Youtube動画 Youtubeで直接視聴する 聖書の言葉 1:7 主を恐れることは知識の初め。 愚か者は知恵と訓戒を蔑む。箴言 1章7節 メッセージ 先程はA兄弟の洗礼式を行うことができ、心から神を賛美致します。神の栄光を現わし、神を喜び、神に喜ばれることに、これからもますます皆で励みたいと思います。 今朝は「謙虚さは知恵の始まり」と題して御言葉を学ぶことにします。 神の御言葉・聖書には、大切な教えが沢山あります。その最も大切なものの一つは、私たちが真(しん)に謙虚であることです。箴言1:7の1行目は「主を恐れることは知識の初め」と言います。 「主を恐れる」とは、天地を造られた真(まこと)の神を恐れ、心の奥まで謙虚であることです。「知識」と訳されている元のヘブル語には「知恵」という意味もあります。1行目と対(つい)になっている2行目は「知恵」に言及しています。従って、1行目の「知識」も「知恵」に結びつく知識と取って良く、「知恵」と理解してもかまわないでしょう。 聖書では、「知恵」は単に物事をうまく進められる頭の良さや要領の良さではありません。この全宇宙を造られた永遠者・絶対者であられ、かつ私たち罪人にご自分の独り子(ひとりご)を救い主イエスとして賜った真(まこと)の神との幸いな関係に私たちを生かし、様々な点で私たちを神の恵みに与(あずか)らせる能力を指します。 そこで、謙虚さが私たちに与える神の恵みを少し具体的に見たいと思います。どういうものがあるでしょうか。 第一に、謙虚さは日常生活においても多くの感謝や喜びに私たちに与らせることができます。 傲慢な人にも喜びはあります。物事をうまく進めることができ、人から褒められ、高く評価された時などは、満足感があり、己を誇り、自慢したい位の喜びがあるでしょう。しかし、どちらかと言いますと、傲慢な人は、他の人をよく批判し、また物事がうまく行っても当然だという気持が強いため、感謝が少ないでしょう。むしろ、人や物事への不満が多く、苛々しやすく、怒りやすいですね。 一方、謙虚な人は違います。自分が謙って(へりくだって)いますので、他の人の良い所を見つけやすく、人への感謝が自然と多くなります。仕事や勉強でもうまくいった時には、とても嬉しく、喜びが多いです。 それだけではありません。神の前で自分の不信仰や罪深さをよく知っている謙虚な人は、神の恵みや憐れみに気付きやすいです。自分の視点が低いため、例えば、道端に生えている雑草の小さな花を見ても、「あぁ、神様、あなたは何と可愛い花を造られるお方でしょう!」と感動し、感謝し、喜びに満たされます。季節の折々に、また色々な時に、自然界が見せる絶妙な美しさや神秘さ、幼い子供たちの可愛いしぐさ、ペットの動物の優しさやユーモラスな姿を見ても、造り主なる神の愛や美しさ、ユーモアを知り、感謝と喜びを覚えないではおられません。 日常生活の中で、こういう感謝や喜びを、謙虚さは私たちにより多く与えます。低い穏やかな視線で物事を見るからです。 無論、家族や友人の様々な不幸の時や自分が辛い試練に遭う時には、謙虚な人も自分を失いそうになる位、辛く、悲しいです。けれども、神は謙虚な人を決してほうってはおかれません。神は謙った人の近くにおられ、必ず支えて下さいます。詩篇34:18は言います。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる」と。 以上、簡単ですが、日常生活でも、謙虚さが私たちを感謝や喜びをより多く覚える者にすることを見ました。 二つ目に進みます。何でしょう。謙虚さは私たちをますます神に喜ばれる者にします。 傲慢な人は、つい自分の知識と経験に頼って人や物事を判断し、自己満足に陥り、ナルシシストになりやすいですね。しかし、それでは神に喜ばれません。自分第一・自分ファースト、つまり自己中心は、何より神の嫌われる罪であり、自分を滅ぼしかねません。聖書はその実例にこと欠きません。旧約聖書から分りますが、高ぶったエジプト、自分を神のように誇ったアッシリアやバビロンなどは、全て歴史の中で滅んでいきました。箴言16:18は言います。