるNHKホールで、子供たちによるミュージカル『葉っぱのフレディ』がありました(日野原重明氏企画)。主人公はフレディですが、重要なダニエルの役を務めた少年が私と妻の知人の息子さんです。そ当時大阪に住んでいた私は、妻と一緒にこれを観に行きました。子供たちが見事に演じ、ミュージカルとして良い内容でした。
そこで、レオ・バスカーリアの原作も後で読んでみました。こういう内容です。
葉っぱのフレディは、春、大きな梢に近い太い枝に生れ、夏には立派な体に成長します。数え切れない仲間の葉っぱに囲まれ、皆と楽しいことを沢山体験します。春風に誘われ、くるくる踊る練習とか、日光浴の時はじっとしている方が良いとか、夕立が来ると一斉に雨に体を洗ってもらうとか、です。
親友のダニエルは誰よりも大きく、考え深くて物知りです。月や太陽や季節のこと、人間のために涼しい木陰を作るのが葉っぱの仕事であることもフレディに教えてやります。
しかし、楽しい夏は駆け足で通り過ぎて行き、秋になり、突然、寒さと霜が襲ってきました。フレディも仲間もぶるぶる震えました。そして皆一気に紅葉しました。
やがて冷たい風が襲って来ました。葉っぱたちは「寒いよう、恐いよう」と怯えました。その時、ダニエルが言います。「皆、引越しをする時が来たんだ。とうとう冬が来たんだ。僕たちは一人残らず、ここからいなくなるんだ。」
いつの間にか、とうとうダニエルとフレディだけが残りました。フレディは胸が一杯になり、「引越しをするとか、ここからいなくなるとか、君は言ってたけれど、それは死ぬということでしょう?僕、死ぬのが恐いよ」と言います。
ダニエルは静かにこう答えます。「その通りだね。でも、考えてごらん。変化しないものは一つもないんだよ。死ぬというのも、変わることの一つなのだよ。」その日の夕暮れ、金色の光の中をダニエルは枝を離れて行きました。「さようなら、フレディ。」
次の朝、迎えに来た風に乗ってフレディも枝を離れます。そして柔らかい雪の上に降りました。意外に心地良かったのでした。そしてダニエルの言葉を思い出しました。「命というのは、永遠に生きているのだ。」フレディは目を閉じ、眠りに入りました。
フレディは知りませんでしたが、冬が終ると春が来て、雪は解け、水になり、枯れ葉のフレディはその水に混じり、土に溶け込んで、木を育てる力になるのです。命は役割があって循環し、死は自然なことと説き、子供たちに死を考えさせる興味深いお話です。
これはこれで良いでしょう。教えられる所もあります。
しかし、正直なところ、クリスチャンである私には、何故か寂しさと違和感が後に残りました。神の御子イエスの下さる永遠の救い、永遠の命と、どう違うのでしょうか。
それは、死んだ後、私たちは、汎神論が言うように単に「命」と呼ぶ抽象的なものに還元され、またそれがぐるぐると循環を繰り返すのではなく、神の独り子イエスが命まで献げ、愛して下さっている私たち一人一人の人格が失われることなく、主にある兄弟姉妹たちとの再会も許され、神の永遠の愛の内に生かされるという最高の喜びを用意されていることです。神から個性を与えられている私たちを、一人一人、愛をもって選び、尊び、罪を赦し、救い、清め、個別に名前を呼んで私たちを永遠に喜び続けて下さる主イエス・キリストによる救いの素晴らしさに、改めてしっかり感謝したいと思います。