2025年09月07日「福音の喜びに共に生きよう(振起礼拝)」

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福音の喜びに共に生きよう(振起礼拝)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 2章1節~4節

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2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情と憐みがあるなら、
2:2 あなた方は同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たして下さい。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分より優れた者と思いなさい。
2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも思いなさい。フィリピの信徒への手紙 2章1節~4節

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 毎年、私たちは9月の第一主の日に振起礼拝を捧げています。夏の暑さで心身がひどく疲れ、それに引きずられて信仰も弱り勝ちだった私たちですが、秋を迎え、また今年も残す所4か月となるこの時、改めて信仰を奮い起されたいという願いがあります。

 そこで、今朝の説教題は、当教会の今年の年間標語に基づき、「福音の喜びに共に生きよう」にしました。1月5日の新年礼拝で標語について説教をしましたが、再度、標語を振り返りたいと思います。

 まず、「喜び」という点に注目します。

 紀元1世紀の半ば過ぎ、神に導かれて使徒パウロはピリピの町の教会の信徒に2:2「私の喜びを満たして下さい」と書きました。ピリピの教会は比較的問題が少なく、良い教会でした。しかし、足りない点もありました。ですから、例えば、2節の前半で「あなた方は同じ思いになり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして」と、パウロは教えました。

 他にも足りない点がありました。そして、その一つが喜びでした。ですから、パウロは手紙の後半部分最初の3:1で「最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい」と教え、更に4:4でも「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と教えました。

 では、何故パウロは「喜びなさい」と、つまり、喜びに生きるようにと、教えたのでしょうか。

 その前に大事なことを確認しておきます。喜びといっても、単に美味しいものを食べ、何かが面白く、楽しく、物事がうまく運び、体調が良く、周囲の皆ともうまくいっているといった喜びではありません。無論、それらも感謝なことであり、喜びです。しかし、3:1や4:4から分りますように、大切なのは「主にあって」の喜びです。すなわち、救い主であられる主イエス・キリストに信仰により結ばれていることによる、もっと根本的な深い喜びです。

 それはどんな喜びでしょうか。神が、天地創造の前から私たちを一方的に愛し、選び、ご自分の御子を救い主として私たちに与え、御子イエスへの信仰の故に私たちの罪を全部赦し、義と認め、ご自分の子とし、きよめ、永遠の天の御国を下さる故の喜びです。

 このことをパウロはエペソ人への手紙 1:3後半から5節にかけて書いていますので、そこは、是非、皆様とご一緒に見たいと思います。「神はキリストにあって、天上にある全ての霊的祝福をもって私たちを祝福して下さいました。すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前(みまえ)に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、御心の良しとするところに従って、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもって予め(あらかじめ)定めておられました。」

 パウロがここに書いたことは、まさに福音です。ここをじっくり読み、よく思い巡らしますと、何と感謝に満ちた大きな喜びを私たちは与えられることでしょうか。

 主にあっての喜びは、飛び跳ねるような喜びではないかも知れませんね。けれども、音楽にたとえますならば、大きく変化するメロディを絶えず下でしっかり支える低音部のように、静かではあっても深くドッシリとした土台のような喜びです。

 主にあっての喜びは他にもあります。例えば、神の憐みは私たちにとって何と感謝に満ちた大きな喜びでしょうか。旧約聖書の詩篇103:8は次のように歌います。「主は憐れみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。」103:11~13もこう歌います。「天が地上遥かに高いように、御恵み(みめぐみ)は、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。父がその子を憐れむように、主はご自分を恐れる者を憐れまれる。」

 実際、神の憐れみは、私たちにとってどんなに慰めに満ちた大きな喜びでしょうか。この神の憐れみがあるからこそ、私たちは繰り返し罪を犯す者ですのに、ただ主イエスへの信仰の故に、今朝も私たちは生かされ、教会で御言葉(みことば)を聞き、共に祈り合い、賛美することができます。

 そこで話を戻します。

 大切なことは、パウロがピリピの教会の信徒たちに、3:1「最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい」とか、4:4「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と教えましたように、先程確認しました福音の故に、私たちが本当に喜びつつ生きることです。

 では、どうして私たちは喜ぶべきなのでしょうか。

 その理由の一つは、福音の喜びは、私たちの魂を安全に守るからです。パウロは言います。3:1「最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなた方の安全のためにもなります」と。

 ピリピの教会には、すぐあとの2節以降から分りますように、ユダヤ教的な戒律主義、儀式主義に引き戻そうとする異端者たちも入って来ていまして、教会員をイエス・キリストの正しい福音から遠ざけ、引き離し、彼らの魂を滅ぼす危険がありました。

 実際、私たちクリスチャンは、福音の喜びにシッカリ生きていませんと、異端的な教えを初め、この世からの巧みな誘いに引き込まれる危険が今も十分あります。

 しかし、福音の喜びに本当に生きているならば、私たちは、何が神から来たものであり、何がそうでないかを識別でき、まやかしものに捉えられることは決してありません。福音の喜びに生きることは、ますます私たちを生ける真(まこと)の神の近くにおらせ、私たちの魂を安全に守ります。

 福音を喜ぶべき理由がもう一つありますので、それも確認します。

 それは、私たち人間を罪と滅びから永遠に救うイエス・キリストの福音を、多くの人によく証しできるからです。

 「私はイエス・キリストを信じています。教会に行っています」と他の人に言いましても、福音の喜びが希薄で、口にする言葉にも普段の生活にもあまり喜びがありませんと、私たちはイエス・キリストのきよくて温かい福音を人に証しすることはできない。

 けれども、無理をしてではなく、テサロニケ人への手紙一 5:16~18が教えますように、普段から私たちが、<いつも喜び、絶えず祈り、全てのことにおいて感謝し>、福音の喜びに生きていますと、どうでしょうか。人は多くの場合、笑顔と喜びのある真摯(しんし)な人に親しみを覚え、興味を抱き、近寄り、その人の話に耳を傾けます。

 特別に立派なことをするとかではなく、極自然に福音の喜びに生きているクリスチャンは、結果的に、人を永遠に救う福音を周りの人に証ししています。ですから、福音の喜びに生きることは、何と尊いことでしょう。神はこれを用い、人を救っていかれるのです。

 そこで、最後に福音の喜びに「共に生きる」点を覚えたいと思います。

 改めて言うまでもなく、私たちは皆、本当に弱い者ですね。余裕しゃくしゃくで生きているクリスチャンなど、一人もいません。私たちには皆、欠けや弱さがあり、失敗し、同じ罪を繰り返し犯し、情けなくて落胆し、エゼキエル書20:43が言いますように「自分自身を嫌う」、つまり、自己嫌悪に陥ることもよくあります。あるいは、健康を害し、心が深く傷つき、落ち込んでいる時もあり、辛うじて何とか生きているような時もあります。これが私たちの現実ではないでしょうか。

 ですから、かつてヒトラーの率いるナチスに抵抗し、39歳の若さで殉教しましたドイツ人の牧師、ボンヘッファーはこう言いました。「人が何をするか、何をしないかということよりも、何を耐え忍んでいるかという点に目を向けることを、我々は学ばねばならない。」

 特に教会の中では、人を見る時にこの視点を忘れず、お互いをよく理解し、赦し合い、慰め、励まし合うことが、本当に大切ですし、必要です。

 ヨハネの福音書14:2、3で言われていますように、主イエス・キリストがご用意下さっています<天の住い>に至るまで、福音の喜びに共に生きる教会を、絶えず皆で目指したいと思います。

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