「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」 一方、謙虚さは、人を神に喜ばれる者にします。その意味で、人を知恵ある者に致します。 神に喜ばれることは何でしょうか。マタイ福音書22:37~40でイエスが言われますように、造り主なる真(まこと)の神と、その神が造られた隣人を愛すること、つまり、神と人を大切にすることです。 謙っていますと、私たちは他の人からも色々なことを学べます。例えば、人の良くない態度や行動や言葉に接しても、それを批判するだけでなく、反面教師として、自分をそれらから遠ざけることができます。また、人の良い点を学ぶことができ、聖書からその良さを一層確認させられ、そうして神の御心をより豊かに深く学び、身に付けることができます。 そして、それを行うことで、人を大切にし、神を大切にし、つまり、隣人と神を愛する者とされ、神にますます喜ばれる者にされます。何と幸いでしょうか。箴言3:34は言います。「嘲る者を主は嘲り、謙った者には恵みを注がれる。」イザヤ書57:15で神は言われます。「私は、高く聖なる所に住み、砕かれた人、謙った人と共に住む。謙った人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」 三つ目の点を見たいと思います。何でしょうか。 謙虚さは、永遠の命を私たちの内に確かにし、やがて天の御国で、父なる神、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神という愛に満ちた三位一体の神との、これ以上ない麗しい交わりに与らせる知恵を私たちに与えます。 今までの話から分かりますように、傲慢さや高ぶりは、永遠者・絶対者なる真(まこと)の神の前で私たちを愚かな者にし、神に一層嫌われる者にします。実際には、傲慢さは私たちを人からも嫌われ、陰で笑われる者にします。 一方、謙虚さは、私たちを自ずと心優しい温和な者にしますので、この社会でも色々な人から好意を持たれやすい者にします。 それだけではありません。傲慢さと謙虚さは、死後の永遠の世界とも大いに関係します。 傲慢な人は、自分を過信して自分を省みず、神を恐れず、人をよく批判し、人をよく裁きます。けれども、死後、それらは全てそっくり自分に返って来ます。イエスは言われました。マタイ福音書7:2「あなた方は、自分が裁く、その裁きで裁かれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです」と。 一方、神の前に謙虚な人は、自分の弱さも罪深さもよく知っていますので、人に対しても優しく、憐み深くなります。そして、弱い人や苦しむ人のために熱心に神に祈り、支えて上げようとします。その全てを神はご存じです。そして死後、神は謙虚な人を大いなる憐れみをもって天の国へ歓迎し、永遠に祝福して下さいます。イエスは言われました。マタイ福音書5:7「憐み深い者は幸いです。その人達は憐みを受けるからです。」 ここで、念のために確認しておきます。謙虚さは、気の弱いことではありません。また、周囲のどんな問題にも沈黙することではありません。主イエスは神の独り子ですのに、何と謙ったお方でしょうか。けれども、パリサイ人たちや律法学者たちのひどい偽善に対しては、マタイ福音書23章が伝えますように、イエスはとても厳しくそれを非難されました。そのままでは、彼らは永遠の滅びに至りますし、一般の多くの人たちにも悪い影響を与えるからです。こういう点はよく踏まえておきたいと思います。 謙虚さは他にも、例えば、罪と戦い、罪に打ち勝つ知恵や、むやみに人と衝突せず、もっと大切なことを優先して推し進める知恵も与えます。沢山あります。でも、今朝はこの辺りでやめておきます。 どうか、父なる神を真に恐れ、愛して、私たちに本当の謙りをお示し下さった御子・主イエス・キリストを絶えず見つめ、神の豊かな恵みに与らせる能力である知恵を、私たちも是非与えられ、またその知恵を増し加えられますように! そのためにも、教会生活の中で謙虚さをますます互いに学び合い、知恵の源である聖書に皆で一層親しみたいと思います。 関連する説教を探す 2025年の日曜朝の礼拝 『箴言』
