聖書の言葉 1:1 私たちの救い主である神と、私たちの望みであるキリスト・イエスの命令によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、1:2 信仰による、真のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。テモテへの手紙一 1章1節~2節 メッセージ 私たちを支え生かすとても大切なものの一つに、希望があります。仕事や勉強が大変でも、明日は休みが取れて、前からしたかったことができるといった希望がありますと、今日を頑張れます。愛について語るⅠコリント13:13は「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです」と言って希望を重要視し、Ⅰテモテ1:1も「私たちの望みであるキリスト・イエス」と言います。 そこで今日は、イエス・キリストが私たちの希望であられることを、改めて心に留めたいと思います。 希望にも色々あります。フランスのキリスト教的実存主義哲学者、ガブリエル・マルセルは、日常的希望と根源的希望の二つに区別しました。日常的希望は、明日晴れてほしいといった日常生活の中の具体的な目標に向けられます。一方、根源的希望は、私たちの実存、つまり、私たちの人格それ自体と結ばれています。聖書が「私たちの望みであるキリスト・イエス」と言う場合、根源的希望の意味においてです。 では、キリストは、特にどういう点で私たちの根源的希望でいて下さるのでしょうか。 第一に、私たちがキリストを自分の救い主として心から信じ、受け入れ、依り頼んでいるなら、いつ、どこで、どのように私たちが死を迎えようとも、神による永遠の裁きと滅びに至ることは絶対にないという希望です。 ヘブル9:27は「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」と言います。私たち自身は忘れていても、私たちの思いと言葉と行いにおけるあらゆる罪を憶えておられる神の法廷に、私たちは死後、必ず立たなければなりません。一体、誰が大丈夫でしょうか。 しかし、ここに私たちの希望、イエス・キリストがおられます。全く罪がなく、神の律法を完璧に守られた神の御子イエスが、私たちのあらゆる罪を背負い、十字架で私たちの代りに全ての裁きを受けて下さったからです。 私たちはいつか必ずこの世を去ります。しかし、恐れる必要はありません。ヨハネ3:18は言います。「御子を信じる者は裁かれない。」ここに確固たる根源的希望があります。 第二に、イエス・キリストには永遠の命の希望があります。事実、十字架の死の後、イエスは復活され、ご自分が永遠の命をお持ちであることを鮮やかに示されました。 永遠の命とは、私たちがただ永遠に生きるだけではありません。この世での私たちの疑問や苦しみの意味に全て神が答えて下さり、また私たちは忘れていても、この世で私たちが神にさせて頂いたどんな小さな良い行いであっても、その全てに洩れなく神が報いて下さり、御国(みくに)で神との交わりを永遠に喜びながら生きられることです。 元上智大学のA.デーケン教授は「ドイツやアメリカの病院やホスピスで、この永遠の命を信じる人が、最後まで希望に満ちた明るい態度をとるのにしばしば出会いました」と言われました。そうだと思います。キリストを信じる者には、永遠の命という根源的希望があるからです。ヨハネ3:36は言います。「御子を信じる人は永遠の命を持っている。」 第三に、イエス・キリストを信じる者には、この世でも希望があります。どんな苦難や試練にも耐えられるという根源的希望です。 主イエスを伝えたために多くの苦難に遭っていたパウロは、Ⅱコリント4:8、9で「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰ることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」と言いました。実際、彼はそれを体験したのでした。辛い苦難そのものは続いていましたが、彼自身は守られたのでした。「天においても地においても、全ての権威」を与えられた主イエスが(マタイ28:18)、彼を守られたのです。 前にもご紹介しましたが、病気のために10歳の時から、1984年に天に召されるまでの約37年間、首から下が全て麻痺し、一言も喋れず、五十音表への瞬きの合図だけで見事な詩を歌われた「瞬きの詩人」水野源三さんを守り続けたのも、私たちの悲しみや涙を全てお分り下さり、私たちが弱い時にこそ強くして下さるイエス・キリストでした。 水野さんが天に召される一月前の1984年1月に歌われた希望の歌を紹介します。 「聞こうよ、聞こうよ、ひよどりの声を。 見つめよう、見つめよう、雪晴れの空を。 温まろうよ、温まろうよ、柔らかな陽射に。 感謝しようよ、感謝しようよ、私たちを今日も生かして下さる神様に。」 私たちの根源的希望となって下さったイエス・キリストを改めて私たちの心と生活の全てにお迎えし、永遠のご計画に従って生かして下さる神に一切を委ね、落ち着きと希望、また感謝をもって歩んでいきたいと思います。 関連する説教を探す 2025年の祈祷会 『テモテへの手紙一』
