2025年09月11日「神の業(わざ)が現れるために」
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神の業(わざ)が現れるために
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 9章1節~3節
聖書の言葉
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれた時から目の見えない人をご覧になった。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生、この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神の業(わざ)が現れるためです。」ヨハネによる福音書 9章1節~3節
メッセージ
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生れつきの盲人のことで、イエスは3節「この人に神の業(わざ)が現れるためです」と言われました。これは色々な角度からそう言えますが、今日は私が教えられたことをお話させて頂きます。
もう十数年前になります。私は妻と一緒に、大阪府堺市にあります国際障害者交流センターで開かれた障害者ピアニスト支援コンサートに行きました。その年、カナダのバンクーバーで開かれる第2回国際障害者ピアノフェスティバルに参加される日本代表70人の内、10人が演奏されました。少しご紹介します。
生れつき左手の指が全て欠損している38歳の女性。生れつき右手の親指が欠損し、脊椎の形成不全、そして心臓、腸、目、鼻、口にも先天性障害を持たれる中学1年の男子。小学4年の時の病気で右半身に障害が残り、右手の指が動かない高校2年の男子。24歳の時、小脳性失調症で体幹機能障害になった車椅子の女性。先天性視覚障害者の23歳の男性。右手首欠損と内臓疾患もある18歳のダウン症の青年。生れつき左手が肘までしかない女性。知的障害で運動能力が低く、手が小さく、小柄でペダルに足の届かないダウン症の娘さん。4年前交通事故に遭い、外傷性脳梗塞を発症し、奇跡的に命を取り留めたものの、左半身が麻痺している26歳の女性。そして広汎性発達障害(軽度の自閉症)の若い女性です。
ショパン、リスト、ハイドン、ベートーヴェン、ドボルザーク、チャイコフスキー、サン・サーンスの曲などを弾かれる彼らのピアノ演奏は、皆、素晴らしく、本当に感動しました。
私は色々教えられました。
一つは、失われたもの、ないものをただ嘆くのではなく、残された機能を精一杯用いる彼らの見事な努力です。先程言いましたが、生れつき左手の指が全部欠損している38歳の女性は、ピアノに体の左側が少し近くなるように、椅子を斜めにして座られました。鍵盤まで左腕が短いからです。そして左手に若干残っている突起部と右手の指5本で演奏されました。
生れつき右手親指欠損の中学1年生の男子は、右手の親指の欠けを、他の指で補い、見事に弾かれました。生れつき左手が肘までしかない女性も、その肘と右手で演奏されました。足がペダルに届かない何人かの方は、ペダルに器具をつけて演奏されました。
とにかく、ないものを嘆くのではなく、自分に残されているものを精一杯工夫して使われる彼らの努力に、私は本当に教えられました。
二つ目は、人に喜ばれ、人のために役立ちたいという彼らの熱い心です。
彼らの自己紹介文を一部紹介致します。「貴重な人生の一瞬一瞬を大切に、誰かの励みになるような音が出せるようになりたいです。」「将来は、全国の学校の子供たちに、生きる愛を届けに行きたいです。お世話になった人たちにありがとう。」18歳のダウン症の青年のことは、彼の親が書かれたのでしょう。「…人に喜ばれる素晴らしさを学んでいったようです。」
重い障害はある。しかし、人に喜ばれ、人のために役立ちたいという彼らの熱い気持、意識は何と尊いでしょうか。改めて私は大切なことを教えられました。
三つ目は、彼らの才能の芽を摘み取らず、育てようとする周りの人の意識の大切さです。
先程、ヨハネの福音書9:1~3を読みました。その後、神の御子イエスが、生れつきの盲人をお癒しになる記事です。
因果応報思想に基づいて、この人が盲人になった原因を尋ねた弟子たちに、イエスは3節「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神の業が現れるためです」と言われました。障害の原因を、誰が、どう悪かったのかなどと、否定的に過去に遡って探るよりも、逆に、神が将来、どんな恵みの業をされるのかを積極的に考え、期待することの大切さを、イエスは教えられたのです。
但し、神の業が現れるためにイエスが関られたように、通常、神は回りの人の温かい支援をお求めになります。実は、障害者の方々にピアノを教えるその指導者たちを育てるNPO法人もあり、障害のある方々の音楽の才能が見事に育てられています。
以上のことは障害のある方々に関してのことですが、誰にとっても大切な事を教えられると思います。
すなわち、自分に出来ないこと、ないものを嘆く以上に、自分に与えられていること、あるいは残されているものをこそ精一杯、それも人に仕え、人に役立たせて頂くために、生かすことの尊さです。また、他の人の可能性と賜物の芽を大事にし、温かく支援し、最終的には魂の救いを中心として「この人に神の業が現れるため」という主イエスの御言葉が実現していく、そういう教会を、また個々人を、ますます目指したいと思います。