先程はA兄弟の洗礼式を行うことができ、心から神を賛美致します。神の栄光を現わし、神を喜び、神に喜ばれることに、これからもますます皆で励みたいと思います。
今朝は「謙虚さは知恵の始まり」と題して御言葉を学ぶことにします。
神の御言葉・聖書には、大切な教えが沢山あります。その最も大切なものの一つは、私たちが真(しん)に謙虚であることです。箴言1:7の1行目は「主を恐れることは知識の初め」と言います。
「主を恐れる」とは、天地を造られた真(まこと)の神を恐れ、心の奥まで謙虚であることです。「知識」と訳されている元のヘブル語には「知恵」という意味もあります。1行目と対(つい)になっている2行目は「知恵」に言及しています。従って、1行目の「知識」も「知恵」に結びつく知識と取って良く、「知恵」と理解してもかまわないでしょう。
聖書では、「知恵」は単に物事をうまく進められる頭の良さや要領の良さではありません。この全宇宙を造られた永遠者・絶対者であられ、かつ私たち罪人にご自分の独り子(ひとりご)を救い主イエスとして賜った真(まこと)の神との幸いな関係に私たちを生かし、様々な点で私たちを神の恵みに与(あずか)らせる能力を指します。
そこで、謙虚さが私たちに与える神の恵みを少し具体的に見たいと思います。どういうものがあるでしょうか。
第一に、謙虚さは日常生活においても多くの感謝や喜びに私たちに与らせることができます。
傲慢な人にも喜びはあります。物事をうまく進めることができ、人から褒められ、高く評価された時などは、満足感があり、己を誇り、自慢したい位の喜びがあるでしょう。しかし、どちらかと言いますと、傲慢な人は、他の人をよく批判し、また物事がうまく行っても当然だという気持が強いため、感謝が少ないでしょう。むしろ、人や物事への不満が多く、苛々しやすく、怒りやすいですね。
一方、謙虚な人は違います。自分が謙って(へりくだって)いますので、他の人の良い所を見つけやすく、人への感謝が自然と多くなります。仕事や勉強でもうまくいった時には、とても嬉しく、喜びが多いです。
それだけではありません。神の前で自分の不信仰や罪深さをよく知っている謙虚な人は、神の恵みや憐れみに気付きやすいです。自分の視点が低いため、例えば、道端に生えている雑草の小さな花を見ても、「あぁ、神様、あなたは何と可愛い花を造られるお方でしょう!」と感動し、感謝し、喜びに満たされます。季節の折々に、また色々な時に、自然界が見せる絶妙な美しさや神秘さ、幼い子供たちの可愛いしぐさ、ペットの動物の優しさやユーモラスな姿を見ても、造り主なる神の愛や美しさ、ユーモアを知り、感謝と喜びを覚えないではおられません。
日常生活の中で、こういう感謝や喜びを、謙虚さは私たちにより多く与えます。低い穏やかな視線で物事を見るからです。
無論、家族や友人の様々な不幸の時や自分が辛い試練に遭う時には、謙虚な人も自分を失いそうになる位、辛く、悲しいです。けれども、神は謙虚な人を決してほうってはおかれません。神は謙った人の近くにおられ、必ず支えて下さいます。詩篇34:18は言います。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる」と。
以上、簡単ですが、日常生活でも、謙虚さが私たちを感謝や喜びをより多く覚える者にすることを見ました。
二つ目に進みます。何でしょう。謙虚さは私たちをますます神に喜ばれる者にします。
傲慢な人は、つい自分の知識と経験に頼って人や物事を判断し、自己満足に陥り、ナルシシストになりやすいですね。しかし、それでは神に喜ばれません。自分第一・自分ファースト、つまり自己中心は、何より神の嫌われる罪であり、自分を滅ぼしかねません。聖書はその実例にこと欠きません。旧約聖書から分りますが、高ぶったエジプト、自分を神のように誇ったアッシリアやバビロンなどは、全て歴史の中で滅んでいきました。箴言16:18は言います。「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」