私たちを支え生かすとても大切なものの一つに、希望があります。仕事や勉強が大変でも、明日は休みが取れて、前からしたかったことができるといった希望がありますと、今日を頑張れます。愛について語るⅠコリント13:13は「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです」と言って希望を重要視し、Ⅰテモテ1:1も「私たちの望みであるキリスト・イエス」と言います。
そこで今日は、イエス・キリストが私たちの希望であられることを、改めて心に留めたいと思います。
希望にも色々あります。フランスのキリスト教的実存主義哲学者、ガブリエル・マルセルは、日常的希望と根源的希望の二つに区別しました。日常的希望は、明日晴れてほしいといった日常生活の中の具体的な目標に向けられます。一方、根源的希望は、私たちの実存、つまり、私たちの人格それ自体と結ばれています。聖書が「私たちの望みであるキリスト・イエス」と言う場合、根源的希望の意味においてです。
では、キリストは、特にどういう点で私たちの根源的希望でいて下さるのでしょうか。
第一に、私たちがキリストを自分の救い主として心から信じ、受け入れ、依り頼んでいるなら、いつ、どこで、どのように私たちが死を迎えようとも、神による永遠の裁きと滅びに至ることは絶対にないという希望です。
ヘブル9:27は「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」と言います。私たち自身は忘れていても、私たちの思いと言葉と行いにおけるあらゆる罪を憶えておられる神の法廷に、私たちは死後、必ず立たなければなりません。一体、誰が大丈夫でしょうか。
しかし、ここに私たちの希望、イエス・キリストがおられます。全く罪がなく、神の律法を完璧に守られた神の御子イエスが、私たちのあらゆる罪を背負い、十字架で私たちの代りに全ての裁きを受けて下さったからです。
私たちはいつか必ずこの世を去ります。しかし、恐れる必要はありません。ヨハネ3:18は言います。「御子を信じる者は裁かれない。」ここに確固たる根源的希望があります。
第二に、イエス・キリストには永遠の命の希望があります。事実、十字架の死の後、イエスは復活され、ご自分が永遠の命をお持ちであることを鮮やかに示されました。
永遠の命とは、私たちがただ永遠に生きるだけではありません。この世での私たちの疑問や苦しみの意味に全て神が答えて下さり、また私たちは忘れていても、この世で私たちが神にさせて頂いたどんな小さな良い行いであっても、その全てに洩れなく神が報いて下さり、御国(みくに)で神との交わりを永遠に喜びながら生きられることです。
元上智大学のA.デーケン教授は「ドイツやアメリカの病院やホスピスで、この永遠の命を信じる人が、最後まで希望に満ちた明るい態度をとるのにしばしば出会いました」と言われました。そうだと思います。キリストを信じる者には、永遠の命という根源的希望があるからです。ヨハネ3:36は言います。「御子を信じる人は永遠の命を持っている。」
第三に、イエス・キリストを信じる者には、この世でも希望があります。どんな苦難や試練にも耐えられるという根源的希望です。
主イエスを伝えたために多くの苦難に遭っていたパウロは、Ⅱコリント4:8、9で「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰ることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」と言いました。実際、彼はそれを体験したのでした。辛い苦難そのものは続いていましたが、彼自身は守られたのでした。「天においても地においても、全ての権威」を与えられた主イエスが(マタイ28:18)、彼を守られたのです。
前にもご紹介しましたが、病気のために10歳の時から、1984年に天に召されるまでの約37年間、首から下が全て麻痺し、一言も喋れず、五十音表への瞬きの合図だけで見事な詩を歌われた「瞬きの詩人」水野源三さんを守り続けたのも、私たちの悲しみや涙を全てお分り下さり、私たちが弱い時にこそ強くして下さるイエス・キリストでした。
水野さんが天に召される一月前の1984年1月に歌われた希望の歌を紹介します。
「聞こうよ、聞こうよ、ひよどりの声を。
見つめよう、見つめよう、雪晴れの空を。
温まろうよ、温まろうよ、柔らかな陽射に。
感謝しようよ、感謝しようよ、私たちを今日も生かして下さる神様に。」
私たちの根源的希望となって下さったイエス・キリストを改めて私たちの心と生活の全てにお迎えし、永遠のご計画に従って生かして下さる神に一切を委ね、落ち着きと希望、また感謝をもって歩んでいきたいと思います。