一方、謙虚さは、人を神に喜ばれる者にします。その意味で、人を知恵ある者に致します。
神に喜ばれることは何でしょうか。マタイ福音書22:37~40でイエスが言われますように、造り主なる真(まこと)の神と、その神が造られた隣人を愛すること、つまり、神と人を大切にすることです。
謙っていますと、私たちは他の人からも色々なことを学べます。例えば、人の良くない態度や行動や言葉に接しても、それを批判するだけでなく、反面教師として、自分をそれらから遠ざけることができます。また、人の良い点を学ぶことができ、聖書からその良さを一層確認させられ、そうして神の御心をより豊かに深く学び、身に付けることができます。
そして、それを行うことで、人を大切にし、神を大切にし、つまり、隣人と神を愛する者とされ、神にますます喜ばれる者にされます。何と幸いでしょうか。箴言3:34は言います。「嘲る者を主は嘲り、謙った者には恵みを注がれる。」イザヤ書57:15で神は言われます。「私は、高く聖なる所に住み、砕かれた人、謙った人と共に住む。謙った人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」
三つ目の点を見たいと思います。何でしょうか。
謙虚さは、永遠の命を私たちの内に確かにし、やがて天の御国で、父なる神、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神という愛に満ちた三位一体の神との、これ以上ない麗しい交わりに与らせる知恵を私たちに与えます。
今までの話から分かりますように、傲慢さや高ぶりは、永遠者・絶対者なる真(まこと)の神の前で私たちを愚かな者にし、神に一層嫌われる者にします。実際には、傲慢さは私たちを人からも嫌われ、陰で笑われる者にします。
一方、謙虚さは、私たちを自ずと心優しい温和な者にしますので、この社会でも色々な人から好意を持たれやすい者にします。
それだけではありません。傲慢さと謙虚さは、死後の永遠の世界とも大いに関係します。
傲慢な人は、自分を過信して自分を省みず、神を恐れず、人をよく批判し、人をよく裁きます。けれども、死後、それらは全てそっくり自分に返って来ます。イエスは言われました。マタイ福音書7:2「あなた方は、自分が裁く、その裁きで裁かれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです」と。
一方、神の前に謙虚な人は、自分の弱さも罪深さもよく知っていますので、人に対しても優しく、憐み深くなります。そして、弱い人や苦しむ人のために熱心に神に祈り、支えて上げようとします。その全てを神はご存じです。そして死後、神は謙虚な人を大いなる憐れみをもって天の国へ歓迎し、永遠に祝福して下さいます。イエスは言われました。マタイ福音書5:7「憐み深い者は幸いです。その人達は憐みを受けるからです。」
ここで、念のために確認しておきます。謙虚さは、気の弱いことではありません。また、周囲のどんな問題にも沈黙することではありません。主イエスは神の独り子ですのに、何と謙ったお方でしょうか。けれども、パリサイ人たちや律法学者たちのひどい偽善に対しては、マタイ福音書23章が伝えますように、イエスはとても厳しくそれを非難されました。そのままでは、彼らは永遠の滅びに至りますし、一般の多くの人たちにも悪い影響を与えるからです。こういう点はよく踏まえておきたいと思います。
謙虚さは他にも、例えば、罪と戦い、罪に打ち勝つ知恵や、むやみに人と衝突せず、もっと大切なことを優先して推し進める知恵も与えます。沢山あります。でも、今朝はこの辺りでやめておきます。
どうか、父なる神を真に恐れ、愛して、私たちに本当の謙りをお示し下さった御子・主イエス・キリストを絶えず見つめ、神の豊かな恵みに与らせる能力である知恵を、私たちも是非与えられ、またその知恵を増し加えられますように!
そのためにも、教会生活の中で謙虚さをますます互いに学び合い、知恵の源である聖書に皆で一層親しみたいと思います。